episode.18 ずっと見たかったもの

 リラがノアに拾われてからニヶ月が経つ。

 

 ノアは近頃騎士としての仕事が忙しいらしく、家を空けることが増えた。また、帰宅しても深夜であることが多く、朝早くには仕事場に戻ってしまうので、リラは彼と顔を合わせることが殆ど無かった。



 部屋のドアがノックされる。

「リラ様。いらっしゃいますか?」

 リラが部屋の扉を開けると、そこにはいつもよりも難しい顔をしたリオンが立っていた。

「どうかなさいましたか?」

 気難しい表情を崩した彼はたちまち普段通りの表情に戻る。

「お伝えしたい事が御座いまして」

「何でしょうか?」

「ノア様から連絡が有りました。今日の夕時には帰宅できそうなので、夕食を一緒にどうかとの事です」

 彼の方から食事に誘われたことは未だ無かったので、リラは意外な顔をする。

「あら。本当ですか? 是非ご一緒したいとお伝えしていただいてもよろしいでしょうか」

「ええ。承りました」

 深く頷き、リオンはリラの返事を受け取る。リラがノアとゆっくり顔を合わせることになるのは、華やかにドレスアップをして食事をしたあの日以来だった。



「リラ様、旦那様がお戻りになられましたよ」

 一階に様子を見に行っていたメアリの報告を受け、リラは自室を出て早足でエントランスに向かう。ちょうど階段を降りている時、エントランスに入って来たノアの姿が見えた。


「お帰りなさいませ」


 リラは華やいだ笑みで彼を迎える。

 身に纏っている紺色のイブニングドレスは丈が長く、リラが階段を降りるたびに二段分ほど遅れて裾が付いて来る。肩出しのドレスの上に、黒いレースで出来たショールを羽織っている。スカートのボリュームは抑え目で、どちらかといえば直線的なデザインだ。髪には小さなパールが幾つか飾られている。

「……ああ、今帰った」

 ノアは身に着けていた黒い革手袋を外してリオンに渡すと、階段から降り立ったリラに目を向ける。

「待たせてしまい悪かった。共に食堂に向かおう」

 ノアはリラの方へ手を差し出す。リラは大きな手の平の上に自身の手を乗せる。長い指が美しい手はひんやりとしている。


 裾が長いドレスのためか、ノアはリラが歩きやすいように随分と配慮してくれているようだった。長い廊下を優雅に歩いていく。踵が高いヒールが床を踏み締めるたびに音を立てる。無言で居ることに耐えかねたリラは彼に話しかける。

「外は冷えていましたか?」

「それほどでもなかったと思うが」

「そうでしたか……」

 ノアは納得がいっていない様子のリラに、

「腑に落ちていないようだな」

「はい。すごく冷たい手をしていらっしゃるので」

「ああ……。私の体温が人よりも低いせいだ。気温は関係ない」

 話しているうちに食堂に到着する。いつかと同じ席に夕食の用意がされていた。ノアは自らの手で椅子を引き、リラを座らせた後、ゆったりと席に着いた。



 食後、紅茶と共にお茶菓子が運ばれてくる。

 リラは艶々とした四角いチョコレートを指で摘み、口に運んだ。ほんのりとビターなチョコレートの内側には、柔らかいナッツのペーストが包まれている。カカオの香りが良く、幾つでも食べられてしまいそうだ。

