第32話 悪鬼と旅ゆかば 富士山麓に妖狐啼く
明けて翌日――その日は奇遇にも休日であった。
富士山麓へは東京駅から電車に乗車し、凡そ二時間半。
悪鬼と妖狐を引き連れし貴之は一路、鬼神が根城を目指す。
「まさか貴之から敵の本陣へ乗り込むとは」
富士急行線に揺られつつ、あやめが貴之に問うた。
「慎重居士のお主らしくないではないか」
行儀悪く座席で足を組みながら、そう口を尖らせる。
今まで捨て置きし振る舞いからして、至極当然の問掛けのようだ。
「例の鬼神は、各地から同士を呼び集めているのだろう?」
「おう、そうじゃ」
あの夜、あやめが聞き及びしところに因ると、彼の鬼神は転生を果たせし鬼の眷属を、我が仲間とすべく全国を行脚しているという。
「ならば留守の間に、敵の拠点を掠め取ろう」
「なんとまぁ、相変わらず大胆不敵と云うか何と云うか……」
事も無げに答える貴之に、あやめは呆れるばかりである。
それに貴之には『三つの力』の一つがまだ残っている。この不思議な力は、悪鬼を美少女へと変じ、妖狐を幼獣へと変じる程の力を持つ。如何な敵に強大な術在れど、この『三つの力』を駆使すれば、術を破るなり封印するなり。なんなりとできまいかと踏んでいる。
「それにこちらには、芙蓉がいる」
「なるほど……地の利は
芙蓉が八尾の
「そうよ! 妾に任せなさい!」
復讐に燃える瞳の芙蓉から、貴之越しに意気込みが飛ぶ。
鬱陶しそうにそちらへ目をやるあやめに、芙蓉はげに鼻息荒い。
「妾ら母娘を憐れな獣と莫迦にした怨み、目に物見せてやるわ!」
復讐せしは我にあり。そんな気概が垣間見える。
貴之とすれば、腕を撫すあやめと共に頼りにする頭脳である。
然してそうと決まれば、それ迄は旅の空。暫しの物見遊山である。
ずっと悪鬼が夢中になるは、富士山麓へ向かう列車は窓の外。小さな口をぽかんと開けて、物珍しげに眺めよる。そうしてまあるく開いた口からは、先程から「ほぉ、ほぉ」と何度も梟のように繰り返すばかりであった。
「おい、あやめよ」
「ほぉ、ほぉ……おおっ? なっ、なんじゃ?」
「何をしている」
放って置こうと心した貴之であったが、余りの珍妙さについ訊ねてしまった。
訊ねられたあやめと云えば、阿呆みたいに口角から流れ落ちかけたヨダレを、ぐいぐいと袖口で拭いておる。夢中になるにも程があると云ふものであろう。
「お前、富士の山など何度も見た。見飽きた。つまらん……と言ってなかったか?」
「う、うにっ……そ、それはそれじゃ。汽車に乗って視るのは初めてじゃから!」
などと、言い訳にもならぬ言い訳を口走る。
だが元々は、身の丈十尺を優に超える悪鬼の身である。今まで列車など、とんと乗車したことがなかろう。故に車窓から見ゆる富士の高嶺や流れる景色に、ついぞ目を奪われるも分かろうと云うものだ。
ならば気になるなら気になると、最初からそう申せばいい物を。
「ま、まぁ、どうということはない。期待外れじゃわい」
そう云った傍からどうしても車窓の景色が気になるようで。刻を置き再びあやめを見やれば、何時の間にやら窓の外に夢中になりてぽかんと口が開く。
「おい、あやめ。外を見るなら靴を脱げ」
あまりに夢中に成り過ぎて、何度も土足で座席へ上がりそうになるを注意する。
その様子を目にした芙蓉が、阿呆を憐れむ様な目をして嗤う。
「くふっ、お前さんは餓鬼か。みっともない」
