第2話:イェルクとの出会い

 幼い頃、ミーナはイメディング家という貴族の家庭で暮らしていた。隣接したビルング家とは違い、大きくて美しい城を持っている立派な貴族の家だった。しかし、ミーナは城の中には住めず、外庭の隅にある小さな家で暮らしていた。ミーナは、城主レオポルトの妾、クラーラの子だった。それでも城の敷地内に住まわせてもらえたのは、悪くない待遇ともいえた。

 クラーラは、亜麻色の髪の毛を垂らし、春の空のような青い瞳を輝かせ、わずかな赤色を伴った白さの肌をした、美しい女性だった。いつも微笑みを絶やさぬ、まるで天使のような人だった。

 ただ、その微笑みはいつも儚げだった。クラーラは、自分がどこの誰だか知らなかった。クラーラは、自身にまつわる記憶を失っていたのだ。

 クラーラとレオポルトがどこで出会ったのか、二人とも決して語ろうとしなかった。ただ、レオポルトが三十歳ほど年の離れたクラーラに一目で惚れて、どこかから連れて帰ってきたことは、城内の誰もが察していた。それくらい、レオポルトはクラーラに、そしてミーナに甘かったのだ。金髪碧眼で、人に好かれる魅力的な表情を持った城主レオポルトと、亜麻色の髪に水色の目をした美女クラーラ。その間に生まれたはずのミーナは、赤毛に茶色の瞳を持っていて、顔立ちも二人には似ていなかった。ミーナが生まれてしばらくの間は、城内の誰もが、この赤子はレオポルトの子どもではないと、はばかることなく言い放った。しかし、レオポルトがミーナをあまりにも可愛がるものだから、城内の人々はそのうち、ミーナのことを、両親に全く似ていない気の毒な娘だと話すようになり、ミーナが物心つく頃には、「愛嬌のある顔はレオポルトさまに似ているかもしれない」「口元はクラーラさまに似ているのではないか」などと話すようになっていた。

 レオポルトがミーナをあんなに可愛がるのは、やっと生まれた跡取り息子のコンラートを、遠く離れた王城に行儀見習いとして送り出したからだ、と話す者もいた。この国では、貴族の息子や娘は、ある程度の年齢になれば、より高い身分の貴族の家に奉公に出て、働きながら様々なことを学ぶしきたりがあった。あるいは、修道院に送られて、慎ましい暮らしをしながら様々なことを学ぶのだ。レオポルトはコンラートの将来性に期待して、幼いうちに王城に奉公に出したのだ。レオポルトはコンラートをそれはそれは可愛がっていたので、ミーナはその身代わりだというのだ。


 午後は、母親の膝元で、「むかしむかし、人々が魔法を使えたころ」という枕詞から始まる昔話を聞くのが、幼いミーナの日課だった。そのままお昼寝をしてくれたら、大人たちにとって都合がよかったのだろう。ミーナはクラーラと、身の回りの世話をする数人のメイドたちと暮らしていた。ミーナが寝たら、大人たちも休憩をとるのだ。

 ミーナは金の鞠を抱きしめながら、クラーラが昔話を語るのを待っていた。

 金の鞠は、レオポルトが、王城に奉公に出した息子のコンラートを迎えに行った際に買ってきてくれたものだ。コンラートはミーナの十歳年上で、今年で十五歳になった。レオポルトは、コンラートの帰還祝いの宴をこっそり抜け出してまで、ミーナにお土産を渡してくれたのだ。ミーナは少し不安だった。今までお留守だったコンラートお兄さまがお戻りになったら、もうわたしのところに来てくれないのではないかしら。でも、こんな素敵な贈り物をくださったのだから、これからもきっと大丈夫よね。