「それが気に入ったのか?」

 紅茶を啜っていたノアにふと尋ねられる。口の中にまだチョコレートが残っていたリラは黙ったままこくこくと頷く。

「これも食べると良い」

 全く手が付けられていない小皿がすっと前に置かれる。

「お一つだけでもいかがですか? とても美味しいですよ」

 チョコレートを食べ終えたリラが皿を押し返す素振りを見せると、ノアは皿の縁に指を添え首を横に振った。

「私は食べないから、代わりに食べてくれ」

 皿を返そうとするもノアが頑なに拒むので、リラは有り難く貰っておくことにした。

「じゃあ……、頂きます。ありがとうございます」

「ああ」

 ノアは小皿から手を離す。

「この後、何か予定はあるか?」

「いいえ。特にございません」

「ならば少し私の話に付き合ってくれるか」

 珍しい誘いにリラは顔を上げる。

「はい! 喜んで」

 リラは皿に載っているチョコレートを頬張る。先程のものよりもミルクが多めで甘味が強かった。

「慌てなくていい。時間は十分にあるのだから」

 言いながらノアはティーカップに紅茶を注ぎ足した。



 夕食を終えたリラは再びノアと屋敷の広い廊下を歩いていた。ノアはリラをエスコートしているのとは反対側の手で、手提げのランプを持っている。

「どこに行くのですか?」

 コツコツと硬い靴音を鳴らしながらノアは答える。

「屋敷の裏庭に出たことはあるか?」

「いいえ。屋内はリオン様に一通り案内して頂きましたが、裏庭には行ったことがありません」

「そうか。ならば丁度いい」



 廊下の終わりにある扉を押し開くと、ノアはランプを持ち上げる。眩い穏やかな光が闇が取り払う。

 

 目の前に、鮮やかな薔薇が咲き誇る手入れが行き届いた庭園が広がる。鮮やかな色で、ささやかな花々が存在を主張する。秋冷に耐え忍ぶかのように、幾重にも花びらが重なっていた。青々しくも甘い草花の香りが庭を充している。

 その光景は満点の星空と相まって、ひどく幻想的だった。


「……何だか夢の中にいるみたいですね」

 澄み切った星空を眺める。ふわりと吹く風が肌を撫でていく。冷たく乾いた夜の風は季節の移ろいを感じさせる。微かに肌寒さを感じ、ハラハラと風に靡いている薄いショールの結び目を掴んだ。


 後ろから声が掛かる。

「寒いか?」

 リラは空を仰いだまま応じる。

「これくらいなら平気です」


 星空に気を取られているリラの肩にずっしりとした重みがかかる。

「わ……!」

 夢心地だったリラは一瞬で現実に引き戻された。見ると、自分には大きすぎる上着が肩にかかっていた。リラは振り返る。髪に飾られたパールからしゃらりと小さな音が立った。



 ダークグレーのシャツにベストという軽装になった彼もまた、夜の色をした瞳で空を眺めていた。ベストに付いている銀のボタンがランプの灯を反射して煌めく。相変わらず前髪で隠された表情は動かないままだ。

「いけません。ノア様のお身体が冷えてしまいます」

 上を向いたまま彼は答える。彼の体に丁度合うように作られたベストが、隠されていた細い腰回りを強調している。

「貴女を此処に連れ出したのは私だ。風邪を引かれては困る」

 上着には少し温もりが残っている。穏やかな生命の温かさにリラは安心感を覚えた。彼の服に濃く滲み付いた、妖しさすら感じさせる神秘的な香りは街に出た時よりも一段甘さを増している。ベースに混ざっている甘い香りの一つはおそらくバニラだろうか。



「あの」

「なんだ?」

 黙って星空を眺めていた彼は首を動かした。

「大変恐れ多いのですが……、こちらをどうぞ」

 大きな上着を羽織ったまま、肩に掛けているショールを抜き取ったリラは彼にそれを差し出す。

「私のショールをお貸し致します。上着をお借りしてしまっているので」

「……………………」

 エメラルドの瞳とバイオレットの瞳の視線が交錯する。沈黙が暫し二人の間を流れていた。風に靡いた葉がサワサワと音を立てる。



 先に沈黙を破ったのはノアだった。

 


「ははっ」



 鮮麗な相貌が崩れていき、彼の顔に貼り付いていた鉄の仮面が剥がれ落ちる。見たことが無い表情は、一瞬にしてリラの目を奪った。


 黒い髪の青年は口元に手を当て、心底楽しげに笑っていた。控えめに開かれた唇の隙間から綺麗に並んだ白い歯が覗く。長い睫毛が彼の頬に小さな影を落としていた。



 ――ああ、そんな風に笑うんだ。


   この人が笑っている所を見てみたいと、ずっと思っていた。



 ふと吹いた風が彼の艶やかな前髪を攫い、僅かに崩した。

「そんなに気を遣わなくて良い。それに、そのショールは寒さを凌ぐのには適さないと思う」

 彼は崩れた前髪もそのままにリラに話しかける。心なしか口調が柔らかくなっていた。

 どぎまぎとしながら、リラは差し出したショールを自分の方に引き戻す。

「あ……、言われてみればそうですね」

「でも気持ちだけは有難く受け取っておく」


 上機嫌そうなノアは真っ直ぐ薔薇の木々の間を抜けていく。ランプを持っている彼に置いていかれないよう、リラも後ろに続いた。


「ところで、お話とはなんだったのですか?」

「そうだな。そろそろその話をしよう」

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