悪夢

 そこは、ノーチェスから遠く離れた異国の地。ある大魔法使いが私用でとある国に訪れていた時のことだった。

 突如、魔法による通信で脳内に流れ込んでくる言葉。聞き慣れない言語だったが、直感で理解することができる。この国の言語だ。大魔法使いはふよふよと空を泳ぎ、くつろぎながら言葉の端々をかいつまんで解読する。



(南西……魔獣……緊急……要請……って感じ?)



 通信はその後も訳の分からない言葉を続ける。大魔法使いはその度に頭を捻らせてどうにか翻訳をするが、肝心な部分がどうにも分からない。



「わざわざこんな辺境の地に来てまで任務ぅ? めわどくさいったらありゃしない。やだやだ、私は自由なのがいいの」



 そう言って大魔法使いはついに解読を辞め、だらだらと空を飛ぶ。だが、いくら大魔法使いが応答せずとも、通信は続いた。同じような内容の言葉を繰り返し、何度も、何度も懇願するような口ぶりで、最後にはすすり泣く声すら聞こえるようだった。

 そこまでされて無視をするほど、大魔法使いは外道ではない。観光、休息。今欲しいすべてを投げ捨て、大魔法使いはようやく通信に応答する。



「うるっさいんだよ! どこのどいつだ!」



 開口一番に通信してきている相手を怒鳴りつける。その声はあまりにも大きく、下の賑わっている街にも響いたらしい。ぽつんと、1人空に浮かぶ魔法使いを人々は見上げていた。

 通信は、また伝わりもしない言葉で大魔法使いに語りかける。先程とは比べ物にならないほどの集中力で、大魔法使いはその言葉を翻訳し、解読していく。まるでジグソーパズルのように組み立てられていく言葉は、やがて意味を成し、大魔法使いに重大な任務を与えた。



(南西の……森? 赤褐色の魔獣……正体不明。緊急で、大魔法使いに要請を送る……)



 そして、その言葉の最後にはこう続けられた。



「……『どうか、我らの罪を赦し給え』」



 魔法使いらしい黒いローブを身にまとい、女は訝しむ。その言葉に心当たりはなかった。罪など犯された覚えなんてなかったし、赦すような立場にある者でもない。ならば、その言葉は一体、言葉なのだろうか。



「ま、考えたって仕方ない! 今は任務に集中しますか〜」



 そして大魔法使いは駆ける、久しぶりに見る青い空を、と共に。



「獄蝶のジョカ、久しぶりに仕事しま〜す」



 大きな街をほんの数秒で通り抜け、1分も経たないうちに獄蝶のジョカは現場に到着する。既に臨戦態勢に入っているのか、紅い蝶は数を増やしていき、10数匹が周りを飛んでいる。

 鬱蒼と陰る森の奥。かすかに感じる命の気配と、揺れる木々。獄蝶のジョカは上空からじっくりと様子を見る。直後、バタンという強烈な音が辺りに響き渡る。土煙を立てて森の一部がなぎ倒され、朝日に晒されて魔獣の姿が明らかになった。

 血なまぐさい赤褐色の肌。そこらの魔獣と比較しても数倍大きな身体。顔、手、足。骨格までもが。その魔獣の姿は、まるで人間のようだった。人であることを捨てた『元』人間。理性も感情もなく、ただ暴虐の限りを尽くす化け物と化している。その特徴に、獄蝶のジョカは心当たりがあった。



「悪夢の怪物。久遠きゅうえんたる者が残してしまった真なる人類のなり損ない……。一体誰が悪夢を呼び起こしてしまったんだ……」



 獄蝶のジョカは何かを知っているのか、意味深なら口振りでぶつぶつと独り言を呟いている。獄蝶のジョカがボーッと何か考え込んでいると、魔獣はキュロキュロと眼球をだけを動かして上空に佇む獄蝶のジョカを発見した。

 人のものとは思えないほどの耳をつんざくような奇声が森全体を激しく揺らす。木々が葉を落とし、鳥たちは一斉に避難を始めた。ただ、そんな中で唯一、獄蝶のジョカだけは何のリアクションもなしに魔獣を見つめていた。



「くそ。あんな男の後始末なんざ、さらさらないんだけどね。放っておくと面倒そうだ」



 ザワっと、魔獣が背筋を凍てつかせる。死はもう目の前まで迫っていることに、その瞬間まで気づくことができなかったのだ。



「‪”‬紅蓮華ぐれんげ‪”‬」



 魔獣が逃げようとした時には既に肌が焦げていた。振り返り、走り出そうとした時には手足が焼け落ちていた。命を乞う間もなく、魔獣は灰となった。何もかもが手遅れだった。



「どこの誰だか知らねぇが、誰を敵に回したか……分かってんだろうなぁ」



 獄蝶のジョカについて知るものは語る。目が合う前に逃げろ、と。出逢えば最期。目が合えば死。それが、最強の大魔法使い、獄蝶のジョカなのだ。



「晦冥の華は枯れたって? んなわけねぇだろ。お前らが手を出そうとしてるのは、今にも華を咲かせようとしてる新芽たちだ」



 怒りて、行き場のない怒号を魔獣の死体に吐き捨てる。



悪夢ナイトメア共が。身の程を知れ。お前らは一度淘汰されたなり損ないなんだよ」



 紅い蝶が一斉に飛び立つ。無尽蔵に湧き出る獄蝶が、空を泳ぎ、踊り、舞う。そして獄蝶は街に、国に、世界に飛び立っていく。



「私は大魔法使い、獄蝶のジョカだぞ? お前たちを根絶やしにするなんて、指先一つでこと済ませてしまえる」



 パチン、と軽快な音が鳴る。その音はせいぜい、獄蝶のジョカの周り数メートルほどまでしか聞こえなかっただろう。響く音が消え、一瞬の静寂に獄蝶のジョカは包まれる。

 その瞬間だった。獄蝶のジョカが指を鳴らした直後、で小規模の炎を伴う爆発が起きた。その爆発による負傷者、死傷者はいなかった。そして、その爆心地では、例外なく、亡骸となった巨大な人間らしき化け物が確認されたという。



「……さて、これからどうなるかな」



 獄蝶のジョカはそう言うとくるりと踵を返して帰っていく。通信は、もう聞こえてこなかった。



『我らが罪を赦し給え』



 その言葉の意味を何となく理解できた獄蝶のジョカは、ひと仕事終えて一息つこうと、もう一度あの街へ戻るのだった。

これが、旭たちがある討伐依頼を受けたの出来事だ。

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