1 通りすがりの商人
その日、エウフェミアは馬の
(――もしかして)
慌てて
馬車の横では金髪の男が車輪を覗き込んでいる。見たところ、馬車の御者だろうか。質素な服装はイシャーウッド家で働く使用人のものに似ている。外見で年齢を判断するのがエウフェミアは苦手だが、年上なのは間違いなさそうだ。
久しぶりに見る人の姿にエウフェミアは嬉しくなり、声をかけた。
「どうかなさいましたか?」
「――うわああ!!」
突然声をかけられた男は言葉通り、飛びあがった。振り向いた彼はエウフェミアを見て、目を見開く。その様子をまったく気に留めず、エウフェミアはもう一度訊ねる。
「何かお困りごとですか? お手伝いできることはございますか?」
この周辺は昨夜雨が降った。そのせいで道はぬかるんでいる。見たところ、車輪が
そう思って助力を申し出たが、男は口をパクパクしたまま返事をしない。エウフェミアは首を傾げる。一体、なぜ彼はそこまで驚いているのだろう。
「お困りではないのですか?」
「それはこっちの台詞じゃないっスかねえ? お嬢さんこそ、なんでこんなところに一人でいるんですか。しかも、ボロボロじゃないですか」
そう言われ、エウフェミアは自分の様相がひどいことを思い出した。人前に出る格好でなかったことに気づき、恥ずかしくなる。
「失礼いたしました。みっともない姿をお見せてしまいましたね。ここで生活してる間に少し汚れてしまったもので」
森の中で暮らしているとどうしても服に泥はつくし、枝に引っ掛けて裾が破れもする。元々は上等だったドレスも今は見るも無残な姿だ。
「えーっと、ここで生活って、このあたりに集落はなかったと記憶しているんスけど」
「ええ、ええ。毎日この辺りを散策しているのですけど、まったく家がなくて。あの、どこか人のいる場所に出たいのですけれど、どちらへ行けばいいのでしょうか? 道を教えていただけませんか?」
「ええと」
これを逃せば次に人に遭遇するのがいつか分からない。期待を込めて訊ねるが、どうにも男は戸惑っているようだった。
「——道ぐらいだったらタダで教えてやってもいいが、女の足だと三日はかかるぞ」
声が割って入る。周りをキョロキョロと見回すと、馬車の扉が開き、一人の青年が降りてきた。金髪の男はホッとしたような表情を浮かべる。
「若様」
「近道をしようと思ったらとんだ時間の浪費だな。急がば回れってのは正しい教訓だったわけだ。なあ、そう思うだろ、トリスタン」
そう言ってニヤリと笑ったのは癖のある黒髪の男だった。瞳の色も髪と同じ黒で、少し垂れているが鋭い目つきをしている。おそらく年齢はマイルズとそれほど変わらないだろう。確か元夫の年齢が二十五だったから、それぐらいだろうか。
着ている黒の服は元夫の着ていた物と趣向は違うが、同等に上等の物に見える。彼がトリスタンと呼ばれた男の主人で、この馬車の持ち主なのだろう。
主人の言葉にトリスタンは辟易としたように反論する。
「この道を通ろうって言ったのは若様っスよ」
「ああ。だから、俺の判断ミスだな。――で、アンタ。本当に街まで歩くつもりか?」
二人のやり取りをぼんやりと見ていたエウフェミアは男に言われ、ハッと我に返る。
「ええ。足腰には自信があります」
「分かるか? 三日だぞ。二晩は野宿する羽目になる」
「大丈夫です。ここで暮らし始めて家が出来るまでは地面で寝ておりました。二晩くらいなら大丈夫です」
その言葉に男は御者と顔を合わせる。
「アンタ、いつからここにいる」
訊ねられ、エウフェミアは記憶をたどる。夫に離縁されてからだから、かれこれ――。
「三週間ほど前からです。全然人が通らなくて困っていたのです。こうしてお二人に会えたのは幸運です」
そう言うと、トリスタンは顔をひきつらせた。主人は表情一つ変えず、淡々と言う。
「まあ、この道は廃道になって長いからな。俺たちみたいなせっかちじゃなきゃ、通ろうとは思わねえだろうな」
「廃道、ですか?」
「ここから南に通りやすい広い道路が整備されてんだよ。いくら待っても人っ子一人通らねえだろうさ」
「では、やはりお二人に会えたのは幸運なのですね! もし、よろしければ道を教えてくださいますか?」
二人は再び顔を見合わせる。一向に何も言わないので、エウフェミアは不安になってくる。
「……あのー」
「馬車に乗せろとは言わねえのか?」
「え?」
「そっちのほうが早えだろ。馬車なら街まで半日もかからねえよ」
「乗せてくださるのですか?」
馬車に乗せてもらうという発想はなかった。思わず訊ねてから、エウフェミアは気づく。自身の体を見下ろす。
「いえ、この恰好では馬車を汚してしまいますね。乗せていただくのはさすがに――」
「いや、乗せてやってもいいぜ。ただし、条件がある」
「条件ですか?」
男は懐からライターを出すと、取り出した煙草に火をつける。一服してから、不敵な笑みを浮かべた。
「これでも俺は商人なんだ。手を貸すには対価を要求する。アンタ、何なら支払える?」
男の要求を理解するのに時間がかかった。つまり、彼は金銭を欲しがっているのだろう。エウフェミアは落胆する。
「申し訳ありません。お金は持ち合わせていないんです」
「金じゃなくてもいい。何も持ってねえってことはないだろ」
「……少々お待ちくださいね」
何か彼が喜ぶ物は持っているだろうか。エウフェミアは枝と葉っぱで作った家に向かい、唯一イシャーウッド邸から持ってきたトランクとストールをとって馬車のところへ戻る。
「このストールは旦那様からいただいた物です。元々とても値打ちのあるものと聞いていますが、……寝具代わりに使っていたので汚れてしまっていますのでお譲りするのは……」
「そうだな。元はそこそこの品だが、これじゃあ値はつけれねえな」
検分が終わると、商人はストールを投げて返してきた。トランクの中身も見せるが、入っているのはどれもイシャーウッド邸で使っていた私物だ。こちらにも価値がありそうなものはない。
「あとは……」
少し悩んでからエウフェミアはトランクの奥から小さな布袋を取り出した。
「持ち合わせているのはこれぐらいですね」
その中に入っていたのは宝石のついたネックレスだった。キラキラと光を反射する石の色は無色。今は亡き父から貰ったそれは、唯一実家から持ってきたものだ。今身に着けているドレスも靴もストールもイシャーウッド家が用意してくれたものだが、これだけはエウフェミアの物だ。
トリスタンはネックレスをマジマジと観察する。
「随分と高そうな石ですねえ」
「でも、これは死んだ父に貰った物なので、お譲りすることはできないんです。……そうですね。家事は得意ですし、雑用も慣れていますので何でもお手伝いはできますよ」
エウフェミアが何か提供できるとしたら労働力ぐらいだろう。駄目で元々だ。断られても道を教えてもらって歩いていけばいいだけだ。
取り出したネックレスを元の場所にしまう。その間、商人は何かを考えているようだった。それから馬車の車輪に視線を落とす。
「まず、馬車をぬかるみから出す。手伝え」
「はい!」
それはどちらにしろ手伝うつもりだった。車輪に近づくと、黒髪の男は重々しい息を吐く。
「アンタがとんでもなく世間知らずなことはよく分かった。馬車が動くようになったら街まで連れてってやる。俺が悪徳商人じゃなくてよかったな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます