慈雨の王

青によし

プロローグ

 気付くと、目の前は火の海だった。何かの叫び、何かの泣き声、そして何かの痛み。己の内から、狂気が流れ出す。すべてが渦を巻き、すべてを蹴散らしていく。これは、何なのだろう。何の悪夢だろうか。何故こんなものを見ているのだろうか。



***



「ゴホッ……僕?」

 キラキラと光り輝くようなケーキが並べられたテーブル。その前で端から順番にケーキを制覇中のイサナは、苺を飲み込むのに失敗して咳き込んでいた。いきなり綺麗な姫君に声をかけられたからだ。

 話があるからと、イサナは姫君に舞踏会の大広間から連れ出された。姫君はイサナを振り返ることなく、どんどん人の少ない方へ向かっていく。これはもしかして、もしかするのだろうかと、イサナはざわつく予感にそわそわした。

 イサナ・リール・ドレンテは、髪と瞳は柔らかなブラウン、背丈が低く小柄なのを若干、いや、とても気にしている十七歳の少年だ。そして一応、フィルドレンテ公国の王族だったりする。父がフィルドレンテ公国の前王なのだ。しかし、十五番目の妃である母は庶民階級の出身で、イサナは十八番目の子供。もはや王族や貴族から、いてもいなくてもどうでもいいと思われているような存在だ。だがどうでもいいと思われているおかげで、街へ自由に遊びにもいけるし、うるさく言う目付け役もいないしで、イサナは今の状況を快適に思っていた。

 そんな忘れ去られた王族のイサナが何故、貴族の大豪邸で行われている舞踏会などという社交場に来ているかというと、密かに政治的人脈を作ろうと思っていた……なんてことではない。そもそも舞踏会などというものに興味はないのだが、甘いものが大好きなので、ケーキを目当てに舞踏会へ来ているのだ。イサナにとって舞踏会は、街では売っていないような珍しいお菓子に出会える貴重な場所なのだった。

 姫君は噴水の前に来ると、やっと歩くのをやめた。ここは中庭、舞踏会の音も微かにしか聞こえない。

「こんな場所にまで来ていただいて、申し訳ありません。ですが、あまり人の多い場所では話しづらかったもので」

 この姫君は由緒正しい家柄のご令嬢、ゼフィーだ。裾がふわっと広がったドレスは姫君の細いウエストを上手に強調し、胸元にあふれるフリルと大きなリボンが愛らしさを醸し出している。大きな栗色の瞳を輝かせた彼女は、恥ずかしそうに手をもじもじと動かしていた。

「それで、僕に話とは?」

 イサナは妙な緊張を感じながら、話を促した。

「あの、その、とても身勝手なことだと分かっているんです。でも、やはり、今夜こそはお伝えしようと心に決めてきたので、どうしても何も行動しないまま帰りたくないんです」

 姫君は顔を真っ赤にしながら、必死な様相で話している。

「えっと、は、はぁ」

 どう返答してよいのか分からず、間の抜けた声を出す。

「わたくしが眼中にすら入っていないのは知っています。ですが、わたくしは本気なのです。少しでもわたくしのことを見ていただけるよう、気持ちをお伝えしたいのです」

 姫君が潤んだ瞳で見つめてくる。

「は……はいっ」

 すごい眼力に、イサナは気圧されてしまう。

「ですから、イサナ様。今日はもう帰ってください」

 ……やっぱりなと思った。ざわつく予感は的中だ。

「ケーキ食べたいんだけど、食べてからじゃダメ?」

 恐る恐る聞いてみる。

「ダメに決まってんだろ! さっさと一人で帰れ。本当ジャマなんだよ。あんたはジント様の何なの? いつもまわりをウロチョロして鬱陶しい。あんたがいるとまともにジント様としゃべれないんだよ。即刻、立ち去れ!」

 可憐な姫君から出たとは思えないほどの罵倒が返ってきた。

「……はい」

 イサナはケーキに未練を残しながらも、上着を取りに向かうのだった。

「せめてあと鱗苺のミルフィーユと、ブルーオレンジのババロアと、赤栗たっぷりモンブランと、フィル風チョコレートムースと、チーズレインボータルトと、キャラメル風味のベアエクレアが食べたかった……。ユーフォマカロンの塔も制覇したかったし……」

