生贄令嬢の短い旅

橙山 カカオ

前編

 見送りも供もなく、小さな鞄をひとつ持って、私は庭へと出ました。

 大きくはないけれどしっかりした造りの馬車が一台。傍らに佇んでいた騎士が、私を見て深々とため息をつきました。


「とんだ貧乏くじだ」


 体格の良い男性ですが、猫背気味なためか威圧感は感じません。無造作に伸ばした焦げ茶色の髪、無精ひげ。革の胸当てと剣を帯びた軽装。私の兄よりは年上で、父よりは年下といったところでしょうか。


「貧乏くじを引かせてしまって申し訳ありません。トリエラ・ダントリクでございます」

「......失礼。俺じゃなくてあんたのことですよ。美人なのにな」


 美人、と言っていただいたのはお世辞でしょう。母譲りの金の髪は気に入っていますが、最近は少し色あせてしまっています。細めの顔立ちはよく言っても十人並み。身体も食の細さが祟って痩せていますし。

 あいまいに微笑んで、一度鞄を置き、スカートを摘まんで淑女の礼カーテシーを見せました。お気に入りの菫色ヴィオレのドレスだけはどうしても、とわがままを言って着て行くことを許されたものです。


「騎士のコウロだ。あんたの世話役と、護衛を任されました」

「ご苦労様でございます。よろしくお願いいたします」


 コウロ様は礼を示したりはせず、馬車を指して乗るように促しました。頷き、鞄を持ち直して馬車に乗り込みます。その背に、コウロ様の声がかかりました。諧謔の笑みを含んだ声が。


「苦労するのは確かですな。生贄のお嬢さん」


 ……何も言わずに、私は馬車のキャビンへと。そうして、旅が始まりました。

 生贄になるための、短い旅路が。



 コウロ様は寡黙な方でした。

 いえ、寡黙というのは少し違うかもしれません。声をかければ答えは返ってきますし、道中で出会う方との受け答えも如才なくされています。

 より正確に言うなら……億劫そう、でしょうか。


「コウロ様」


 出発して数時間。馬を休ませるために馬車を止めるというので、私も外に出て深呼吸します。なだらかな丘に伸びる街道に午後の日差しが降り注ぎ、良い心地です。肩に手をやって首を回しているコウロ様に声を掛けました。


「どうしました」

「御者席に座っても良いでしょうか。ずっとキャビンの中では気が滅入ってしまいます」

「すみませんが、護衛としては中で大人しくしててもらいたいところです」


 へらり、と力なく微笑むコウロ様。無精ひげも相まって、どことなくだらしない印象を受けます。今まで話したことがある騎士の方々はどなたも礼儀正しく、強そうであったから、少し新鮮です。


「護衛と言っても、私などを襲う人がいるのですか?」

「そりゃあ、ね」


 コウロ様は一度言葉を切り、短い髪をわしわしと掻きました。私から遠ざかって草を食む馬に歩み寄り、その首元を軽く撫でながら続けます。


翼捧よくほうの儀式は、竜の国の大切な儀式ですから。ほとんど廃れたとはいえ、それが失敗に終わる方が良いと思う人間も多い」


 翼捧の儀式。それが私の旅路の目的です。

 国を守護する竜に、生贄を捧げて庇護を感謝する、といいます。竜の国が建った頃から続く儀式であり、一方で、私が生まれる前にはすでに廃れていました。かつては一年に一人だった生贄は、現代では人を模した藁と貴金属の装飾品を数年に一度捧げる形式に変わっています。

 いえ、変わっていました。


「ですが、新たな神官長がお決めになったことでしょう。正しく生贄を捧げるというのは」


 先日、翼教の頂点である神官長が代わりました。新たな神官長は強権を振るい、いくつも改革をされているとか。そのうちの一つが、翼捧の儀式の復活でした。

 生贄として私が抜擢されたのは……いわゆる政治というものでしょう。父にとっては神官長の覚えを良くしたいとか、私の婚約を義妹に与えたいとか、そういう事情もあったのかもしれません。


