第6話
ビールを運びスーパーで買った総菜に手を伸ばす。幾度か似た動作を繰り返してから俺はスマホを操作した。送信者は松原さんだった。予想外のことで俺はしばしその表示された名前に見入っていた。
それから用件はなんだろうと画面をタップする。文字を見ながらグラスを口に運ぶ。目に映る文言はいわゆるお礼で、この間は楽しかったとも書かれていた。最後には笑った顔の絵文字が一つ。これがなんとも愛らしく俺はフッと笑いをこぼす。それから画面を遠ざけたり近付けたりして画面上に指を這わせた。
一仕事終えたと息を吐き出すと、またスマホが震えた。こういった端末に慣れているのかと置いたばかりのスマホを掴む。良い暇つぶしと言うよりも、松原さんとのやり取りは良い酒の肴になったようだ。
俺は冷蔵庫からもう一本ビールを取り出した。
今日は義母との面会日。
頻繁に見せていた顔も今では月に一度程度になってしまった。生憎それをとやかく言う人もいない。介護老人施設『どんぐりの森』までの道程はいつもと同様だが、今日は少しばかり違って見える。一人じゃないのが理由だろう。
助手席には松原さんが座っていた。
「おいくつになられたんでしたっけ?」
膝の上に置かれたハンドバッグに手を添えたまま松原さんがこちらを向いた。
「え~と…八十八…だったか。ってことは米寿になるのか」言い終えた直後、俺はつい笑いを洩らして続けた。
「いや、もうそんな歳になるんだなって。こっちも年取るわけだ」
呆れたようにユラユラ顔を揺らすと松原さんが控えめにクスッと笑う。
「でも一緒に行きたいって言われたときはちょっと驚きましたね」
「すみません。ご迷惑なことお願いして」
前を向きながら俺は頭を振った。
「いえ、迷惑だなんて。少しビックリしただけですから」
横目に松原さんが俯くのが分かった。
「随分前に母親が他界しているので、そのくらいの年齢の人を見ると懐かしいというのか。こんな安易な理由でごめんなさい」
何でもないと俺は片手を離して振って見せる。うちの場合は義母もそうだが実の両親も健在だ。だから懐かしいなどと考えたこともない。義母にでも会って母親のことでも少し思い出してくれればと施設の駐車場に車を乗り入れた。
お決まりの受付を済ませ奥に設けられた待合室に向かう。月に一度は定期的に来ているため特に案内はない。とは言え女性を伴っての訪問は三年ぶりだ。おまけにこの施設の女性は妻の梨絵とも顔を合わせている。疑問の表情を浮かべたとしても何ら不思議ではなかろう。
待合スペースには十脚ほどのテーブルが置かれ数人が面会に訪れていた。知っている顔もあったので視線を合わせた際、俺は軽く会釈した。適当な椅子に松原さんと俺は腰を下ろす。
車椅子を押されて義母が現れたのはその数分後だった。
「
スペース全体に声が響き渡る。愛子とは義母の名前だ。元気そうな顔を見て腰を浮かせかけた俺に義母の目が待ったを掛ける。視線が交わらない。義母が見ているのは明らかに俺ではない。松原さんだ。
「
施設の人よりもさらに大きな声を出し義母は満面の笑みを浮かべる。こんな顔を見るのはいつ以来だろうか。戸惑いつつ咄嗟に違うんだと言いかけた時だった。横から松原さんが声を掛けた。
「おかあさん。お久しぶりです。お元気でしたか?」
思わず唖然となったが、ここで水を差しても仕方がないと俺は苦笑を交えて様子を見守った。傍から見れば親子にも見えなくはない。それとなく施設の人と目が合う。やはり俺と同じ顔をしている。松原さんは腰を落として義母の手を握っていた。
「元気だったよ。それはそうとそちらの男性はどちら様だったかね」
こんなことを言われたのも初めてではない。従って俺は何食わぬ顔で見知らぬ男役に徹することにした。
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