8 水の大精霊・ネロ


 精霊術師の仕事のため、父と兄は島の外へ出かけてしまった。帰りは数週間後になる。その間、エウフェミアは島に母と二人きりだ。


 二人がいなくなってから二週間ほどして、母がエウフェミアにこう告げてきた。


『エフィ。水の大精霊ネロ様がエフィに会いに来てくださったわ』

『本当!?』


 光の精霊たちと本を読んでいたエウフェミアは屋敷を飛び出した。船着き場に向かうと、桟橋には見知らぬ女性が座っていた。


 鮮やかな長い青の髪の美しい女性だった。


 彼女はドレスごと足を湖面につけて、子供のように波を立てて遊んでいる。――いや、違う。彼女に足はない。彼女のドレスの裾は水そのもので、それが滴り落ちることで波しぶきがたっているのだ。彼女の周りにはそれはもうたくさんの水の精霊たちが舞っている。


水の大精霊ネロ様』

『おうおう、来たか』


 母の声かけに美女――水の大精霊ネロは微笑んだ。目が合う。


『ほう。この娘がグレイトスの二番目の子か』

『さようでございます。さあ、エフィ。ご挨拶を』


 親族以外の人――いや、彼女は人間ではないのだが――に会うのは今日が初めてだ。母から習っていた挨拶をする。


『お初にお目にかかります。エウフェミア・ガラノスでございます』

『ほう。主がのう。さあ、もう少しこちらに寄れ』


 エウフェミアは母に手を引かれ、桟橋を慎重な足取りで進む。もう手が触れそうな距離で立ち止まると、水の大精霊ネロは『愉快愉快』と言った。


『愛しの愛しのグレイトスの頼み故、今回は特別に姿を見せてやったが。ふむ。非常に珍しいものが見れた』


 ――珍しいもの。


 何を言っているのかが分からず、エウフェミアは首を傾げる。母が意を決したように一歩前へと進む。


水の大精霊ネロ様。あの、この子は』

『そなたならわらわが語らずとも分かろう? ほんに稀有な素質じゃ。他の者たちが見たら驚こう。見物みものじゃ。見物じゃ』


 くすくすと楽しそうに笑う大精霊と、難しい表情で俯く母の姿は対照的だった。ひとしきり笑い終えた水の大精霊ネロは顔をエウフェミアに近づける。


『エウフェミア。主は今いくつじゃ』

『十歳です』

『ではもう会議への同行が許される歳じゃな』


 それは一年に一度、精霊貴族が集まる精霊会議のことだろう。


 当主の子女であっても、十歳未満の同行は禁じられている。毎年父は四つ年上の兄と二人だけで精霊会議に参加し、エウフェミアはいつも母親と留守番で悔しい思いをしていた。だから、もうすぐ開催される今年の精霊会議への同行を許されているのはとても嬉しい。


『『無色むしきの城』でまた会おうぞ。――ではな』


 水の大精霊ネロは軽やかに湖面に飛び込んだ。そして、その姿は泡とな理、消えてしまう。


 それがたった一度きりの水の大精霊ネロとの遭遇だ。それ以降、彼女には――。


(——会って、いないのよね?)


 エウフェミアには一部記憶が欠落しているところがある。それが家族が死んだ前後――精霊会議の前後の記憶だ。


 八年前、エウフェミアは生まれて初めて小舟に乗って湖を渡った。その後、馬車に乗って『無色の城』に向かった。道中、兄に湖の向こうがいかに怖い場所か脅かされ、エウフェミアは怖がり、嘘をついた兄に怒った。


 だが、それ以降の記憶がないのだ。


 気づけば、エウフェミアは孤島の屋敷に戻ってきており、既に家族は事故に遭った後だった。


 だから、もしかしたら、エウフェミアは精霊会議で水の大精霊ネロに再会したかもしれない。しかし、どうだったかはもう確認しようがない。


 あの時の言葉が正しければ水の大精霊ネロは簡単に会える存在ではないし、――そもそもエウフェミアにはもう精霊術師としての能力は失われているのだから。


 そのことに気づいたのはいつだっただろう。


 自身の知らぬ間に家族を失った喪失感、現実感のなさからしばらくの間、ぼんやりとしていることが多かった。その間は伯母がエウフェミアの面倒を見てくれた。


 着替えを手伝い、料理を作り、寝かしつけもしてくれた。そんな風に過ごしているうちにようやく気づいたのだ。――いつも近くにいたはずの精霊たちが一人も姿を見せなくなってしまったことに。


 エウフェミアは伯母のところへ走った。


『伯母様、みんなはどこへ行ったの?』


 料理の準備をしている伯母は怪訝そうな顔をした。


『皆とは誰のこと?』

『みんなはみんなだよ。水の精霊も、風の精霊も、火の精霊もみんないなくなっちゃってる。どこに隠れているの?』


 投げかけた質問に伯母は答えてくれなかった。感情を表に出さない彼女に珍しく、狼狽したように言う。


『……エウフェミア。あなた、精霊が見えていないの?』


 それから伯母はエウフェミアを連れて湖へ向かった。浜辺に着くと彼女は掌を湖面に向ける。


 それは今まで見たことのない光景だった。


 エウフェミアは今まで何度も両親が精霊術を使っているのを見たことがある。術師の周りに精霊たちが集まり、周囲を回りだすのだ。それはまるでダンスのようだった。


 しかし、伯母の周りに集まる者は誰もいなかった。それにも関わらず、湖面の水が複数光りながら浮かび上がる。


 それは精霊の力を借りなければ起こせない現象だ。エウフェミアは今起きたことを理解できず、ただただ水の球体を見つめるしかできなかった。


 伯母が静かに掌を下ろすと、水の球体も湖に落ち、他の水と同化する。


『…………ねえ、伯母様。みんな、ここにいるの?』

『精霊たちはいつでも私たちの周りにいる。いなくなるなんてことはありえないわ』


 では、この状況が意味するのは――。


 幼いエウフェミアにはその事実をすぐ受け入れることはできなかった。伯母も慰めなのだろう。『今はショックで一時的に見えなくなっているだけよ』とエウフェミアの背中をさすってくれた。


 でも、きっと、あのとき伯母はもう理解していたはずだ。


 エウフェミアからは精霊術師の能力が失われている。だから、精霊のことを見えなくなった。その力が戻ることはないと。


 ガラノス家の人間の髪と瞳は例外なく青色。それは水の大精霊ネロの色。彼女の恩寵の証。エウフェミアの髪も瞳も青かった。


 しかし、精霊会議から戻ったエウフェミアの髪と瞳は色を失い、灰色に変わってしまっていた。それは水の大精霊ネロの恩寵を失ったことに他ならなかった。

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