episode.19 優しい音

 木々を抜けたところに置かれているベンチに腰掛けた彼は、リラに隣に座るよう促す。そして、ショールを胸に抱えているリラの前に手の平を出した。

「その前に、だ。それを貸してくれ」

「え? これですか?」

 リラが指でショールを指すと、彼は小さく頷くのだった。先程断られたばかりのショールをおずおずと彼に渡す。受け取ったショールを一旦自身の膝の上に置いた彼はリラと向かい合う。


「失礼」

 突然上着が取り上げられたかと思えば、すぐにショールを肩に掛けられる。左右をクロスさせ、上に重ねたショールを下から潜らせる。解けないよう、もう一周穴に潜らせてから結び目を整える。

 薄いショールに長い指先が触れるたび、リラは胸がどきどきとしてしまうのだ。それだというのに、彼は至って変わらぬ調子であることがちょっぴり悔しかった。手元から目を逸らし、肩が力んでしまっていることを悟られないよう、必死で何食わぬ顔をした。

 ものの一分も経たないうちにショールは結び終えられる。


「これで良し」


 ノアの手が離れる。完成したショールは手早く結ばれたものとは思えないほど、左右の長さが完璧に揃っていた。髪飾りを付けてもらった時にも感じたが、ノアは本当に手が器用らしい。感心しているリラの肩に上着を掛け直しながらノアは話し始める。


「この国の国境付近の大まかな地理については分かるか?」

 用が済むとノアはベンチに真っ直ぐ座り直した。

「帝国の国境付近、というと……。四方どこを取ってもすごく特徴的であると記憶しております。

 

 東側では大きな川が流れていて水運が盛んですよね。西側は森が広い面積を占めていて、隣国のレオリスとの国境に結界がありますね。北側には確か山脈があって、鉱物がよく取れるので大きくこの国の経済に貢献している、とか。そして南側は海に面している。他国からの侵入を許さない、自然の要塞が備わっている国、という認識です」


 時折頷きながら目を閉じて聞いていた彼は、リラの話が終わるとゆっくりと目を開けた。

「……よく知っているな。私が改めて説明するまでもなさそうだ」

「自分自身の関する事は全く思い出せないのですが、過去の私がどこかで得たらしい知識だけは、不思議なことにはっきりと思い出せるのです」

 リラは自分の胸に手を当てた。

「そうだったか。思いがけぬ幸いだな、それは」

「はい。記憶がない分を、知識で補っているところはとても大きくて……。それはそうと、この国の地理が、お話の内容に関係するのですか?」

「ああ。結界付近で少し問題が起きた」

「問題?」


 彼は乱れていた前髪を右手で整えると、体を前のめりにして長い指を組んだ。視線は真っ直ぐ今二人で歩いてきた道の方へ投げられている。



「――西の森の結界が破られた」



 リラはその言葉が意味するところをすぐに理解することが出来なかった。結界と呼ばれているものが破られた事など過去に一度もなかったと、記憶しているからだ。

 

 彼は続ける。


「結界が破られた箇所から大量の魔獣が帝国側に放たれたらしい。故意か過失かは不明だが、おそらく隣のレオリス王国の仕業だろう。そしてその魔獣達が今、西の地域の住人たちに莫大な被害を与えている」


 リラは何も発する言葉を見つけることが出来ず、ただ茫然として彼の方を見ていた。彼は淡々と、しかし慎重に言葉を選びながら言った。


「私も魔獣というものの生態については詳しく知らないのだが、放っておけば瞬く間に数が増えていくらしい。そうなれば、国全体が甚大な被害を被ることになる。早急に根絶やしにしておかねばならないのだが、西側の衛兵達だけでは兵力、戦力ともに不足している状況だ。

 

 ――そこで我々、帝国騎士団が現地に赴く事になった」


 リラは肩にかけられた分厚い上着を思わず握り締めた。

「……結界が破られたことなど、結界が成立してから一度も無かったことでしょう」

「その通りだ。結界破りの方法なぞ検討がつかない。その上、魔獣が大量に流入させた後、すぐに再び結界を張り直した形跡が残っていた」

「張り直す……? 魔獣を使って国を侵略したいと考えるのならば、結界を破った箇所から魔獣を流入させ続ける方法を取るのではないかと。どうして張り直したんだろう」

 眉を寄せながらノアは言う。

「同感だな。王国がしていることには不可解な点が多すぎる。向こうの意図が全く読めない」

 リラは不安げに彼の横顔を眺めていた。

「相手の目的が分からぬ上に、生態が未知の生物である魔獣の討伐とは……。私にはあまりにも危険な任務だと思えてなりません」

「そうだな。私自身、何が起こるか予測できない」

「それに、帝国軍を誘き出す為の罠の可能性もあります。再度大量の魔獣が放たれるやもしれません。まだ情報が不足しすぎています。帝国側が圧倒的不利な状況で、出立されるというのですか」


