第7話
マネージャーが君を紹介する。君は、居酒屋の薄暗い人工的な光の灯るカウンターの奥で、まるで子供のように現れた。
皆が忙しいと思いながらジョッキを一度に10杯も運んでいる途中で、空気を読めずにトイレに行ってしまう。足運びは不安定でジョッキをいつ溢すかわからなかった。その心配をよそに、自分は人並みに働いているという風な顔をしている。そのことを腹立つと言う人もいた。
私は丁寧に仕事を教えた。君の物覚えは良い方だったと思う。
君はある時酔っ払いにクレームを入れられていたね。ここで何かカッコよかったエピソードがあればいいのだけれど、特にない。君はまともに反論できていなかった。
春風も冷える夜十二時ごろ、私と君は街を歩いた。君は駅とは反対の方向に無理してついてきて、正直、下心が見え見えだった。歩いて数分も経たないうち、君は早くも好意を露わにした。
私には過去に二人の男がいたが、どれも年上だった。そのような事情もあって、私には君が幼く見えた。
でも私を素直に見てくれるところは良いと思った。どんな人よりも私のことをそのまま見ていた。だから君の目の良さを褒めたんだ。
「今度は僕と家に行ってくれませんか」
「今度」とは一週間前、バイト仲間で行った飲み会で、私が酔っ払ってマネージャーに送り迎えしてもらったときのことを前提にしているのだ。君はそこで、次は自分に運ばせてくれと言っているんだ。
「運べる? 重いよ」
私は一瞬で脱力した。全体重を地面に流し込む。そのまま君に引っ付いた。密着した状態で話す。
「私は、もう誰のことも見ない。確かなものがないから」
「確かなもの?」
「祖父がいるんだ……。いや、いたんだ」
私はスマートフォンから写真を見せる。平成の時代に焼き増しした写真を、スマホで上から撮影した。綺麗さのかけらのない記録用の写真。
そこには祖父の姿が写っていた。今より彼が若かった頃、元気だった頃の写真だ。その隣にはさらに年老いてからの姿がある。介護用ベッドの上で目を瞑っている姿だ。
「長らく誰にも見られなくなったから、私が確かではなくなってしまった。私を見る目はずっと空虚な認知症の目だったんだ」
鼻をつんと刺す酸の匂い。それはベットの下で小便が腐るから感じるのだ。肌は削れたコンクリートのようだ。あの老人が息を吹き返す。
長く続いた介護の日々。その目はもはや私のことを見ていなかった。
「お爺ちゃんが嫌いなわけじゃないよ。お爺ちゃんの目がまだ私を見ていた頃は、私は祖父の賢さを敬愛し豊かな風味を感じていた」
だが時間の流れが祖父から豊かさを失ってしまった。
「母さんや」
祖父はなぜか私をそう呼んだ。気持ちが悪かった。
君は私にいくつかの疑問を投げかけた。
「親に強いられた?」
「そうかもしれない。でも私が祖父を助けたいと思ったのは本当だ。祖父の意識、そんな変わりやすいものを私は無邪気に信用していたのだから」
「意識を確かではないものと思っているの?」
「……そうだよ。実際、祖父はそうやって狂ってしまったからね」
「意識ほど確かなものはないよ」
「本当に?」
目に見えるものは全て印象にしかならない。ぼやけていく。その瞬間、大地が揺れ出した。大地がゆれて、ビルが倒壊した。咄嗟に危険な場所から君をどかした。すんでのところで瓦礫がぶつかりそうだった。
無慈悲のパイプが槍のように人に刺さる。さっきまで私の目の前を歩いていた女の子たちだ。突き刺さって死んでいる。
穏やかなまま人が死んだ。人々の目は祖父の目だ。
首都圏を100年ぶりに襲った大地震だった。首都直撃は避けたものの、静岡県、神奈川県を中心に被害が甚大だそうだ。復興には時間がかかるそうだ。SNSでは連日議論で賑わっていた。
あれから私たちは東京に避難した。新しい家は祖父がかつて住んでいた家だ。二度と戻るまいと思っていたが仕方なかった。母と父は……意外なことに、私のことを歓迎した。二人が歓迎したからと言って、別に私が歓迎するとは限らないところが難しい。祖父の介護をやめて逃げ出した私のことをどう思っているのだろうか。
君は意識の確からしさを失ってしまった。今でも神奈川の大学に通っていると思っている。パイプで串刺しになってしまった少女を見た瞬間から、私を槍で刺したいという願望を口にするようになってしまった。日がな知らない人間と話しては、私を串刺しにすることを話している。
彼は本当に今も私のことを見ているのか? 祖父のように私以外のことを見ているんじゃないのか?
君は竹製の棒を蔵から取り出してきた。昔、竹細工に使われていたものだ。祖父は昔竹馬を作ってくれた。それを上手く半分に割って、赤く錆びついた鉄の棒と結びつけた。
「この槍を君に撃ち込まねばならない」
この槍を私に撃ち込むと、果たしてどうなってしまうのだろうか。私は気になった。だから色々と問いかけた。
「確かなものってあると思う?」
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