「ううう、うっちゃいわい!」
慌てし時の舌足らずが度を増しゆくも、最早気にする事すら消え失せたようだ。
だがしかしそう云う芙蓉とて、先刻から腰が落ち着かぬ。どうやら座席に置かれし弁当の、その中身が気になる様で。挙動不審にしてそわそわと忙しない。
「芙蓉よ、そんなに気になるなら食べてもいいぞ」
妖狐・芙蓉を惑わすは、東京駅地下グランスタにて購入せし『豆狸』の稲荷寿司だ。香り高き金胡麻を混ぜ込んだ飯に、よく出汁の沁みた油揚げがよく合う逸品である。
本来ならば昼を過ぎての腹ごしらえ――と用意した兵糧であったが、これ程までに注意力散漫に気勢を削がれては、士気に影響しようというもの。そう考えて許可を出す。
「えっ、ホント? ホントにっ?」
想像以上に悦びしその姿、待てを解かれた飼い犬の如くなりけり。
そんな芙蓉を横目に、今度はあやめが反撃に出る。
「なんじゃい、貴様こそ食い意地の張った野獣ではないか」
「ううっ、五月蠅いなぁ! いいでしょ別にぃ!」
昨夜まで、めそめそと泣いた
いつも通りあやめといがみ合う姿を見るに、心の傷はもう大丈夫であろう。
さて貴之には、今だ飲み込めぬ鬼界の事情があった。
それはあやめの云う「鬼神・
昨夜の一件と共にその素性をあやめに訊ねれば「儂が生まれた時には、坂上田村麻呂と並び称される程、鬼界では有名な男であったぞ」とだけ教えられた。だがそれ以上を訊ねると「儂も詳しくは知らん。本を読め」として、あっさり一蹴されてしまった。
そこで貴之は仕方なく、昨夜の内にある程度インターネットで調べてみた。
阿弖流為とは――今を遡る事凡そ千二百年程前、平安時代の初期。陸奥の国、岩手県は
彼の鬼神の名は『
「嘗て胆沢の地は「
水陸万頃――豊かな水源を湛えた広大な大地である事を指す。
時の権力者は元よりこの地を訪れし都の誰しもが、用水開発を行う事により約束されし豊穣の大地と成るであろうと考えた。
「だがこの地には、聞きしに勝る天下の鬼神――」
「胆沢を統治する阿弖流為がいる」
拍子を合わせる様に答えた貴之に、あやめは「そうよ」と膝を打つ。
そこで水陸万頃と呼ばれる豊穣の地を巡り、蝦夷の民を率いて陸奥を統治す阿弖流為軍と、討伐と称し略奪を目論む朝廷軍との戦いが勃発したのだと云う。
あやめ曰く、阿弖流為軍は軍備と数に勝る朝廷軍を相手に回し一歩も引かず。鬼神の力と寡兵を用いて立ち向かい、勇猛果敢に戦った。先の『続日本紀』に於いては、
「冬になれば、東北の山々はまさに悪路。故に悪路王よ」
悪路王とは阿弖流為のみならず、彼に呼応し東北各地を守護した首魁ら全体の呼び名であった。陸奥の国々は天然の要害と仲間たちに護られて、戦を有利に進めていたのだ。
「では阿弖流為は、何故あれ程まで復讐に執念を燃やす?」
「まぁ待て。この陸奥討伐の顛末には、まだ続きがある」
貴之のこの問いに、あやめは直ぐ様答えようとはせず。じつと続きを語る。
激化する戦いは幾度にも渡り、その度に激戦を極めた結果、朝廷軍は多くの犠牲を強いられた。そんな長きに渡る戦いに終止符を打つべく、東北の地へ送り込まれたのが――
「後の征夷大将軍、坂上田村麻呂というわけじゃ」
征夷とは、東夷を征討するという意を持ち、文字通り陸奥の地に暮らす逆賊・蝦夷の軍を討ち果す為に任命された、将軍が名称の一つである。