 座ってからずっと遠くの方を見ていた彼は体を起こし、リラと目を合わせる。紫紺の瞳には凛とした意志が宿されている。

「ああ。此方側が不利な状況であることは承知の上で、だ」

「騎士団には精鋭が揃っているといっても、これはあまりにも……」

 彼の上着を握りしめていたリラの手の上に冷たい手の平を重ねた。その手はリラの手よりもずっと大きく逞しかった。


 

「少し長く家を空けるだけだ。


 ――私が戻った暁には、またいつものように貴女の話を聞かせてくれないか」



 彼の口から紡がれたのは、余りにも優しい音で――



 リラは自分の無力さに苛まれながら、深く頷くことしか出来なかった。




 翌日。まだ暗い内に屋敷を出ようとしていたノアを呼び止める。

「お待ち下さい!」

 リラは昨夜のドレスから着替えていなかった。とろみがある生地のスカートが脚を動かすたびに絡む。裾を上げ階段を駆け降りる。誰かに声を掛けられるとは思っていなかったノアは、息を切らし階段を降りてきたリラの姿を認めると目を見張った。

「良かった。間に合って」

「……どうして」

 月白の騎士服に身を包んだ彼はえも言われぬ壮麗さだ。暗色の服を普段から好んで着る彼が白い服を着ていると、まるで別人のようにすら見える。リラは彼の元へ駆け寄った。

「これをお渡ししたくて」

 一枚の白いハンカチを差し出す。彼は綺麗に折り畳まれたハンカチを受け取った。

「広げても構わないか?」

「勿論です」


 彼の手の平の上で開かれたハンカチには純白の絹糸で、幾何学模様とも異なった複雑な模様が刺繍されている。

「…………聖紋」

 彼はささやかに呟く。今では殆ど使われることはなく、その存在すら知らない人が大多数であるというのに、直ぐに言い当てる見識の広さは流石としか言いようがない。

 自分に出来ることはないかと考え、居ても立っても居られなくなったリラは取り急ぎ自身の記憶に残っていた聖紋を刺繍したのだった。

「私には何も出来ることが無いので、せめてこれだけでもと思って」

 彼は刺繍の上に長い指を滑らせる。

「大変だったろうに。短時間でこんなに複雑なものを作るのは」

 顔を上げた彼はリラと目が合うと、口元を綻ばせた。今までの無表情な彼からは決して見る事ができなかった表情に、リラの胸は騒めいた。

「礼を言おう」

 彼は丁寧にハンカチを四つ折りに畳み直し、騎士服の内側に大切なものを扱うように仕舞った。


 それを見届けたリラは右脚を後ろに引き、膝を折った。

「お気を付けていってらっしゃいませ」

「ああ。留守の間を頼んだ」


 白いマントを翻し、ノアは屋敷を後にした。玄関の扉が完全に閉まるまでずっと、リラは白い後ろ姿を目で追い続けた。



 

 リラは部屋に戻るとベッドに倒れ込んだ。夜通し裁縫をしていた疲労が一気に身体に降りかかる。机の上には布や針が散らかったままだったが、片付ける気力も湧かなかった。


(お渡し出来て良かった……)


 体を横たえ微睡んでいると、嗅ぎなれない柔らかい香りを遠くに感じた。ノアの上着に濃く染み付いていた香水の匂いが、ショールにまでほんのりと移っていたらしい。

 胸の辺りにきている結び目に両手を重ねたまま、すっと瞼を閉じる。うっとりとする程に芳しい香りはリラを深い眠りへと誘い込んでいった。




────────────────────────────────────

【あとがき】

ご訪問ありがとうございます。

これにて一章が終了となり、次回から間話へと移って参ります。


もしよろしければ、ブックマークや⭐︎のクリック、♡などで応援頂けますと、とっても励みになります。

少しでも楽しんで頂けていれば幸いです。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る