16 タビサの雇用契約


 エウフェミアが帝都に戻ってきて数日後、タビサにとっての一大イベントが起きた。


「タビサに話がある。九時に寮へ行くからそのつもりでいろ」


 朝食を運びに行った際、アーネストにそのように言われたのだ。


 エウフェミアが詳細を訊ねても、「行ってから話す」と詳しくは教えてもらえなかった。寮に戻り、厨房で食器を洗っていたタビサにそのことを伝える。


「会長サマがですか!?」


 途端、タビサは顔を真っ青にして、皿を落としてしまった。そのことにタビサは更に顔を青くする。エウフェミアも反応ができなかった。


 皿は水をためていた洗い桶に落ちた。割れなかったことに二人とも安堵する。しかし、すぐにタビサは泣きそうな顔になる。


「も、もしかして、ワタシ何か粗相をしたでしょうか!! また解雇されてしまうのですか!?」

「そ、そんなことはないと思いますよ。会長はタビサさんが頑張っていることご理解されてますから」


 なんとか彼女をなだめながら、ようやくエウフェミアはアーネストの用件が雇用契約のことでないかと思い至った。


 仕事の合間に行っていたタビサの識字の授業だが、本人のやる気もあって順調に進んでいる。


 一般的な単語の読みは出来るようになった。雇用契約書に書かれているような専門用語はまだまだ難しいようだが、エウフェミアが手伝いながらであれば読めるようになってきた。署名はまったく問題がないだろう。


(そろそろいいと思われたのかしら)


 アーネストがどの程度読み書きができればいいと思っているのかは分からない。しかし、早めに雇用契約を結びたいと考えているのは間違いないだろう。そのことを気にしているようで頻繁に進捗の確認をされていた。


 不安そうにしているタビサを見て自分の考えを伝えるか考える。しかし、実際に違ったときのショックを考えてると、不用意に憶測を伝えることもできなかった。


 一時間が経ち、時計が九時を示す。


 アーネストは時間通り、寮に姿を現した。その後ろにはトリスタンもついてきている。


「お話は食堂でよろしいですか?」

「ああ」

「お飲み物をご用意しますが、紅茶でよろしいですか?」

「それでいい。――ああ、用意は四人分な。お前も同席しろ」

「かしこまりました」


 指示通りエウフェミアが紅茶を用意し、食堂へ戻るとアーネストの向かいに座るタビサはガタガタと震えるほど緊張している様子だった。


「タビサ」

「ハ、ハイ!!」


 裏返った返事をされ、アーネストは一瞬眉をしかめる。しかし、それ以上は反応を見せず、淡々と話を始めた。


「お前をここに連れてきて大分経つが、調子はどうだ? 仕事は大分覚えられたか?」

「は、はい。エフィさんのおかげもあって大分。会長サマには本当に感謝してもしきれネエです」


 緊張のせいか、訛りがいつも以上に強い。アーネストは「そうか」と呟くと、持っていた封筒から書面を出す。――以前、エウフェミアも見たことがある。雇用契約書だ。


「まだ読めない単語も多いだろうが、そろそろ正式に雇用契約を結びたい。こちらの内容を確認して、この条件で働いていいと思ったら右下にサインをしてくれ。書いてある内容は難しいと思うが、その部分はトリスタンがかみ砕いて説明する」

「分からないところがあったら、途中止めてもらっても平気っスからね」


 タビサを安心させるようにトリスタンは笑うと、ゆっくりと雇用契約書の内容を説明を始めた。


 まず書いてある文章を読み上げ、それを分かりやすい言葉で説明し直すという方法だ。エウフェミアのとき以上に時間がかかるだろう。エウフェミアも何かあったら助太刀しようとタビサの様子を窺うが、すぐに異常に気づいた。


 彼女は書面を見ているが、眼が文字を追っていないのが分かる。明らかに緊張のせいだろう。内容が頭に入っていないのは確実だった。そのことはトリスタンにもすぐ伝わったようだ。説明が止まる。


 最初に口を開いたのはアーネストだった。


「俺がいてはやりづらいな。離席する。終わったら呼びに来い」


 そう言うとさっさと食堂を出て、――玄関が開く音がする。寮の外へ出て行ったようだ。タビサの身体から力が抜けるのが分かった。


「ト、トリスタンサマ。ワ、ワタシ」

「大丈夫っスよ。これぐらいじゃ若様は怒りませんから。そもそも、目つきもガラの悪い若様に全ての非があるっス」


 寮でも生活をしているトリスタンは普段からタビサとも顔を合わせているし、話している姿も見かける。会長がいなくなったことでタビサも余裕が生まれたようだ。


「今のうちにやることやっちゃいましょう。最初から仕切り直すっスよ」


 こうして再びトリスタンは雇用契約書の説明を始めた。


 労働時間、業務内容などについては今働いているものと変わらない。エウフェミアが事前に貰った雇用契約書を参考に単語を教えていたこともあり、思った以上に早く説明は終わった。


 内容を理解したというタビサは自分でサインを書く。


「出来ました!」


 書類に目を通し、署名をするというタビサにとっての大仕事を終え、彼女は少し誇らしげだった。それを微笑ましく思いながら、エウフェミアは立ち上がる。


「では、会長を呼んできますね」

「いいっスよ。僕が行きますから」

「いいえ、大丈夫です。トリスタンさんは書類の確認をしてあげてください」


 トリスタンに笑顔を向けてから、エウフェミアは玄関へと向かう。


(会長、お部屋に戻ったのかしら)


