episode.42 はじめての嘘
「なんだか外に出るのが久々な気がします」
無言で居続けるのも何となく気まずい気がしたので、彼に話しかけてみる。
「そうか。今日は顔色がいいな」
彼は真っ直ぐ進行方向を見たまま答える。
「そうですね。少しずつ体は良くなってきている気がします」
それから暫く特に会話もなく無言の時間が続いた。
そのうち、あまり舗装が行き届いていない道に入った。凸凹があったり、大きな石が転がっていたり、少しぬかるんでいたり。不安定な道のせいで身体がふわふわと揺れ、振り落とされそうで怖かった。
「……ノア様、一つお願いがあります」
彼は突然声をかけられ驚いたのか、リラの顔を一瞥すると、すぐに前へ向き直る。
「どうした? 何でも言ってみるといい」
「あの……。身体がふわふわして、不安定で怖いです」
「確かに道が悪いな。迂回するか」
「いいえ、大丈夫です。迂回すると余分なお時間を取らせてしまいそうですし。お身体に寄り掛からせて頂いても宜しいでしょうか?」
「……構わないが」
リラはその言葉に遠慮なく甘えさせてもらうことにした。細く見えるのに、しっかりと筋肉が付いている体に自身の体重を預けると、身体がずっと楽だった。身体がくっついているところがほんのりと温い。
「ノア様」
「なんだ」
「温かいですね」
「……そうだな」
リラは彼の胸にぽんと頭を乗せた。彼はリラの腰を支えていた手を肩に添え、そっと自分の方へ引き寄せた。近くで感じられるようになった、彼の体から漂う、ほろりと苦くて果実のように芳醇な甘い香りにリラは深い安堵を覚え始めるようになっていた。どちらのものかもわからない心臓の音が静かに拍を打っていた。
「着いたぞ」
先に軽々と馬から降りたノアが、リラに手を貸してくれる。
「ここが結界の森の入り口――」
ふわりと土の上に降り立ったリラは深呼吸をしてみた。
澄み切った森の特有の爽やかな空気。息を吸うたびに柔らかい緑の香りが胸一杯に広がっていく。鳥がチュンチュンと可愛らしく囀り、木々の間を楽しそうに飛び回っていた。森林の隙間からは木漏れ日が溢れている。木の葉の緑色はどれも一つ一つ違っていて、全く同じ色のものは無い。小道では色とりどりの小さな花がそれぞれに居場所を主張している。
周りを見回しながら足を進める。ノアにとっては見慣れている景色らしく、気に留める様子も無くリラの右側を歩いていた。結界の直ぐ近くまで来た時、彼は足を止めた。
「この辺りで少し待っていてくれるか。周囲の見回りを済ませる」
「はい。分かりました」
リラに言い残し、ノアは草が生い茂る脇道の方へ逸れていく。彼の姿が見えなくなってから、リラは結界のギリギリまで近づいてみた。
「これが結界……」
手を伸ばし、結界に触れてみる。
一見何も無いように見えるが、確かに透明な壁のようなものがあるのが触れて初めて分かる。リラはペタペタと結界に触れていく。
(どういう構造なのかしら。向こう側にはいけなくなって…………え?)
――硬い壁のようなものに触れていたはずの手が、するりと向こう側へ通り抜けていた。
(……なに、これ……?)
怖くなったリラは咄嗟に手を引っ込める。禁忌を犯してしまったような気がした。顔から急速に血の気が引いていく。背中に嫌な汗が流れ始める。人の目が無いことを急いで確認し、もう一度手で触れてみる。
またしても、リラの手は向こう側へ通り抜けていた。
(……どうして結界が機能していないの?)
此方側に手を引く。すべすべとした結界の肌合いまで手を引っ込めた時、頭に電流が流れるような感覚が走った。
「…………ぅ」
膨大な量の映像が一度に頭の中に流れ込む。頭を殴られたような鈍い頭痛に襲われる。情報量に耐えられず頭が割れそうだった。
(わたしは、だれ?)
現実と記憶の境界が入り乱れていき、意識が混濁し始める。開けてはいけないと厳封された箱に、自ら鍵を差し込んだ代償は大きすぎた。一度蓋を開けてしまった箱はもう閉じることができない。
全ての映像に銀白色の髪に緑の瞳をした少女が写っていた。
(貴女は、誰?)
同じ銀色の髪をした女性と手を繋ぎ幸せそうに笑う少女。女性からの愛を一身に受けてすくすくと成長していく少女。ベッドに横たわるその女性の隣で泣き崩れる少女。執事から手紙を受け取り目に涙を浮かべる少女。多くの人から慕われ敬われている少女。人々にいつも穏やかな微笑みを向ける少女。
(ちがう、これは)
――そして一人、血溜まりの上を歩いている少女。
(これは)
凛とした可憐な少女は淋しい石畳の廊下でこちらを振り返る。
幾重にも重なった漆黒のドレスのスカートが翻る。段々と白くなっていく背景の中、黒い少女だけがくっきりとそこに姿を残している。
悲しい笑みを向けた少女は陶器のように滑らかで白い頬の上に大粒の涙を落とす。映像の中の少女はリラに語りかける。
「もう分かっているのでしょう?」
(これは――)
「――私はリラ・レオリス・アルベール。
王家の血を引くことを隠して生きてきた、たった一人のレオリスの王女」
(これは、私の過去の記憶)
水の中に落ちていくように、身体がゆっくりと後ろに傾いていく。目の前が暗くなっていく。
「リラ!」
倒れると思った瞬間、誰かが身体を強く支えてくれた。光沢のある黒い髪が視界に入る。
「……のあさま」
「私が目を離した隙に何が」
焦燥と心配が隠しきれていない顔をした彼と目が合う。
リラは見たものの全てをもう一度無理やり箱の中に仕舞い込む。そして、決して開くことがないように鍵を掛け直す。残酷な現実と向き合うのは先延ばしにしたかった。
――今までと何一つ変わらぬように、記憶を取り戻した事を悟られないように、振る舞わなければ。
「…………少し眩暈が。体の調子がまだ良くなっていなかったみたいです」
リラは初めて、彼に嘘をついた。
「早く気付いてやるべきだった。急ぎ屋敷に戻ろう」
余裕がなさそうな彼は急いでリラを抱き上げた。彼の腕の中でリラはぼんやりと森の木々を眺めながら尋ねる。
「結界に異常はありませんでしたか?」
「ああ。何も問題は無かった」
きっぱりとした返答に嘘偽りを言っている気配は無かった。リラの胸は終始騒ついていた。
「……そうですか。良かったです。本当に……」
真剣な顔で手綱を握る彼とともに馬に揺られる。リラは自分自身の心が此処ではない遥か彼方へ行ってしまったように感じていた。
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