「神官長となった方は大変聡明な方だと聞きますし……」

「だからこそですよ。そういうやつこそ引き摺り下ろしたい連中なんてのは、いくらでもいる」

「そういうものでしょうか……」


 政治は、苦手です。得意など銀の食器を磨くことくらいの私ですが、人が織り成す政治というものは、本当にわからない概念でした。

 ため息交じりの私の感想に、コウロ様は何故か、どこか優しげな笑みを浮かべて頷きます。


「そういうものでしょう。俺の仕事はトリエラ様を送り届けることなんでね。馬車の乗り心地が悪いのはお気の毒だが、我慢してもらえたら助かりますよ、と」


 向けられた言葉はあまり優しくありませんでしたが。

 そう言われてしまうと、ご迷惑をかけるのも気が引けます。むう、と唸った私に、コウロ様はへらりと笑いました。


「ま、本気で成功させたきゃ、俺みたいな半端者が護衛になるわけもない。どうでもいいから安全、って感じでしょうから、本気で心配する必要はないんですがね」

「まあ……ひどいです。ではどうして御者台に座らせてくれないのです」

「面倒なんで。さ、出発しますよ。乗った乗った」


 犬でも追い払うような仕草に背を押され、私はまた狭いキャビンへ乗り込みます。

 扉を閉めて、御者台に続く小窓も閉じていることを確認して、ひとつため息をこぼしました。


「……意地悪な方」



 コウロ様は斯様に億劫そうで意地悪で、毎日身繕いはしているはずなのに常に無精ひげがありますが、世話役としては大変有能な方のようでした。

 侍女もいない旅など初めてで不安だったのも最初の一日だけ。宿では従業員の方に良くしていただきましたし、道行きは迷うこともなく順調でした。

 案内役ではなく護衛として、騎士としての実力を見られるかもしれない機会は、三日目の夜に訪れました。


「酒場というのは、素敵な雰囲気ですね」


 その宿は一階が酒場になっていて、多くのお客さんで賑わっていました。舞踏会や晩餐会の華やかさとは違う、賑々しく騒々しい、楽しげな空気。スープや焼けたお肉の良い匂いが鼻をくすぐります。


「あまりきょろきょろしないように。どうしても部屋に食事を運んでもらえなかったんで、こっそり食ってさっさと行きますよ」

「はい」


 片隅の席に座り、よく煮込まれた野菜のスープと、チーズ、しっとりとした食感のパンをいただきます。お肉は気になりますが、夜に食べすぎると眠れなくなってしまいますから。

 コウロ様もスープを少々行儀悪く啜りつつ、パンに……良く焼いた豚肉の薄切りを乗せて……


「…………どうしました?」

「いえ、その」

「食欲が湧きませんか」

「いえ、あの」

「無理はせず――」

「……そのお肉、美味しいですか?」


 あっ、コウロ様の表情が。力のない笑顔すらなくなって、何かを堪えるような無表情に。恥ずかしさで顔が赤くなるのを自覚しますが、口に出してしまったはしたない欲望はなかったことにはできません。

 コウロ様が何かを言おうとした時でした。


「よう、お嬢ちゃん。見ねえ顔だな」


 大柄な男性が私たちのテーブルに手をどんと突いて、声をかけてきました。

 傭兵の方でしょうか、腰には剣を佩いています。傷があって怖いお顔ににやにやとした、少し……嫌な印象の笑みを私に向けていました。後ろには、同じような出立ちの男性がお二人。


「はい、初めまして」

「俺たちと飲もうぜ。こんな冴えないおっさんは放っといてよ」


 まあ。もしかしてこれは、噂に聞く、軟派ナンパというものでは?

