第九話 パンツに騙された

 今日はついに無断で練習をサボった。イップスに陥り、キャッチボールでも暴投する今の俺は練習に行っても意味がない。十六時。とっくに練習を始めている時間にそわそわと落ち着かないが、帰るほどの勇気はなく、俺の足は教室に向かっていた。


 俺の机の上に一冊の本が置かれていた。夜のように深い濃紺の皮で思わず手に取ると、表紙には金色の文字で『出会い帳』と施されていた。肌ざわりはざらざらとも、すべすべとも言えず、ただ妙に手にしっくりきた。それが自然な行為のように、つい表紙をめくってしまった。


『親愛なるみづき 君との沖縄を忘れない ××―××―×××―××× John』

『美月さんへ また会えることを楽しみにしています △△@△△.jp 嶋崇』


 思い立ったらメモを書く習慣があるようで、あまり人目に触れない方がよさそうだから持ち主を待つことにした。持ち主は外国にも友達がいるアクティブな人のようで、人と知り合う時に内面から入るのも珍しいから、不思議な昂揚こうようを感じ始めた。


 ……それにしてもこない。一通り目を通すと、唯一見ていないページが気になる。背表紙に黒い布のゴムで束ねられている最後のページ。この先有料の無料コンテンツのように期待を煽られる。ここまで読んだら一緒じゃないか? 誰のノートか確認したかったとでも言えばいい。


 ノートをひっくり返して布ゴムを外した。途端、メモが落ちる。空中でキャッチできたそれを見ると、「☺^☆×♡-1=0」と数式のようなものが書かれていた。何かの暗号だろうか。隠されていた一番後ろのページには、小説のように縦書きで、右から左に細い字が書かれていた。これ男子のだったのか。


 教室の扉ががらりと勢いよく開き、俺は急いで本を閉じた。


「あ! ってそれ……読んじゃった?」

「あ、はい。ごめんなさい」

 あああ、と早瀬さんがしゃがんでパンツが見えそうになり顔を逸らす。

「律?」

 六反田の足音がなくてビビった。六反田は早瀬さんのことを律と呼ぶのか。少し羨ましい。


「あー、見つかったんだけどさ。読まれちゃったみたい。その、最後まで」

「そっか、大丈夫だよ」

 六反田は早瀬さんをなだめている。

「ごめん。佐藤の机に最終兵器をしかけた時に……」


 ごにょごにょ言っているので机の中を見ると、バンドに入るメリット十個というチラシが入っていた。十匹の猫に吹き出しがついた商店街のチラシクオリティー。最終兵器よっわいな。


「で、佐藤くん。君はこのいたいけな少年の秘密を見たわけだ。そして今」


 突然片手でスカートの端を掴み、ニカっと笑った口に挟んだ。もちろんパンツはそのサイズも形も、桃色の(桃色と表現するのはなんとなく卑猥に感じるが)レース模様も、サイドの紐の蝶々結びも見えている。その上に見えているお腹は真っ白で、薄いけどふわふわしていそうな見た目だ。……まずい。男兄弟の我が家ではどうやったって拝めない。


「ウチのパンツも見た。これは仲間になるしかない」

「恐喝まがいな」

 助けを求めて六反田を見ると、ふっと視線を外された。組織ぐるみかよ。


「だって。全然折れてくれないし。ロクのご指名だし。歌詞書いてくんない? 部活の邪魔にならない範囲でいいし、一曲でいいし!」

「分かった。分かったから、いい加減スカート降ろして」


 野球馬鹿には刺激が強すぎる。早瀬さんは「るいるい最高!」と勝手なあだ名をつけて喜んでいる。


「あーもう、全然期待しないでね」

 早瀬さんにはこちらが折れないといけないんだろうと考えていると、急に顔が近づいてきた。

「やっぱり、超エロかった?」

 パンツのことを言われたのかと思って焦った。脳裏には先ほどの台形が鮮明によみがえる。


「最後のページ、見たら駄目って言われてるの」

「ああ本か……いや、その真逆だったよ」


『僕は昔、人魚に救われた』という一文で始まった、一人の少年と人魚との出会い。それはとても幻想的で寓話的だった。恥ずかしくて隠しているんだろう。


 パンツに騙されて了承してしまったが、二人とつるむのは楽しそうだ。こんな気の迷いもいいだろうと悠長に構えていたのだが、そのまま早瀬さんに腕を引かれて美術室に連行された。


「みやちゃん、連れて来たよ!」

「はあ、誰を巻き込んだの? って佐藤くん? 認められないわ」


 プリントの山から顔を上げた宮村先生は、頭をわしゃわしゃとかいた。


「え! なんで?」

「だって佐藤君、野球部特待生じゃない」

「佐藤君、すごいね」

 六反田も知らなかったのか。


「うちが甲子園常連校って知ってるでしょ? 野球部は兼部、バイト禁止って決まってるのよ」

「なんでですか?」

「野球に専念しなさいってことじゃないかしら」


 俺が言った通りだ。「黙ってればいけるって」と言っていた笑顔はリスのように膨れていた。結局サー室はもらえず、練習場所は公園で継続することになった。

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