2 キーナンの街


 三人で車体を押し、車輪をぬかるみから押し出す。それから馬車に乗ったエウフェミアは彼らがここから一番近い街キーナンへ向かっているというのを教えてもらった。


 目的地に到着するまで約半日。エウフェミアは商人に訊ねられるがまま、生い立ちから今に至るまでを答えていた。


「なるほど。イシャーウッド伯爵に離縁を言い渡されてからずっと野宿をし、川の水と自生してる植物の実を食べて生活していたと」

「はい。道具があれば木の実や山菜を調理することも出来たんですが、持ち合わせがなくて……。美味しそうな物はまだまだいっぱいあったのに残念です」

「そこは残念がるとこじゃねえだろ」


 こうして誰かと他愛もない雑談をするのはいつぶりだろう。イシャーウッド家の使用人たちは忙しいのかあまり会話をしてくれなかった。伯父一家も同様だ。


 一通り話を聞いた商人はじっとエウフェミアを見る。なんだか、呆れられているように思えるのは気のせいだろうか。溜息を吐くと、彼は口を開いた。


「よーく分かった。アンタは途方もなく、救いようのない大馬鹿野郎だ」

「……はい?」


 真正面からの罵倒にどう反応していいのか困惑していると、商人は「まあ、いい」と頭を掻く。


「もうすぐキーナンに着く。キーナンにはウチの所有する建物がある。今日一晩ぐらいなら泊まらせてやる。その代わり、雑用全般をやれ。それが今回の対価だ」

「本当ですか!」


 エウフェミアは顔を輝かせる。街についたあと、どうするかはまだ考えていなかった。まさか宿まで提供してくれるなんて。


「ありがとうございます! ええと、若様? でしたでしょうか」


 そこでエウフェミアはまだこの恩人の名前を聞いていなかったことを思い出す。商人は少し間を置いて名乗った。


「アーネスト・ハーシェルだ」

「ありがとうございます。この恩は一生忘れません。ハーシェル様」

「……商人相手に気軽にそういうことは言わねえほうがいいぜ」


 そう言うとアーネストは目を閉じ、黙り込んでしまった。


 

 ◆



 エウフェミアが生まれ育った湖に浮かぶ孤島にはガラノス家の屋敷以外何もなかった。イシャーウッド家に嫁いでからもずっと森の中にある別邸で過ごしていた。だから、エウフェミアが人が住む街にやってくるのは記憶するかぎり初めてのことだった。


「まあ」


 馬車を降り、エウフェミアはその人の多さに驚いた。とてもじゃないがそのすべてを追いきれない。眩暈がするようだ。歩く人の数を数えるが、両手では数えきれないほどだ。


「人が多いのですね」

「多い? これで? 確かにキーナンはこの辺じゃ大きい街だが、帝都にはこれよりもっとたくさん人がいるぞ。ほら、こっちの荷物を持て」


 アーネストは馬車から荷物を下ろすと地面に置く。そこそこ重い荷物をトリスタンと分担して持ち、エウフェミアはアーネストの後を追った。


 彼は馬車を停めたすぐ側の建物に近づくと、玄関の鍵を開錠する。それから扉を開けて、嫌そうな表情を浮かべた。エウフェミアはその後ろから室内を覗き込む。


「きったねえな」

「キーナンに来るのは一年ぶりですからね。埃まみれで当たり前っス」

「こんな調子なら事前に人を寄こしときゃよかった」

「それは無理だったでしょう」


 二人が室内に入り、エウフェミアも後に続く。


 二階建ての建物は一階に扉が三つと二階に上がるための階段がある。アーネストは奥の扉を開けるとエウフェミアを手招きした。そこはダイニングキッチンのようだ。ここも廊下同様埃だらけだ。


「荷物はここの隅に置いておけ。俺は仕事があるから出かけてくる。トリスタンと一緒に掃除をしておけ。夜には戻ってくるから夕食も作っておくように」


 アーネストは腕時計を確認すると、さっさと出かけてしまった。残されたエウフェミアはトリスタンを見上げる。


「――とりあえず、命令通り掃除から始めましょうか」

「はいっ!」


 掃除は大の得意だ。エウフェミアは満面の笑みを返した。


 先にすべての部屋を確認したところ、どうやらここは家であることが分かった。


 一階の他の扉はリビングとバストイレ――エウフェミアはお風呂とトイレが一緒というのをはじめて見た――だ。二階はバストイレ付きの主寝室とゲストルームだという寝室が二つ。


 まずは寝れるように布団を干し、シーツを洗濯する。それが終わったら順番に掃除をする。二階の掃除が終わり、階段を下りるとトリスタンはキッチンの掃除をしているところだった。


「もう終わったんスか!?」

「はい。次はリビングの掃除をいたしましょうか?」

「いえ。あっちの部屋は使わないんで、こっちの掃除を手伝ってもらってもいいっスか?」

「はい、喜んで!」


 エウフェミアはまず流しの掃除から始める。掃除は得意だし、大好きだ。タワシや雑巾をかけている間にピカピカに綺麗になっていくのがとても気持ちいい。鼻歌を歌いながら手を動かしていると、トリスタンが感嘆したように声を漏らした。


「手際がいいっスね」

「慣れていますから」


 エウフェミアは伯父の下で生活を始めてからずっと屋敷の家事全般をこなしていた。この家より十倍以上大きな屋敷の維持を一人で行っていたのだ。掃除、洗濯、そして家族全員分の食事の料理。それを結婚が決まるまでの七年間ずっと続けていた。


 イシャーウッド家に嫁いでからはそういったこともしなくなったが、一年はそれほどのブランクではなかったようだ。すぐに勝手を思い出せた。


「どうやら僕の出番はなさそうなので夕飯の買い出しに行ってきますね。何買ってくればいいっスか?」

「ハーシェル様とトリスタン様は何がお好きなんですか?」

「僕のことはトリスタンでいいっスよ」

「では、トリスタンさんは何かリクエストはありますか?」


 伯父には二人の娘――エウフェミアにとっては従姉妹にあたるが――がいたが、二人とも食にこだわりがあり、いつも細かいところまで注文をしてきた。そういった経験もあり、エウフェミアは一通りの料理は作れる。


「僕は何でもいいですけど、若様は味にうるさいんスよ。この辺りは鶏肉が美味しくて有名なのと、あの人は煮込み料理が好きなので鶏の煮込み料理でも作っておけば文句はそんなに飛んでこないと思います」


 エウフェミアはキーナンでどういった食材が手に入るかを訊ね、今晩のメニューを決めた。市場に買い出しに行くというトリスタンを見送ると、再びエウフェミアはキッチンの掃除を再開した。 

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