 舞踏会の断り文句なら二十例ほど持ち合わせていますが、このような場で失礼にならずにお断りする語彙はありません。

 頬に手を当て、曖昧に微笑んで見せます。その仕草をどう取ったのか、男性のお顔がにやけました。


「よォし、あっちの席で――」

「おっと、すまねえなお兄さん」


 立ち上がったコウロ様が、男性の肩に軽く触れました。顔には、あのへらりと力のない笑み。


「俺の連れなんだ、勘弁してくださいよ」

「何もしねえよ! 仲良く飲むだけだ、保護者は黙ってな!」


 げらげらと、下卑た笑い声を上げる男性たち。何だか、胸が苦しい。初めて覚える感情に戸惑いながら、男性とコウロ様のやり取りをただ見守るしかできません。

 肩を掴んだままのコウロ様に対して、男性は腰の剣に手をかけました。遠巻きに見守っている酒場のお客さんたちがざわめきます。私も、ごくりと息を飲みました。

 コウロ様は、素早く懐に手を伸ばし――


「ま、ま、そう言わず」


 小さな布袋を取り出しました。

 袋の紐を片手で器用に解くと、相手の胸元へと差し出します。


「ああ? 何だそりゃ……この……匂い、まさか」

でしょう? この酒場の料理は絶品だが、こいつがあればまた一味違うってものです」


 ひそひそと囁かれる声。内容から鑑みるに、あの小袋の中身は胡椒でしょうか。船による貿易で昨今は値段が下がってきているとはいえ、貴重な品には違いありません。

 つまり、これは。


(賄賂……!)


 穏便に場を収めてくださるのはありがたいですが、こう、なんと言いますか。私にも騎士という存在への幼い憧れがあったのだな、としみじみ思います。

 男性は少し迷ったそぶりを見せてから……香りを嗅いだ瞬間に結論は出ていたように思いますが……小袋を奪い取るように取って、その場を離れました。


「やれやれ、若者は元気のいいことで」


 座り直したコウロ様は変わらぬ笑みでスープを啜ります。私の視線など知らぬ素振りで。

 何か言ってくれることを期待しましたが、そういう気配もないので、私から声をかけました。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

「あの袋は……」

「お察しの通り、胡椒ですよ。金貨を持ち歩くより便利でね。文字通りの鼻薬ってわけだ」


 自慢する風でもなく言う様子は、世慣れた大人の余裕すら感じさせます。私が複雑な感情を弄んでいるうちに、コウロ様の肉の乗ったパンとスープはすっかりなくなってしまいました。

 急いでパンを口に詰め込み、もそもそと咀嚼します。


「別に急がなくていいですよ」

「んむむ」

「……無理に答えなくていいですよ」


 仕方ないな、と言うような苦笑を向けられて、私の頬は少し熱くなりました。



 旅が五日目の翼畳日きゅうじつを過ぎ、六日目に入ると、土地の色が丘の緑から山の灰色へと移り変わってきました。

 馬車はがたごとと坂道を登っていきます。

 キャビンから御者台へと通じる小窓を開き、コウロ様に声をかけます。


「コウロ様、少しよろしいでしょうか」

「どうしました?」

「……御者台に座ってもいいでしょうか。私も景色を見たくて」

「護衛としては、大人しく――」

「お尻が痛くて泣きそうです。せめて外の空気を吸って気を紛らわしたいのです」

「…………わかりました」


 本気で泣きそうな声が出てしまったためか、コウロ様も快諾してくださいました。

 平坦な場所を選んで馬車を停め、休憩を挟んで、満を辞して御者台に座ります。


「落ちないでくださいよ」

「はい、気をつけます」


 御者台からの視点は普段より少し高く、山々の雄大な景色をより広く感じます。吹き抜ける風が心地よく、思わず吐息が漏れました。

 冷たい風のにおいは、丘の土地とは違う気がしました。生まれたての風、というどこかで読んだ詩の表現が思い浮かびます。


「わぁ……」


 大きな岩が転がる、荒涼とした道。緑と灰色と褐色とが入り混じり、鋒には雪の白を纏った山並み。

 生まれ育った土地とは全く異なる景色に、しばし、言葉もなく見惚れます。

 その時、馬車がガタンと大きく揺れました。岩を踏んだか、窪みを踏んだか。無防備に揺られた私の身体が傾ぎます。


「おおっと」


 手綱を素早く外したコウロ様の手が、抱き支えてくださいました。ぐいと力強く抱き寄せられて、逆に傾いた身体がコウロ様の腕に収まります。


「ひゃ」

「気をつけてくださいと言ったでしょうに」


 硬い胸当ての革の感触。近くから私を見つめる黒い瞳。

 体温と――殿方の、匂い。


「ご、ごめんなさい」


 胸に手を当て、身体を遠ざけます。抱き寄せられた時の力強さとは裏腹に、腕はあっさりと私を解放してくださいました。

 胸が、胸がどきどきします。

 痛いくらいに跳ねる心臓と、頬の熱さに吐息します。


(ああ、恥ずかしい)


