怨炎 ―3―

 それは、はるか昔。極東がまだ「日の国」と呼ばれていた頃のこと。ある寒い雪の季節に、その妖は誕生した。誰かの腹から産まれた訳では無い。ただ漠然と、その妖は自分は死んでしまったのだ、ということだけ理解できていた。

 その日は特別寒い夜だった。凍えるような吹雪が襲いかかり、視界は真っ白に染め上げられ、これ以上ないほどの銀の世界を見た。

 己の姿も何も知らぬまま、吹雪く風から逃げ続け、妖が人里にたどり着く頃には朝日が昇っていた。吹雪の勢いが少し収まった早朝、里に住む人々が起床し始める。戸を開け、ある女の目に映ったのは、積もりに積もった雪ではなく、の姿をした化け物。その瞬間、空を切り裂くような甲高い悲鳴が響いた。



「ば、化け物……」



 その言葉は自分に向けられた言葉なのだろうと、考えずとも妖は理解した。物悲しそうに妖は俯き、人里を離れ、今度は人目につかない道をとぼとぼと歩き始めた。行き先など決まっていない。積もった雪の踏みしめ、ただ何も考えず歩いていた。


 そんなことを毎日繰り返し続けて数日が経ったある日。妖はぱたりと雪の上に倒れ込んだ。妖といえど、無尽蔵の体力があるわけではなかった。妖の命は確実に削られていき、ついに立っていることもできなくなってしまったのだ。


 月が妖を見下ろす。もういっそ楽になってしまおうと目を閉じようとした瞬間、妖の身体は何者かに寄って担がれた。抵抗する体力もなく、妖はただされるがままに、ゆっくりと目をつぶった。



 妖の死。2度目の死で、魂はどこへ連れていかれるのかと考えていると、次の瞬間、妖は現実へと引き戻されてしまった。心までほかほかと温まるような温もりを感じていると、妖は何者かに声をかけられた。



「目を覚ましたか」



 妖が目を覚ましたのは、小さな小屋のような場所だった。人間ひとりがギリギリ生活できるかどうか、というくらい小さな小屋。妖は綿でできた布の上に横たわっており、丁寧に夜具まで掛けられていた。妖と目が合ったのは、透明のようにも見える美しい白髪の男だった。雪よりも白い髪の男が再び妖に声をかける。



「名前は?」


「……ない」



 その時、妖は初めて誰かと言葉を交わした。何か、胸がじんと熱くなるような感覚に包まれる。妖の返答に戸惑うことなく、男は返事をした。



「そうか、俺もだ」



 男はそれ以上何も言わなかった。ただ、何をする訳でもなく、物思いに耽るようにじっとしていた。風の吹雪く音だけが聞こえる、言葉にできない耐え難い苦痛に耐えかねて妖は男に言った。



「なぜ、妾を助けた」



 男は妖と目を合わせ、少し考えた後に言った。



「理由なんてない。ただ、目の前の死にそうなやつを見捨てると、怒られそうなんでな」


「誰にだ」


「…………さぁ」



 男は立ち上がり、氷が詰められた木樽を開け、何も言わず数匹の魚を妖に渡した。カチコチに凍った魚は凍らせて保存されており、鮮度は保たれているが、およそ食べ物とは思えないほどの硬さをしていた。しかし、飢えていた妖は魚を頭からかじりつき、恥を捨てて必死に食べた。目からは大粒の涙を流し、言葉にもできない喜びを噛み締めて腹を満たす。



「美味いか」



 その言葉に答えるように、妖は大きく頷き、凍った魚にかぶりつく。食べて、食べて腹を満たし、泣き疲れてしまった妖は、また眠りについた。

 毎日、毎日。男は妖のために吹雪の中、魚を捕ってきた。近くに小川があるのだと男は言ってたが、この寒さの中、魚がそう簡単に捕れるはずがないと妖も気づいていた。だが、男の恩情に口は挟むまいと妖はあえて何も言わなかった。

 それから数日が経った。毎日休ませてもらって英気を養っていた妖の身体はすっかり回復し、飢えも収まってかつての倍以上の力を手に入れていた。妖と男の関係は少しづつ深くなっていき、良き話し相手になっていた。



「人間よ。お主はなぜ1人こんな場所で過ごしておるのだ。南東には大きな人里があるというのに」


「お前がここにいるのと一緒だ」



 その言葉を聞いて、妖は数日前にある人間に言われた言葉を思い出した。


「化け物」


 妖は、自分はもはや人間では無いということを知っていた。だから、人間を脅かさないようにと、ここまで離れた場所へやってきたのだ。



「お主も……妖なのか?」


「違う、俺は――」



 お前たちよりも、もっと恐ろしい「化け物」だ


 男のその言葉に、一切の偽りはないと妖は確信したが、その正体にまで踏み込もうとはしなかった。男の言う通り、妖は恐れていたのかもしれない。それ以上のことを知ってしまえば、もうこの男を「人間」として見れないと思った。



「これでお前のように狐の耳でも生えていたら、俺はとうとう人間をかたることもできなくなる」


「はは、存外似合うかもしれんぞ」


「……まぁいっそ、異形になってしまうのも手かもしれんな。人の形をした化け物ほど怖いものもないだろう」



 人の形をした化け物、というのは正しく男を言い表すのに完璧な言葉だった。男は妖が英気を養っている数十日の間、飲まず食わずで飢えもせず、寒さで凍えることもなく、吹雪の中迷うことなく毎日魚を捕ってくるのだ。僧かと思うほど何かに集中して声もかけられないこともあった。人間離れした体力と精神力。特に体力に関しては、この男は何をやったら死ぬのかと疑問に思うほどだった。



「……妖。お前は人里に行け。俺のように妖に理解のある人間は必ずいる」


「だが……」


「心配するな。人間はお前の思っているほど醜くはない。むしろ、お前のような物好きはすぐに人間を好きになれる」


「……あぁ、そうだな」



 それから数ヶ月。別れを惜しむまもなく、雪の季節は溶け、地面からは花がつぼみ始めた。残り数日の時間を大切に過ごし、ついに妖が人里へ行く前日になった頃だった。



「外へ出ないか。お前に見せたいものがあるんだ」



 久しぶりに見る外の世界は、美しく輝いているようだった。雪の吹雪いていたあの季節とは違う、暖かな陽気を感じられる。ぽかぽかと心までも温める太陽の光を浴び、男と妖は森の奥へ歩んでいく。まだ森の中には雪がチラホラと見える。まるで2つの世界が混ざりあったような神秘的な光景であったが、男の見せたいものはこれではなかったらしく、まだまだ奥へと進んでいく。そして、2人がたどり着いた森の奥深くにあったのは――



「八重桜、という桜だ。こんなにも早く花を咲かせる桜も珍しいだろう」


「……なんと、美しい」



 煌めくように美しい桃色の花を咲かせる巨大な桜の木が、舞い落ちる雪のように花弁を散らしていた。「美しい」以外の言葉が見つからず、唖然としていた妖に男は言った。



「お前は名が無いのだったな。なら、俺がくれてやる」



 その瞬間、大きく風が吹いた。新たなる始まりを予感させるような風が、桜の吹雪を吹かせて2人を通り過ぎていく。八重の桜が、狂わせるように舞い散る。



「お前はこれから「八重やえ」として、人間として生きろ。そして、お前の望む世界を作ってみるがいい」



 お前がどこへ行こうとも、俺はそれを見守っている



 その言葉を胸に然と刻み、八重は再び歩き出した。

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