 水牛車に揺られて帰る途中、イサナは虚しくつぶやいた。しかし、手には焼き菓子が載っている。ちゃっかり去り際に焼き菓子をかすめ取っているあたり、ただでは転ばないイサナだった。




 翌日、イサナが食堂で朝食を食べていると、いきなりドアが開いた。イサナは王族の住む丘の上の城ではなく、街のはずれにある寂れた神殿の近くに住んでいる。ここは地方や、遠くは他国から勉学のために出てきた人々が住む学生寮だった。勉学に集中出来るようにと、公国から援助が出ている。食事付きのため、イサナはちゃっかり居ついているのだ。

「イサナ! お前どうして昨日は勝手に帰ったんだ。俺はお前が迷子にでもなったのかと思って、あのクソ貴族の屋敷を探しまわったんだぞ」

 ノックもなしに入ってきたのは、ジント・フィル・ドレンテだ。昨日イサナが帰らなければならなかった原因の人物である。

「それはどうもすみませんね。でも、僕が責められるのは筋違いだってば。本当はケーキ食べたかったのに、君のせいで僕は帰ったんだからね。まだ半分以上の種類、食べてなかったんだよ?」

「俺のせい? 意味が分からん。俺は何もしてない」

 ジントは偉そうに腕を組みながら、イサナと向かい合うように座った。足が長いのでテーブルの斜め外へ、足を投げ出している。おそらくイサナの足にぶつからないようにとの配慮なのだろうが、腕を組み、足を投げ出してだらしなく座っている姿は、とても王族の人間とは思えない柄の悪さだ。

 ジントも王族の一員で、前国王の孫だ。つまり、イサナにとっては甥になるのだが、同じ十七歳。年齢が同じということもあり、よく一緒にいる。

「ジント、もうちょっと品よく座ったら? 水牛に山ほどベルを付けて、真夜中に練り歩くおバカで傍迷惑な若者みたいだよ」

「うるさい、お前は俺の乳母か。それより、何で昨日帰ったんだよ」

「某姫君に、恋路を邪魔するなと言われたから」

「……?」

 全く意味が分からないといった表情でジントは首を傾げている。

「だから、君と話したい姫君が、僕のところに来て『帰れ』って言ってきたの。しかも、帰れって言われたのは昨日の姫だけじゃないし。これまで何回も同じようなことあったんだからね。その都度、お菓子をあきらめて帰ってくる僕の気持ちも考えてよ」

「ちっ、だからか。妙に引っ付いてくる女がいて、適当にあしらうのが大変だった」

 イサナは姫達から対象外のようだが、ジントは姫達から異様に人気がある。まず背が高い。小柄なイサナが並ぶと頭一つ分くらい差が出てしまう。しかも、濃淡の差こそあれ、茶色の髪と瞳が一般的なフィルドレンテ公国には珍しい黒い髪と瞳の持ち主だ。ジントの母親は、帝国から嫁いできた人で、黒い髪と瞳が印象的なエキゾチックな美貌の持ち主だったらしい。もう亡くなっているのでイサナは会ったことがないが、異国的な魅力をジントも色濃く受け継いでいる。

「僕はさ、君の周りをうろちょろしているつもりはないんだよ。むしろ、君が僕の周りをうろちょろしていると思うんだ。なのに、姫達からは邪魔者扱いされて、本当迷惑だよ」

「……迷惑とかいうな。お前の横は落ち着くんだから仕方ないだろ、あきらめとけ」

 そっぽを向きながら、ひねくれたことをジントは言う。

「何で君はそんなに横柄なの。もうちょっと真摯な姿勢があってもいいと思うんだけどさ」

「俺から言わせてもらえば、イサナは穏やかであんまり怒らないくせに、俺に対して厳しすぎるぞ。他の奴と接する時みたいに、優しさてんこ盛りで接しろ」

 こんな調子で、結局いつも平行線。一見仲が良いのか悪いのか、でもそれが二人の居心地の良いバランスだったりもする。


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