 気をつけろと言われていたのにはしゃいで、子供のように助けてもらってしまいました。未婚とはいえ淑女としてはあまりにもはしたない。

 ちらりと横目で、コウロ様を伺います。

 手綱を握り直した彼は、普段のあの笑みのない表情で行先を見ています。呆れられてしまったでしょうか。怒らせてしまったでしょうか。


「……ま、この景色じゃ見惚れるのも仕方ない」


 ふと、コウロ様が呟きました。伺うのではなく、思わず顔を向けてしまいます。彼は変わらず前を見たまま……力のない、へらりとした笑みを浮かべて。


「トリエラ様。向こうに、尖った山が見えますか。あれが名高き竜峰です」

「まあ。遠いはずなのに、とても大きいのですね」

「……たぶん」

「多分、ですの?」

「俺も見るのは初めてなんでね」


 私も、思わず笑みがこぼれます。なんて不器用な気遣いでしょうか。

 コウロ様のおかげで、その日はお尻の痛みも少ししか気にならないほど、楽しい道行きになったのでした。



 夜。

 岩がちな山の中、わずかに茂る林の傍で私たちは野営をしていました。流石に、この山中に宿はありません。

 コウロ様は手早く火を起こし、スープを作ってくださいました。干し肉と乾いた豆のスープは滋味豊かで、焚き火と共に身体を温めてくれます。 


「コウロ様は野営にも慣れていらっしゃるのですね」

「叩き上げなんでね。こう言うのは下っ端の仕事なんですよ」


 叩き上げ。貴族として最初から兵卒を率いる立場だったわけではなく、戦いの中で名を上げたということでしょうか。

 気になります。大いに気になります。どう尋ねたら答えていただけるか、スープの器を両手で持って考えます。

 名を問う時は自分から名乗るもの。ならば、経験を問う時も自分の経験から語るのが良いでしょうか。


「私は……ええと……火を起こすのも、お外でスープを作って食べることも、したことがありませんの」

「伯爵家の娘となれば、そりゃあそうでしょう」


 ああ、会話というのは何とも難しい。誰とでも仲良くお喋りできる義妹の話し方をもっと観察しておくべきでした。

 スープをすすって、少しだけ時間を稼ぎます。


「心強いです」


 ほう、と。温まった吐息とともに、素直な気持ちがこぼれてしまいました。

 焚火の向こう、コウロ様の表情は……見えにくいけれど、いつもの力ない笑顔だと思います。私の頬が赤いのも見えていないことを祈ります。


「そいつはなんとも、光栄で」

「……本音です。昔からそのように、頼もしい騎士だったのですか?」


 問いかけに、コウロ様は……


「はは」


 と、小さく声を上げて笑いました。

 その笑い声がどこか切なくて、怖くて。思わずまじまじと、焚火越しにコウロ様を見つめます。揺らめく炎の向こうから続いた声は、もう普段通りの穏やかな響きでした。


「まさか。昔から、やる気のない男でしてね」

「昔から……」


 気の利く女であるなら、そんなことはないなどと囁くのでしょうか。私はといえば、聞きたいけれど聞いて良いものかとぐるぐる回る思考で言葉に詰まるばかり。よほどそわそわと聞きたそうにしていたのでしょう、コウロ様が苦笑しました。


「詰まらない話です」


 穏やかな拒絶が距離を感じさせます。六日間、旅路を共にしてなおコウロ様はその距離を保ち続けていました。

 儀式が行われる神殿までは八日間の旅路ですから、あと二日後には、私は生贄としてこの命を竜に捧げることになります。


(あと、二日)


 いつもの私ならば、曖昧に微笑んでお話を終わりにしたでしょう。コウロ様が話したくないと思っているのは明らかで……それが私を気遣ってのことか、触れたくない話なのかはわかりませんが……わがままを言える立場ではないからです。

