黒い稲妻は群青色の空を引き裂く
平日黒髪お姉さん
第1話
「違う……違う……違うッ!! 俺の芸術はこんなものじゃあないッ!!」
古臭いエアコン特有の「ぶおんぶおん」という如何にも電気代が高く付きそうな音をBGM代わりに、
黒縁のメガネ越しに映る鋭い眼差しは、目の前にあるキャンパスへと注がれている。驚異的な集中力を発揮して、素晴らしい絵画を描いている。
そんなふうに誤解するかもしれないが、実態は全然違う。彼は筆を走らせては消し、筆を走らせては消しを繰り返しているのだから。
八帖一間の部屋にはあちこちにクシャクシャになった分厚い紙が落ちている。
それは全て本日彼が描いている途中で挫折したものである。
傍ら見れば、それは素晴らしい作品にしか見えないのだが、向上心が高い彼には決して許すことができないのだ。
ポキっと、鉛筆の芯が折れた。力を入れすぎたあまりの結果だ。
ほんの少しの音で、集中力が一気に削がれた。
自分が描いた絵を見ると、滑稽な出来に嫌気が差す。
彼は深い溜め息を吐き出し、またしても作り出してしまった失敗作を引き裂いた。
「こんなのじゃあ、ダメだ!! ダメだッ!! ダメだッ!!」
今日こそは傑作を生み出してやる。誰もが恐れを抱く才能を開花させてやる。
全員が自分の才能を目の前にしてひれ伏せさせてやる。
この誰にも認められない才能を、世界中の誰もに魅せ付けてやる。
そんな思いで描き始めたものの、結局今日も駄作を生み出すだけの結末だったのだから。
「…………どうしてだよ、どうして……俺は描けないんだよ、アイツみたいに」
自分が理想とする作品と、実際に自分が書ける作品の格差。
自分の脳内には完成系の形があるのに、それを表現できない自分の無力さ。
「……何をやってるんだよ、俺は。俺はここで終わる人間じゃないだろ?」
込み上げてくる涙を必死に堪えながら、彼は現実と向き合う。
自室に堂々と飾られているのは、中学最後に描いた水彩画。
受験のストレスに耐えかねて、気が赴くままに筆を走らせていた。
その結果——人生で唯一他者に認められ、市内で賞状まで受け取った。
と言えども、凡人らしい『佳作』という評価で終わってしまったのだが……。
それは——彼にとって最初で最後の輝き。過去の栄光であった。
◇◆◇◆◇◆
「龍野くん、どこに行くの? 美術室はこっちだよ?」
一軍男子と一軍女子がカラオケに行こうなどと計画を立てている中、龍野雅空は誰からも「また明日」や「じゃあね」と別れの言葉を貰えるわけもなく、教室を出ていく。
だが、その足はすぐに止まってしまう。
教室から少し離れた廊下に、面倒な女が今か今かと待ち受けていたのだから。
彼女——
「最近、龍野くんサボりすぎだよ!! ちゃんと美術部に来てよ。寂しいじゃん」
茶色の長い髪に、人懐っこい同色の瞳。体の線は細く、身長は低め。
女子の間では、マスコットキャラ的な存在で揶揄われることが多々ある。
と言えども、それは彼女の一部分でしかない。美術部に所属している彼女は、遺憾無く自分の才能を開花させ、次から次へと新たな芸術に関する賞を獲得しているのだから。
「生憎だが、俺はもう美術室に行く気はない」
それだけを伝えると、雅空はそのまま素通りしていく。
スポーツ関係の強豪校ならば、毎日スパルタ特訓があるかもしれない。
だが、あくまでも美術部。毎日部室に通う必要なんてない。
気が向いたときに出て、描きたいときに描くというのが部の方針だ。
「いつから俺たちの部活は、強制参加のスパルタ部活に変わったんだ?」
しかし——そう簡単に、この面倒な女が逃してくれるはずがない。
「ちょ、ちょっと待ってよ!!」
無視して帰ってもいいのだが、後日また面倒なことになるのはごめんだった。
逃げ回れば逃げ回るほどに、この厄介な女は追いかけてくるはずだ。
そう思い、雅空は立ち止まり、話を聞くことにした。
「どうして部活に来ないの? あれだけ凄い才能を持っているのに」
「凄い才能か。お前がそれを言うのかよ、普通に」
龍野雅空と鹿森葵。
どちらが優れた芸術家なのか。そんな問題は誰にでも分かる。
龍野雅空は中学時代に一度だけ表彰されただけで。
鹿森葵は数々の有名な賞を獲得している存在なんだと。
「で、でも、あたしは……龍野くんの絵を見て感動したんだよ、あの日!!」
鹿森葵と初めて出会ったのは、高校の入学式だった。
その日、彼女から龍野雅空は告白を受けたのである。
——龍野雅空くんだよね? あたし、キミの才能に惚れました!
