【完結】エイプリルフール・イブは今日もどこかで嘘をつく

灰田おゆ

プロローグ

出会い帳より 春夜の人魚

 僕は昔、人魚に救われた。春の夜、海での出来事だった。


 物心ついた時から僕には、ここではないどこかで歌いたくなる衝動があった。その時に頭に浮かんだメロディーをあてもなく歌う。黒い波の端は白いレースにふちどられ、足元に押しては引いていく。その波が手招きしているようで、気づけば僕は波の奥まで進んでいた。


 かかとの後ろの砂が波にさらわれ、自分が立っている場所にしか居場所がなくなる。重心がふらつく。あと一歩を踏み出した時、そこにあるはずの砂がなかった。


美月みづきくんっ!」


 必死な声が聞こえた瞬間、僕は黒くて冷たい波に飲みこまれた。



 気が付くと僕は誰かのひざの上に寝ていた。急いで立ち上がるとその女性の脚、らしきものは一本で、星明かりの下で濡れて淡く輝いていた。尾びれが水面をたゆたい、それはまぎれもなく本の中で見た人魚のものだった。髪は長く波打ち、毛先は濡れて束になっている。


 彼女が立ち上がって尾びれを掴んで水気を切ると、青白く光る二本の脚が覗いた。でも立つのもおぼつかなく、その場に再度座り込んでしまった。人魚? 思わず顔を見る。


「私? 私は美月くんを知ってる人。ここで歌ってたから」


 返ってきたあいまいな答えに、幼い僕は疑問を持てない。


「今日は星がたくさん見えるね」

「……月が出てないから」

「そっか」


 悲しい声につられて見上げた空には、こぼれてしまいそうなくらいの星が輝いていた。


「じゃあ美月くん、あそこのお店の人が温めてくれるから、行っておいで」

「海に帰るの?」

「海?」

「だって人魚……」


 しーっ、と彼女は口元に人差し指をあてるので、僕も急いで自分の口元を押さえる。この人魚は僕を助けるために人間になり、正体を知られては海のオキテに反してしまうのだと思った。当時の僕は傘で空は飛べるし、雲に乗れると信じていた。海に帰ろうとする彼女に対し、僕は口走っていた。


「いつかまた、一緒に星を見たい、です」

「……うん。いつか二人で旅をしましょう」


――ファーン。突如汽笛きてきの音が一面に鳴り響いて思考を忘れ、訳も分からないままお店に向かった。最後に振り返ると人魚はひらひらと手を振っており、その優美な動きに目を奪われる。お店ではおじいさんがコーヒーをいれてくれ、その苦さでここは現実だとやっと理解できた。


 翌日海に行くと、人魚のいた場所には砂があるだけだった。その翌日も、翌々日も会えなかった。なんとなく二度と会えないと分かっていた。そのくらい不思議な、嘘みたいな出会いだったから――



 中二の夏、僕は沖縄からの帰りの飛行機で「出会であちょう」に古い記憶をつづり終えた。何度も夢に見て、海で待ち続けて、幼い僕は人魚に恋をしていた。そして改めて書きつづると、やはり沖縄で出会ったラトリーは人魚だったと思えてくる。


「……僕は、歌うことが好きです」


 今朝、僕が変な告白をしてしまっても、ラトリーは穏やかに笑うだけだった。


「海の前で歌えばいいよ。そうすれば誰も聴いていない。――美月くんが歌うのに許可が必要なら、私が許すわ」


 僕は許された。思えばこれが、ラトリーが人魚ではないかと思ったきっかけだった。でも疑念をどうこうする間もなくラトリーとの別れはやってきて、一人で飛行機に乗り込んだ。ラトリーにもらった「出会い帳」を取り出すと、それが旅人同士で連絡先を交換するものだと思い出し、やっと掴んだ人魚の手がかりに期待してページをめくった。


『これからも歌ってね そうすればまた会える』


 残されたのは青いインクだけ。名前も連絡先も書かれていなかった。書くって言っていたのに、嘘だった。だから途方に暮れ、幼い日の思い出を書き連ねていたというわけだ。


 ふう。溜息をついて小さな窓の外を見ると、低い雲が眼下に広がっていた。歌い続けたらまた会えるのだろうか。でも僕は人前で歌えない。海の前でだけ。

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