悲しき「N」

中村雨歩

悲しき「N」

 蝉の声を背に聞きながら、強い意志を持って透明な扉の前に立つ。その扉はガーっという重くもなく、軽くもない音を奏でながら、僕を招き入れるように開いた。


僕は、中学受験を志し、夏期講習に通う身だった。しかし、今、いるのは塾のある駅の小さな本屋にいる。


 1時間以上経っただろうか?


 夏期講習が始まる前に目的の買い物を終わらせ、何食わぬ顔で授業に参加する予定だった。しかし、もうとっくに授業が開始されているだろう。


 対峙しているのは、作者『遊人』、大人向けの漫画だ。


 その漫画の前にずっと立ち尽くしていた。1時間いや、10時間くらい経ったのではないかと思うほどに長い時間だった。


 かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂、一念岩をも通す、There is a will , there is a road 、義を見て、せざるは勇なきなり・・・。


 もう、よく分からないけど、自らを鼓舞する言葉を自身にかけながら、著『遊人』の漫画を手に取って、レジに向かった。


 鉄面皮のお姉さんがレジにいる。もう、歩みは止められない。鉄の塊のように重い本をレジのテーブルに置いた。


 「18歳未満には売れません」

 何の感情も感じられない。冷たい槍を胸に突き込むような言葉が放たれた。


 「18歳です・・・」

 もう、胸を突き刺されて、血反吐を吐いて倒れたいのに、最期の力を振り絞って、発した言葉は・・。


「売れません」


無下に突っぱねられた。


もう一度「じゅう・・」


「カバン」


 僕の背には、某有名中学受験塾の「N」の文字が縫い付けられたカバンが堂々たる姿で背負われていた。涙を堪えて、嘲笑するガラスの扉をくぐった。


 5時間後、冷徹女子が本屋から出た。レジにはお爺さんの店員が一人。僕は意を決した。いけない事だと知りながら。


本屋に入ると真っ直ぐ『遊人』著の本を取り、レジを通らずに店を出ようとした。


「会計終わってないよ」


「すいません。お店の前の本も買いたくて」


僕は、本屋の外の棚に並んでいる『小学6年生』と『遊人』を置き換え、『小学6年生』を買って帰った。過ちを犯さずに済んだ。








 




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悲しき「N」 中村雨歩 @nakamurauho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画