 でも、今は。

 次の機会、の可能性が永遠に消えてしまう二日前なのだと思うと、胸の中に少しだけ無謀な勇気が宿ります。

 スープを飲み干して器を置き、こぶしを握り締めて言いました。


「ぜひ、伺いたいですわ」

「ご令嬢に聞かせるような話じゃ……」

女にも聞かせられませんか?」


 うう。口にしてから、なんとも卑怯な物言いだと自覚しました。これではまるで、命を盾にして我儘を言っているようではありませんか。……まるで、というか、そのものです。

 恐る恐る反応を伺うと、コウロ様は少し目を見開いて、小さく頷きました。呆れたり、怒ったりはしていないようです。


「……道理ですな。貴女がお望みなら」

「も、もちろん、貴方がいやでなければ……ですが……」

「嫌ってこともありませんよ。……俺は貧乏貴族の六男でして」


 語り出す声は穏やかで普段より少しゆっくりで、焚火が時折はぜる音を背景に心地よく響きます。居住まいを正し、身を乗り出しすぎないよう気を付けなければなりませんでした。


「猫の額くらいの土地は、長兄が継ぐことが決まってる。じゃあ残りはどうするかといえば、有力な騎士の従士として働くわけです。貴族の子弟も平民の子供も入り混じって、雑用と訓練に明け暮れて。騎士からすれば、有望な奴が残ればいいわけですから、それはもう厳しく」

「まあ……。大変なんですね。こういう、野営の準備などもその時に?」

「ええ。狩りにはよく連れ出されたもんです。狩り場の森まで先触れに走って、天幕を立てて、火を起こして、犬と馬の世話をして……ああ、茸を集めたこともあったな」

「きのこ、ですか?」

「茸が好きな変わり者の貴族を迎えるってんで、騎士サマの号令で狐狩りの前に茸狩りですよ。馬鹿が毒茸を混ぜちまって怒鳴られてました」

「恐ろしいこと……」


 コウロ様の語り口が軽やかで、つい笑みがこぼれます。口元を指で隠しつつ、勇気を振り絞り、彼の厚意にもう少しだけ甘えてみることにしました。


「そうして立派な騎士になられたのですね」

「立派かどうかはさておいて、何とか叙任はしてもらえたってところで」

「……戦、に。出たこともあるのでしょうか」

「何度かは。山賊やらとの小競り合いがほとんどですがね。大きいのは、双帝戦争の東の外れの戦線と……コトレッツ退却戦……」


 双帝戦争。コトレッツ退却戦。いずれも激戦であったと聞く――私が生まれる前の戦いでした。

 彼は、私が生まれる前からずっと、騎士として戦場に立ってきたのです。頼もしいに決まっていました。


「そういった戦で……活躍なさったんですね」

「それこそ、まさか、ですよ。下っ端の騎士が、何が起こってるかもわからずに右往左往していたらうっかり生き残っちまって。気付けばこの歳です」


 ぱち、とひときわ大きく薪が爆ぜる音がしました。

 コウロ様は木の枝で焚火を軽く掻き、火の勢いを調節します。赤い火はゆらゆらと揺れて、暖かく、とても美しいものでした。


「流石に、戦の中身までは聞かせられないんでね。今日はそろそろ、休んでください」

「……はい」


 我儘を言った自覚はあります。もっと聞きたいという衝動を抑えて、天幕へと入りました。コウロ様は火を守りながら御者台で休むといいます。

 私も一緒に、とは、流石に言えませんでした。



 ふと、目が覚めました。

 毛布越しに感じる地面の硬さと冷たさに、まどろんだ思考が混乱します。びくりと身を竦ませて身を丸め、息を殺して……数十秒ほど。ようやく自分が天幕の中にいることを思い出して、毛布を目元に押し当ててから、身を起こします。

 ランプはありません。天幕の丈夫な布越しに、焚火の明かりがうすぼんやりと周囲を照らしています。少ない荷物を蹴飛ばさないように気を付けて、天幕の外へと出ました。


「…………ぁ」


 澄んだ空気と、焚火では照らせない深い暗闇。荒涼とした山々の上に輝く、無数の星光。

 立ち尽くすほどに芳醇な暗闇を、しばし無言で眺めます。


「……な、……」


 コウロ様の声が耳に届き、馬車の御者台へと目を向けます。コウロ様は毛布にくるまって座っていましたが、その顔はとても苦しそうで、喉からは唸るような声が漏れています。目が覚めたのは、この声が届いたからかもしれません。

