落下

 これは、昔話だ。俺の、騎獅道旭の、忘れ去ろうとしても、記憶の中に染み付いて消えない、トラウマとも言えるような話。


 *


 3月20日。太陽が夜空を焦がす頃、俺は生まれた。産声を上げ、意味もなく泣き喚き、か弱い手で母を求めた。本能のようなものに突き動かされて、懸命に母を求めた。けれど――



「……いらん、捨ておけ」



 母は、俺を求めなかった。

 生まれたばかりのことだと言うのに、今でも鮮明に思い出せる。母に抱きしめられることもなく、この手で触れることすらできず、俺は捨てられた。ふわりと、重力に従って落下していく感覚が、ずっと忘れられない。

 ぼとりと、俺が落とされた先は地獄のような場所だった。空間内を覆い尽くす、鼻が曲がるほどの血の匂いと死臭。目障りにぶんぶんと飛び回る蝿。べちゃりと手に付着する赤黒い液体。どこからか聞こえてくる鳴き声。そこにあったのは、数え切れないほどの死体だった。何十、所では無い。もう思い出したくもないほどの地獄絵図。俺は、その死体がクッションになって奇跡的に生き残った。


 齢1分。俺は悟った。こいつらと同じように、俺もここで死んでいくんだと。光もない、食べ物と言える食べ物も見当たらない。そんな光景が、瞼の裏に張り付いている。


 俺は、そんな世界で1ヶ月もの間生き抜いた。


 食料と飲み物には困らなかった。なにせ、そこには無数の死体があったから。本能とでも言うのだろうか。生きるため、俺は肉を喰らい、血を啜り、地獄を生き続けた。意味なんてないと理解しながらも、生にしがみついて、醜く生きていた。一寸先は闇。貴重なタンパク質が空を飛び、腹が減ったらまた肉を喰らう。


 そんな地獄に、光を与えた人がいる。



「おえっ……なんて匂いだ……」



 獄蝶のジョカ。唯一存在する極東の大魔法使い。燃えるように真っ赤な蝶を肩に乗せて、あの人は現れた。



「あれ、この子は生きてるね」



 俺は、あの人の気まぐれで生かされたと言ってもいい。



「一緒に行くかい?」



 俺は、ジョカの手を取った。どうしようもない絶望に差し伸べられた煌々とした焔の光に、俺は魅せられた。

 それからは数年は意思のないゾンビのように、魂の入っていない人形みたいに生きていた。世界を変えるほどの「才能」といつやつに恵まれながらも、大望もなく、目的もなく、無為に。ただただ無為に生きていた。



「君の家族について、色々調べたよ」



 ある日、ジョカがそう言った。



「……え?」



 家族について知れるのは願ってもない事だったが、突然のことすぎて俺は少し戸惑った。



「どうする? 君が望むのなら、全てを教えよう」


「お願いします」



 そして、クソ以下だった俺の人生に転機が訪れた。



「君の家族、いや、という家系はね――」



 その言葉を聞いて、ようやく「騎獅道旭」としての人生が始まったような気がした。復讐という消えない焔が、俺の心に宿った瞬間だ。



 *



「……噂をすれば影がさすってね」


「合格おめでと〜!」



 クラッカーを片手に、箒に乗った獄蝶のジョカが現れる。誰も来ないであろう丘の上に、マジックでも使ったみたいに突如として出現する。



「はいはい、おめっとうさん」


「あれ〜、せっかく師匠自らお祝いに来たってのに冷たくない?」


「弟子に黙って極東を出ていくようなやつを師匠とは呼ばねぇんだよ」



 1年ほど前。教師として、バウディアムスにスカウトされていた獄蝶のジョカは、極東で旭たちに魔法を教えていた最中、突如として姿を消していた。



「師匠が恋しくて追ってきちゃったんだろう? 可愛い奴らだな〜」


「んなわけねぇだろ」


「え〜師匠悲しい〜。嘘でも「師匠大好き〜!」って言ってもらいたいな〜」


「なぁ師匠せんせい。ここはすごいな」



 年甲斐もなく可愛こぶる獄蝶のジョカを無視して、旭は言う。真っ直ぐで、楽しそうな眼差しで、星の浮かばない空を見る。



「極東なんかとは違う。俺より強いヤツらが沢山いる。見たこともない魔法を使うやつもいた」



 旭は続ける。



「俺はバウディアムスで魔法を磨く。あの神精樹で、最強になる」


「……いい目標だね」



「復讐」以外の目標を旭が口にしたのは、これが初めてだった。そんな旭を、獄蝶のジョカは我が子を見守る親のような笑みで見ている。だが、獄蝶のジョカの目に映る旭の心は、以前として復讐の焔に包まれている。



「そのために、師匠せんせい……いや、獄蝶のジョカ」



 焔が猛る。ただ1人の育ての親を前に、旭が刃を向けた。



「今の俺と、のあんた。その差を知りたい」


「…………それ、本気?」


「あんたはもう俺の師匠じゃない。超えるべき目標なんだよ」


「まぁ、私もそろそろ弟子離れしておくべきかな……」



 風が吹き荒れる。百を超えるほど大量の紅い蝶が舞い遊ぶ。気がつけば、獄蝶のジョカは見上げるほど高く、月を隠すように空を飛んでいた。



「やるからには、全力でやる。ここからは、魔法使い同士の殺し合いだ」



 空を覆い隠すほどの獄蝶を操り、不穏な表情を浮かべる顔は大魔法使いではなく、魔女のように見える。旭は、本気の獄蝶のジョカを前にして、これ以上ないほど高揚していた。その激情に呼応して、旭の纏う焔の火力が一層高まる。

 太陽の如く燃え盛る焔と、太陽よりも眩く煌々と煌めく獄蝶が対峙する。

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