 そんなことを考えながら扉を開け、――そのすぐ傍に人影を見つけ、エウフェミアは驚いた。


「ああ、終わったか」


 玄関前のポーチに佇んでいたのはアーネストだった。彼は持っていた煙草の火を金属でできた円形の携帯灰皿で消す。


「思ったより早かったな」

「…………あの、会長。ずっとこちらで待っていらっしゃったんですか?」

「まさか。さっきまで事務所の一階で他のヤツらの様子を見てきた。今戻ってきたとこだよ」


 確かに持っていた煙草は吸い始めてからそれほど経っていないように見えた。アーネストはエウフェミアの横を通り、食堂へ向かう。エウフェミアもその後ろをついていく。


 トリスタンから契約書を受け取ったアーネストは満足そうだった。


「これで雇用契約成立だな。改めてよろしく頼む」

「よ、よろしくお願いします」

「それと、お前に渡しておく物がある」

「ワタシにですか?」


 彼が取り出したのは巾着だった。手渡す際に、中からカチャリと金属音が聞こえる。


「今までの賃金だ。――それと、本格的に働き始める前に一度故郷に戻りたくないか?」

「よ、よろしいンですか!?」


 突然渡された金銭に驚いていたタビサが弾かれたように顔を上げる。アーネストはニヤリと笑った。


「これからは気軽に帰れなくなるからな。そんだけ金があれば行き帰りの旅費には十分だろ」

「ありがとうございます! ありがとうございます!!」


 巾着を握りしめ、タビサは何度も何度も頭を下げる。その瞳は涙で濡れていた。

 


 ◆

 


 その翌日、タビサは故郷のインズ村へ出発するため準備をしていた。


 トランクに着替えなどの必需品の他、お土産ということで帝都で買ったお菓子を詰める。その手伝いをしながら、エウフェミアは訊ねる。


「これで支度は大丈夫そうですか?」

「ええ、そうですね。——ああ、そうです! エフィさんは裁縫道具をお持ちでしたよね? 裁縫バサミを少しお借りしてもよろしいですか?」

「はい。もちろんですが……どうされたんですか?」

「いえ、祈雨きうのお守りを持っていこうと思うンです」

「…………キウ、ですか?」


 不思議がっていると、タビサが説明をしてくれる。


「雨を呼ぶお守りです。ワタシの住む地方に伝わるモノです。布で水の精霊サマのカタチをしたお守りをいくつも作って、田畑に飾るンです。そうするとお守りが雨を呼んでくれるンですよ」


 隣の自室から裁縫ばさみを持ってくると、タビサは実際に古布を使ってお守りを作ってくれた。それは実際の水の精霊とは似ても似つかない。細長い布を幾つも重ね、その中心を紐で縛る。その形は蛸のようだ。


「いくつもって、どれくらいですか?」

「そうですね。あればあるほどいいんですが、……ワタシの持ち合わせる布だとあと五個ぐらいしか作れませんね」


 その話を聞いて、エウフェミアは思いつく。


「タビサさん。私もお手伝いしてもよろしいですか? もうボロボロになって着れない服があるんです。それを使えばもっとたくさんお守りが作れますよ」


 イシャーウッド家で着ていたドレスは未だクローゼットの中にしまってある。使い道もなく、かといって処分するのももったいなく感じ、ずっと残していたのだ。エウフェミアはタビサに教わりながら、ドレスの生地をもとに祈雨のお守りをいくつも作りあげていく。


 半日かけて作ったお守りは五十近く。トランクに入りきらないほどの量だ。タビサはもう一つ鞄を用意することになったが、とても喜んでくれた。


「ありがとうございます。これだけあれば、ウチだけじゃなく、近所にもお裾分けできます」


 インズでは布も貴重品らしい。しかも、ここ数年の日照りで昔以上に祈雨のお守りを飾るようになったそうだ。そのため、タビサは布が手に入る度、お守りを作っているそうだ。


 鞄にしまう前に、タビサは祈雨のお守りを床に並べる。そして指を組んで目を閉じた。


「最後に雨を呼んでくださいって祈るんです。――水の大精霊ネロサマ。水の精霊サマ。どうか我らに雨を恵みたまえ」


 その横顔はとても真剣なものだった。以前聞いたタビサの境遇を思い出す。彼女たちにとって、水不足は死活問題なのだ。


 エウフェミアも同じように指を組み、目を閉じる。脳裏に思い浮かべるのはいつか会った水の大精霊ネロと、一緒に遊んだ水の精霊たちの姿だ。


水の大精霊ネロサマ。水の精霊サマ。どうか我らに雨を恵みたまえ」

 

 その瞬間、瞼の向こうが明るくなったような気がした。しかし、目を開けたときには何かを起きた様子はなかった。同じように祈りを終えたタビサが笑いかけてくる。


「エフィさん、ありがとうございました!」

「ご実家でゆっくりしてきてくださいませ。お戻りをお待ちしておりますね」


 エウフェミアも笑みを返す。


 そして、その翌日タビサは里帰りのためハーシェル商会を出発していった。

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