坂上田村麻呂が延暦十二年に軍を進発させるとこの戦役にて功を上げ、菅原道真により編纂された『
「こうして彼の名将は、着実に蝦夷討伏の成功を収めてゆくわけじゃが……昨夜に
「と、言うと?」
あやめは「ううむ」とひとつ呻りて、重い口を開く様に語った。
「もしも、もしもじゃぞ……田村麻呂と阿弖流為が戦い合ううちに、次第と親交を深め合っていたとしたら、どうじゃ?」
「親交を……そんなことがあり得るのか?」
貴之が当然の疑問を口にすると、あやめが臍を曲げた様に相成った。
「わ、儂かてそう思って居ったわい……お主と出逢う迄はにゃぅぅ……」
「うん? 何か言ったか?」
「な、なんでもないわい!」
ぶつくさと呟きて勝手に怒鳴ったあやめは、気を取り直した様に続けた。
「鬼界でも田村麻呂は高潔な男であったと名を遺す。もしかしたら……彼奴と阿弖流為は、刃を交えて熾烈な戦いを経た後に、心を通わせ合っておったのではあるまいか」
激戦を経る度、寡兵の阿弖流為軍は日増しに疲弊の度を増していた。阿弖流為とてこの終わり無き
阿弖利為と田村麻呂、東西の英傑二人。あやめの想像通り互いが互いに理解を深め、固い信頼と友情を築いていたとすれば――
「その根拠は?」
「後に田村麻呂は胆沢城を造営するが、阿弖流為らはこれに抵抗するどころか降伏しておる。また捕虜となったその後、田村麻呂と云えば彼らの助命は元より、故郷の胆沢へ返すよう朝廷側に嘆願しておる」
これについては『日本紀略』にもそう記されている。
延暦二十一年、阿弖流為は盟友・
「だが貴族どもめ。野性獣心、反復して定まりなし――などと抜かしおってな」
憐れ阿弖流為と母礼は、京の貴族の反対に合い、河内国椙山にて処刑されたとある。
だがそれ以上の詳細については委細記されていない。また全ては朝廷側寄りの資料であり、蝦夷側から記された文字資料はなく、現存する資料そのものが極僅かである。よってこれ以上、資料から状況を読み解くことは難しい。
然かしてあやめは、長寿を生きる千年悪鬼である。鬼界に於いて聞き及びし口伝と云えど、鬼の目で間近に見てきた歴史史観は確かであろう。
「鬼界の口伝による
京の貴族に騙されしは、ある意味で田村麻呂を含めてのことだ。もし彼が京の都から降伏を条件に助命を赦すと持ち掛けられていれば――あやめの読み通りに蝦夷と固い信頼と友情を築いていたならば、かの英傑とて騙し討ちにあったと云えよう。
「儂らは田村麻呂直々に河内国にて斬首された、と聞き及んでおったがな。先程も云うたが
確かに昨夜あやめとの問答で、彼の鬼神はこうも云っていた。
「貴様は坂上田村麻呂に討たれ、死んだ筈ではなかったか」
「我は彼の英雄に見逃され、無様に生きさらばえた」
河内国――今の大阪より胆沢の地へは戻らず、富士山麓に留まったのであろうか。
しかしあやめの推理が正しければ、阿弖流為の京の都に対する怨念は御し難し。また無残にも騙されて惨殺されし一族を想えば、蝦夷の国・鬼国再興は悲願と云えよう。
「ま、どちらにせよ、出遭うて刀を交えれば分かる事よ……ていっ!」
そう云うと唐突に芙蓉の手をぴしゃりと叩き、豆狸いなりを奪い取る。
「独りで全部食うな、このいやしんぼめ!」
「あーっ!!」
と叫ぶ芙蓉を尻目に、あやめは最後のいなりを口の中へ放り込んだ。
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