 金の鞠を抱きしめていると、お父さまの温もりが伝わってくるようだと、ミーナは思った。たとえ、昨日の晩、これからは今までよりもここに来られなくなるとお父さまがおっしゃっても。コンラートお兄さまはゲルトルート奥さまそっくりで気位の高い方だから、あまり近寄らないようにと、お父さまがおっしゃっても。これからもずっとずっと、ここで幸せに暮らせるのよね。

 クラーラはミーナの赤毛を優しくなでながら、いつものように昔話を始めた。

「むかしむかし、人々が魔法を使えたころ、とある大きな街に、一人の美しい娘がおりました」

 クラーラの語り口調は、穏やかな午後にふさわしい穏やかなものだった。ミーナも穏やかな気持ちで続きを聞いた。

「娘のあまりの美しさに、街中の男たちが結婚を申し込みました。娘は退屈していたので、男たちに無理難題を突きつけて楽しむことにしました。ある男には、西の国の民の緑色の瞳のような色をした織物を持ってくるように言いました。別の男には、東の国の民の赤毛のような色をした織物を持ってくるように言いました。中でも一番貧しそうな男には、わたしの髪の毛のような美しい金の糸を持ってくるように言いました」

「東の国の人は、私と同じ髪の色をしているの?」 

 ミーナが尋ねると、クラーラは、さあどうかしら、と答えた。

「金の糸って、この金の鞠をほどいたら取れるかしら?」 

「きっとそうね、でもほどいてはだめよ。レオポルトさまがせっかくくださったのだから」

 クラーラはミーナの頭をぽんぽんと叩いてから、話を続けた。

「男たちは言われたとおりの物を持ってきました。しかし娘は受け取ろうとしませんでした。娘はこう言いました。あなたたちが持ってきたものは、まったく美しくない。もっと美しいものを、わたしにふさわしい美しさのものを持ってきてちょうだい、と」

 ミーナは、娘が欲しがった美しい織物や金の糸がどんなものか想像して楽しんでいた。

「これを聞いた男たちは、娘との結婚をあきらめました。全財産をはたいて金の糸を買った貧しい男はたいそう怒って、娘をこらしめようと思いました……」

 その続きは、ミーナの耳には入らなかった。ミーナは、美しい織物で作った美しい服を着て踊る自分を想像して、そのまま眠ってしまったのだ。

 クラーラはミーナに暖かい毛布をかけてやり、メイドたちにも休むように言い聞かせた。メイドたちは、前の日の宴の支度に駆り出され、疲れ切っていた。クラーラも疲れていたのか、ミーナの側で身体を横たえた。

 やがてミーナが目覚めると、クラーラもメイドたちも眠っていた。ミーナは一人で庭に出るなと言われていたけれど、大人たちを起こすのも悪い気がして、こっそりと扉を開けて庭に出て行った。


 ミーナはぽんぽんと鞠を突いてみた。以前、庭の隅で、まだ幼さの残る奉公人たちが遊んでいたように、器用に鞠を突いてみたかった。しかし、家からあまり出してもらえないミーナは、遊びの経験が乏しく、奉公人たちのようにうまく鞠をつけなかった。つこうとすると、手のひらを離れて転がっていく鞠を追いかけ、拾いあげてはまたついて、また手のひらを離れて転がっていく鞠を追いかけて……。やがて鞠は、裾の長い服を着た女性の足元にぶつかった。女性は鞠を拾いあげると、冷たい目でミーナを見下ろした。縁取りをしたベールの中にきっちりと結いあげた金髪をしまい込んでいる、冬空のような冷たい青の瞳をした女性。その人こそ、イメディング領主の正妻、ゲルトルート夫人だった。

 ミーナはゲルトルートのことを遠くから見たことは何度もあった。しかし、こうして会うのは初めてだった。メイドたちが口を揃えて「とても厳しい方だ」と話す、気位の高い奥さま。さっきお母さまが語ってくれた話に出てくる、気難しくてわがままな娘は、きっと若い頃の奥さまそっくりに違いない……そのとき、ミーナはそう考えていた。

