走ってばかりだし

いつも走ってばかりだし。たまには走らず歩いていこう。急ぎの予定はもはや明日。今晩はもう、急いだって沈みきった夕日に追い付くことはできない。


20年生きてきて僕は、社会一般のせっかちな臭いが染み付いてしまったらしい。かなり気を張って筋肉の緊張を解いていかないと、水平に伸びるアスファルトの上を、登山中の野道のように踏みしめてしまう。


いつも急いでばかりだし。たまにはゆったり歩いていこう。僕の脚は無駄にボロボロになって、小手先のストレッチでは全然ほぐれない。


立ち止まって、目をつむって、息を吐き出して、目を開かない。口を飛び出した水蒸気が吸い込まれ、突き抜けそうなほど澄んだ夜空の下で、立ったまま眠るのも悪くないと思った。


視界を塞いだまま僕は歩き出す。まっすぐ歩ける確信ができた時だけ踏み出すことにする。しかし僕に染み付いたせっかちの臭いは相当キツいみたいで、どうしても次の脚が次の脚がぱっ、ぱっ、と前に急ぎ歩みを進めたがる。


これではいけない。と思って僕は目蓋を降ろす力をきゅるっと緩めて歩き出す。代わりにおでこを押し上げると、イメージ的には涙袋が、実際には頬の上顎部分がピンと張る。


頭にじゅわじゅわ血が昇ってきて、眠くて暗がっていた脳の細胞がほんわりと再点灯した。足の先から指の先まで血行が良くなり、体からはみ出る4cm先まで神経が通っているような感覚がする。


宇宙と一体になるような幸福は僕には分からないけれど、少なくとも僕の中に僕だけの時間が流れているこの瞬間が、異常なまでに愛おしかった。これが幸せか、とあえて口に出してみる。


ふと、こんな幸せを自分が感じていてもいいのかと、罪悪感が叫びをあげて襲いかかってきた体はぐにゃんぐにゃんに歪んでいて人ならざる者が両腕に握った包丁が振り回されているのに常に刃先が僕の胸に向いていて避けられない柔軟な手首の動きの前に僕はあっけなく刺されて死ぬ恐怖を見た。


僕は震え上がった。


僕は立ち止まらず、耄碌したおじいちゃんのようによちよち歩く。振り替えれば恐怖がいる気がして、振り返る。また首を戻せば恐怖が目の前にいて、僕は既に刺されていることに気付くのかもしれない。


そこのブロック塀のせいで見通しの悪い十字路から恐怖が飛び出してくるかもしれない。真っ黒で微塵も照らされていない影に潜む通り魔が、僕を刺し殺すのかもしれない。


ずっと後ろで恐怖が叫んでいる。訳の分からない糾弾の歌を怒鳴り散らしている。


でも僕は怖くない。僕は自分の罪を背負って、幸せになれずに苦しむことを望むようになる。時にその苦痛から逃げ出しそうになったとしても、その時は恐怖が僕を捕まえて刺し殺してしまうかもしれない。


僕は恐怖の奴隷になってしまったせいで、幸せに生きる自分を許せなくなってしまった。幸せであれば罰されるべき僕が罰されていない現実を、誰かが知っているのではないかと。


君には言えない。僕は僕の恐怖になり変わり得る誰かを恐れている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る