灰燼に帰す ―2―
抱いた感情に名前はないと思っていた。助けを求める声が聞こえて、どうしてか走り出していたこと。それに、特別な何かはないと思っていた。
(……俺、どんだけ寝てたんだ)
でも、死の危機に瀕したあの瞬間、自分を突き動かしたあの時の感情に、旭は名前があることを知った。死にたくないと、まだ死ねないと抗おうとした瞬間、思い浮かんだのはモニカの姿だった。
「出てこい、八重」
そう呟いて旭は殺生石を手に取るが反応はない。ギルドの宿屋の一室。爽やかさなど欠片も感じられない憂鬱な夜空を見て旭は目覚めた。やはり、何度見ても、旭は空を覆う夜の天蓋を好きになれない。
旭が殺生石から手を離すと、手のひらに焼けるような痛みが走った。思わず殺生石を投げ飛ばしてしまう。
「な、んだ……これ」
旭が右手の手のひらを見るとそこあったのは、自分のものとは思えないほど紅く燃えている腕だった。ところどころ
「熱……くない。痛みも……」
何も感じない。右手でベッドのシーツに触れても、何の感触もなかった。見るからに熱そうな手で触れたシーツも、焦げることはなく純白を保ったままだ。
「ふぅ。いきなり投げ飛ばすでないわヤンチャ小僧が」
「……八重?」
「それ以外の何者に見える?」
そして、旭は昨日の夜の出来事をふと思い出した。問いただしたいことは山ほどあった。感傷に浸る間もなく、身体は勝手に動く。旭は焼け焦げたような右で八重に掴みかかり、怒りで顔を歪ませながら言った。
「説明しろ! 何がどうなってる!」
ばたんと大きな物音を立てて旭は八重をベッドに押し倒す。その瞬間、八重の表情が変わった。
「不心得者が。誰に手を上げているのか分からぬのか」
にこやかな笑顔は、怨霊に相応しい歪でおどろおどろしいものへと変化する。この世のものとは思えない空気を漂わせ、八重は旭を睨みつけた。
「1秒くれてやる。その手を離せ」
それは正しく、妖たるものの雰囲気を放つ言葉の重みだった。圧倒的強者の風格。ドスの効いた低い声。品があるのに見下しているような言葉。それらが、今目の前にいるのが玉藻の前だということを理解させる。旭は八重の胸ぐらから手を離し、顔は歪ませたまま従った。
「ふん。貴様が妾の子に好かれていなければその腕ごと切り落としていたところだ」
「……もう1回言うぞ。説明をしろ」
「焦るでないわ小僧。なぜそうも生き急ぐか」
右手に力を込めて、旭は手を握りしめる。だが、八重は余裕といった表情でのんびりと伸びをしたりして、焦る旭を煽っているようにも見えた。
「妾は消えるあの瞬間、肉体を捨て魂をこの殺生石に注ぎ込んだ。過去に1度、とある陰陽師に封印された技の応用じゃ」
八重は続ける。
「旭よ。妾がこうして姿を象ってここに存在しておるのは、お主の妖気を使っているからじゃ」
「そこらへん、特にわからん。まず妖気ってのはなんだ」
「ふむ。それを語るにはまずお主らが扱う魔力、及び
「対して妖気とは、己の内に宿る力じゃ。そこここに転がっておる
「で、なんでそれを俺が使えるんだ」
「……知りたいか?」
八重は妖艶な笑みを浮かべて旭に問いかけた。八重は脅しのつもりでやったのだろうが、どうやら旭には逆効果だったようだ。旭は真剣な眼差しで何も言わずただコクリと頷いた。
「お主は、なぜ自分が妖を見ることができるのだと思う?」
「俺が特別だから」
「自惚れるなバカ者」
「まぁ、ちゃんと答えるなら……そうだな。お前たちの言う『繋ぐ者』だからじゃねぇのか?」
意味は変わっとらんと、八重は残念がるように首を横に振ってため息をつく。
「よいか? あれは特別な存在じゃ。間違っても今後、己が『繋ぐ者』などと抜かすでないぞ」
「……その『繋ぐ者』についても気になるが、もったいぶってないで教えろよ」
八重はどうやら言い淀んでいるのか、口をもごつかせて言葉を詰まらせる。
「はぁ、言いたくないなら……」
「いや、言う。だが、少し時間をくれ」
旭は、八重が話し出すまでじっと待っていた。やがて、旭が暇になりすぎて天井の木目を数えようとした時、ようやく八重は口を開いた。
「この世には、『半妖』と呼ばれる人間がいる」
言葉通りの意味だろう。半分は人間で、もう半分は妖。旭は足のない幽霊のような人間を想像し、くだらないなと妄想を一蹴した。だが、なぜ今八重はそんな話をしだしたのだろうか。
「残念じゃが。今お主が想像したものは『半妖』ではないぞ」
「……思考盗聴か?」
「そんなことできるか、たわけ」
旭が想像したものが半妖でなければ、それは一体何を指す言葉なのだろうか。旭は必死に頭を捻るが、どんな姿を想像しても最終的に足のない幽霊のような姿に行き着いてしまう。
「『半妖』とは、人と妖の境界に立つ人間のことを言う」
「もっと簡単に」
「いわば、人と妖。両方の特徴、特性を持った人間の事じゃ」
「……それが俺だと?」
「本来ならば、違うだろうな」
本来ならば、と再度八重はやけに強い口調でそう言い加えた。
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