「何かわたしに言うべきことはないのですか、ウィルヘルミーナ」

 ゲルトルートは低い声でミーナに声をかけた。まるで冬の厳しい風に吹かれたように、ミーナは身震いした。気が動転したミーナは、とんでもないことを言い放った。

「奥さま、その鞠を返してください。その鞠はお父さまからいただいた大切な鞠です」

 ゲルトルートは眉根をくっきりと上げた。ミーナはすぐに自身の過ちに気づいたが、既に遅かった。

「なんて、失礼で、身の程知らずな……。さすが、あの女、レオポルトをたぶらかしたあの魔女の娘ね!」

 ミーナは叩かれると思った。奥さまはメイドを躾けるためにいつも鞭を持ち歩いているという噂を聞いたことがあったからだ。ミーナはぎゅっと目を閉じて身をすくめたが、次に聞こえたのは鞭の音ではなく、何かが水に落ちた音だった。

 ミーナが恐る恐る目を開けると、金の鞠は左手にある泉に、かろうじて浮かんでいた。イメディング家のご先祖さまが大金をはたいて作り上げたという、人工の泉だ。ミーナが泉に入って鞠をとることなど到底できない深さだった。

「ああ、鞠が……お父さまからいただいた、鞠が……」

 ミーナはへたり込んで泣き出した。既にゲルトルートはいなくなっていた。これだったら叩かれたほうがましだとミーナは思った。ミーナの幸せの象徴は、無残にも投げ捨てられたのだ。


 ミーナが泣いているうちに、金の鞠は泉に沈んでしまった。途方にくれていると、ミーナを呼ぶ声がした。お母さまだと、ミーナは思った。クラーラはよほど走ったのか、胸を押さえていた。クラーラはミーナの顔を見て何か察したのか、ミーナを抱きしめた。

「お母さま、鞠が! 奥さまが、鞠を!」

 ミーナは、自分が奥さまの怒りを買ったばかりに、お父さまから頂いた鞠を捨てられてしまったと、きちんと説明しようと思ったが、言葉にはならなかった。

「かわいそうなミーナ! 鞠のことなどどうでもいいのよ。わたしは、あなたさえいてくれれば、それでいいの。もし、あなたがいなくなったら、生きていけないわ」

 ただひたすら涙を流すクラーラを見るうちに、ミーナに怒りの感情がわいてきた。

「奥さまは、お母さまのことを魔女だと言ったの! わたしは言い返すこともできなかった!」

 クラーラはさらにきつくミーナを抱きしめた。

「ミーナ、わたしはなんと言われてもかまわない。あなたとここで暮らせるなら、どうなってもかまわないのよ」

 クラーラは泣き止むと、涙でぐしゃぐしゃになったミーナの顔を、肩にかけていた布で優しく拭った。

 そのとき、誰かの足音がした。クラーラが足音のしたほうを振り返ると、一人の少年が突っ立っていた。年は十五歳くらいだろう。赤茶色と青い色の片身替わりの服を着ていた。その服は奉公人の着る服だと知っていたクラーラは、早く退散しようと思い、ミーナを軽くつついた。

「あの、どうか待ってください」

 少年は大声を出した。ミーナはやっと、少年に気がついた。ミーナはその少年を怖いと思った。少年の髪の毛は烏のように黒くて、その目は、先ほどのクラーラの話に出てきた西の国の民と同じで、緑色だった。緑色の目の人など、ミーナは見かけたことがなかったのだ。緑色は初夏の若葉の色であると同時に悪魔の色だと、この国、リタラント国ではそう捉えられていたのだ。

「何かご用ですか……?」 

 クラーラはおずおずと尋ねた。緑の目の少年は、クラーラを見つめていた。

「あなたの……あなた方の、力になれたら、と思ったのです。何かお困りのようだから。いえ、決してのぞき見していたわけではないのです。ただ、女性の泣き声がしたから、何かあったのかと思って」