 夢を見ているのでしょうか。辛い夢を。


「……コウロ様」


 隣に座って呼びかけますが、夜の静寂と遠慮のせいで、消え入るような声になってしまいました。コウロ様は目を覚まさないまま、わずかに身じろぎします。


「……いて、いくな……」

「……コウロ様。起きて、ください」


 逡巡しましたが、本当にお辛そうで。いてもたってもいられず手を伸ばし、毛布の上から肩に触れました。軽く揺すって名を呼びます。今度はもう少し強く。

 ぴく、と瞼が動いた気がしました。

 次の瞬間、毛布を跳ねのけて起き上がったコウロ様が、抱いていた剣の柄に手を掛けました。無駄のない、獣のように鋭い動き。苦しげに歪んだ表情のまま叫びました。


「俺も、戦える!」


 暗い林に悲痛な声が響き、闇に吸い込まれていきます。半端に手を伸ばした姿勢のまま、私は身を強張らせてコウロ様を見上げるばかり。驚きが半分。もう半分は、言葉にできない、混沌とした、泣きそうな――恐怖とか、切なさとか、憐憫といった言葉が近く、けれどそのものではない感情でした。


「……コウロ様」


 それでももう一度名を呼ぶことができたのは、我に返った彼の表情が、本当に、泣きそうなほど寂しげだったからでした。


「悪い夢を、見たのですね」

「……っ、ああ。……失礼を。お恥ずかしいところを見せました」


 いつもの力ない笑顔すらなく、視線を逸らすコウロ様。強く握り締めた剣から手を離す動きも、どこかぎこちなく見えます。

 歩み寄り、そっと抱き着きました。


「トリエラ様!?」

「怖い夢を見たとき、亡き母がこうしてくれました。毛布やぬいぐるみも良いけれど、人の暖かさが何よりの薬だと」


 革の胸当てを身に着けたままですから、体温を伝えるには少々やりにくくはありました。それでも背に手を当て、寄り添って立っていれば、独りよりは暖かいはずです。

 コウロ様は剣を落とし、なぜか両腕を高く掲げた姿勢で受け止めてくださいました。見上げると、困り果てたような、仕方ないというような、なんとも味わい深い苦笑を浮かべています。視線はもう逸らされてはおらず、黒い瞳が私を見ているのがはっきりと伝わりました。


「……あー……ありがとうございます」

「どういたしまして」

「…………」

「…………」


 しばしの無言。夜の風が吹く音だけが響きますが、今は寒くはありません。

 絡む視線。旅の間、私のことを……貧乏くじだと言いながら……しっかり見守ってくれていた瞳を、じっと見つめます。いつも落ち着いていて、時折優しげにもなる瞳を見つめて、少し背伸びして。ゆっくりと顔を寄せて――


「おっと」

「わぷっ」


 胸元に抱き抱えられてしまいました。彼のごつごつした手が髪に触れている感触。革の胸当てのすぐ上に顔をうずめる姿勢で、彼の匂いを強く感じます。

 かぁ、と音がしそうなほど、一気に顔が赤くなりました。汗を感じるほど熱くもあります。多分耳まで真っ赤でしょう。今更ながら彼の服の背をしっかりと掴んでいたことを自覚しますが、離すどころかますます強く握り締めてしまいます。

 はしたないことをしてしまった気恥ずかしさと、応えてもらえなかった自分勝手な寂しさと、たしなめてもらえた安堵と……ぐちゃぐちゃになった感情のまま、彼の心臓に聞かせるつもりで呟きました。


「おひげが当たって痛いです」

「……く、はは。そいつは失礼を。……おかげさまで、悪い夢からは醒めました」

「何よりです」


 ふん、と鼻を鳴らして、突き放すように離れます。天幕の中から毛布を引っ張り出して、何か言われる前に御者台に座りました。


「トリエラ様?」

「今晩はここで寝ますので」

「……へいへい。どうぞ、ご随意に」


 彼も剣と毛布を拾い直して御者台へ。狭い空間に寄り添いあって、体重を預けます。

 星空の下、ぽつぽつと取り留めのない話を交わす内、私の意識は睡魔に引っ張られていきます。

 瞼を閉じ、夜気の冷たさにこそ体温を感じながら、眠りに落ちて。


「……俺が、殺しますから」


 そんな呟きを、夢の中で聞いた気がしました。


(――竜よりも、貴方になら)

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