 それを聞いたミーナは、この人なら自分たちを助けてくれるかもしれない、と思った。

「わたしが大切にしていた鞠を、奥さまがあの泉に投げ込んでしまったの。鞠は沈んでしまったわ。だから、困っていて……」

「ミーナ!」

 クラーラはたしなめるようにミーナの名を呼んだ。

「奥様が、君の鞠を? ひょっとして、貴女方は……」

「あなたは奉公にいらしたのでしょう。わたしたちに関わってはいけません。きっと、奥さまのお怒りを買う。あなたにとっても、あなたのご実家にとっても、それはよくないことでしょうから」

 クラーラは珍しく大きな声を出して、少年の言葉を遮った。少年はミーナの顔とクラーラの顔を交互に見ると、次の瞬間、どぼんと泉に飛び込んだ。クラーラは小さく悲鳴を上げた。ミーナは自分が助けを求めたことを後悔した。秋の冷え切った水の中に飛び込んでしまうなんて。ミーナは少年が水面に上がってくるのを祈るような気持ちで待っていた。

 長い時間が経ったように思えた。少年は鞠を持って水面に上がってきた。ミーナは心底ほっとした。しかし、少年は岸に上がってこようとしなかった。

「つい、見境なく泉に飛び込んでしまいましたが」

 少年は困っているようだった。

「濡れた服や身体をどうすればいいかまで、考えていませんでした」

 それを聞いたクラーラは面白そうに笑い出した。お母さまがこんなふうに笑うのは初めて見た、とミーナは思った。

「この布でよければ、お使いなさい」

 クラーラは先ほどミーナの顔を拭いた布を持って、少年が浮かぶ水面に近づいた。少年は岸に上がり、クラーラから布を受け取ると、恥ずかしげにぱっと飛び退いて、それから木の陰に隠れていった。

 その間、ミーナはずっともじもじとしていた。少年にお礼を言わなければならない。しかし、どうやってお礼を言ったらいいかわからない。ミーナは案外、人見知りするところがあった。

 少年はまだまだ半乾きの服を着て、木の陰から出てきた。腕にはあの金の鞠を抱えていた。ミーナはうつむいたまま、少年から鞠を受け取った。少年は気にした様子もなく、クラーラのほうに目をうつした。

「この布、いつか必ずお返しします。」

 少年はクラーラに頭を下げて、立ち去ろうとした。

「待ってください、イェルク・ビルングさま」

 クラーラが声をかけた。少年は驚いて振り返った。

「どうして、私の名をご存知なのですか?」 

「メイドたちが噂しているものですから……」

 クラーラが気まずそうにいうと、イェルクも苦笑いした。

「この厳しいお屋敷でも、メイド達はお喋りなものですか。できれば武勲をあげてから、噂の種になりたいものです、クラーラ様」

「やはりわたしのことをご存じなのですね。なのに、どうして……」

 クラーラは少しの間うつむいて考え事をしている様子だったが、すっと顔を上げた。

「イェルクさま、このままでは風邪をひいてしまいますわ。どうか、わたしの家まできて、身体を暖めてください。あとのことは、メイドたちにうまくごまかしてもらいましょう」

 クラーラはイェルクに手を差し伸べた。イェルクは戸惑っているようだった。

「イェルクお兄さま、そうして。わたしもあなたにきちんとお礼がしたい」

 ミーナは勇気を出してイェルクに声をかけた。イェルクは緑の目を少し大きく開いて、それから目を細めた。

「お兄さまか、その言葉だけで礼は充分だ。私は妹が欲しかった。君がそう呼んでくれて嬉しい。君の名前は確か……」

「ウィルヘルミーナ。ミーナって呼んで、イェルクお兄さま」

 イェルクは微笑みながら、ミーナの名前を呼んだ。そのときのイェルクの優しい目を見て以来、ミーナの一番好きな色は緑色となった。

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