——展示会でキミの絵を見たとき、もう本気で感動しました。最高の芸術作品を見たって。
鹿森葵の名前は、中学時代から何度も聞いたことがあった。
芸術の世界を覆してしまうほどの天才だと。
もしかしたら、彼女は新たな
そんな人間から、才能を認められて嬉しかったに決まっている。
だけど、それはあくまでも——。
「感動ね。でも、それは過去の話だろ?」
龍野雅空の心は冷め切っていた。
生涯を共に過ごそうと誓った相手を、家の中に居る邪魔な奴だと思う程度に。
「違うよ。今でもあたしは龍野くんの大ファンだよ!」
「高校入学してから二年も経過したのに、何の結果も出せてない俺をか?」
「結果は出てなくても……龍野くん、頑張ってるじゃん。だから、それで——」
それでいい。
結果が出なくても、頑張ったらそれでいいじゃないか。
そんな気休めを聞いても、何の意味もない。世の中は結果が全てなのだから。
「いいよな、お前は認められるからさ」
本音が出てきてしまう。
普段通りの自分なら言わなかったはずだ。
ただ、出てきてしまった以上は、もう吐き出すしかなかった。
「周りからチヤホヤされる人間には分からないだろうなぁ〜。俺の気持ちなんて。どんなに頑張っても認められない人間の苦悩なんて」
鹿森葵には分からないはずだ。
だって、彼女は一度たりとも、挫折というのを感じたことがないのだから。
自分が好きなものを描いたら、それが認められる世界に立っているのだから。
「……どうしてそんな言い方しかできないのかなぁ?」
震える肩口と、何かを言いたげな唇。
茶色の瞳は同情よりも呆れの一面が強そうだ。
今まで信じてきた相手に裏切られたとでも言うような表情だ。
「誰だって、才能が潰えることはあるんだよ」
龍野雅空は言い切った。
自分には才能がない。そう言うのは、大変プライドが傷付く話だ。
だが、認めないわけにはいかないのだ。痛ましい現実を見せつけられては。
「誰だって、全盛期を継続できるはずがないんだ。テレビ番組を見てたら、大御所の演者が必死にコメントをしている姿を見ているけど、もう彼等は才能が枯れ果てた先の存在だ」
そうだろ?
と、訴えてみるものの、彼女は反論してきた。
「だからって、何もしないのはおかしいんじゃないかな?」
強者の彼女は何も知らないのだ。
この世界が残酷なまでの格差社会であることを。
努力だけでは到底敵わない才能の世界があることを。
それは大の大人ならば、誰しもが薄々気付いていることだろう。
それにも関わらず、誰もがその不条理な世界の現実を教えることはない。
もしも、目の前の少年少女が「野球選手になりたい」「アイドルになりたい」と言い出したら、真っ先に「野球選手やアイドルは選ばれた人間だけがなれるんだ」と説得したほうがいいのではないか。彼・彼女らの夢を潰すことにはなるかもしれないが、それが正しい選択なのではないか。
と、龍野雅空は思っている。いや、確信しているという表現が正しいだろう。
夢というのは、諦めるのが早ければ早いほどに呪われずに済むのだから。
「
鹿森葵に負けるだけなら、別に何とも思わなかったかもしれない。
龍野雅空がここまで落ちぶれてしまったのは
「アイツ……本当に凄いよな。今の今まで絵を描いてきた経験なんてなかったくせに……美術部に突然入ってきたと思いきや……すぐに表彰されてさ」
挙げ句の果てには——。
「子供の頃から絵が大好きで描いていた俺に勝ったんだぜ、アイツは」
数ヶ月前に、芸術に関する選評会が開かれた。
その選評会は、芸術に関するお偉いさんが集められ、一つ一つの作品に批評を送るのだ。その結果——獅堂啓真の作品は最優秀賞を受賞したというわけだ。
獅堂啓真の作品には、選考委員全員が満点評価を出した。
だが、龍野雅空の作品には、よくて4点、悪くて2点の採点結果だったのだ。
でも、採点結果に納得がいかずに、龍野雅空は直接評価の形式を聞きに向かった。そして、選考委員の口からこう告げられてしまったのである。
「お前の作品には何もないって。お前の作品には何の魅力も輝きもないって」
その言葉を表に出すと、鹿森葵の表情が急激に暗くなる。
これ以上いえば、彼女はもっと悲しむだろう。
そう予測が付くものの、龍野雅空は押し切った。
「それって、つまりはお前には全く才能がないと言われているようなものだろ?」
細めた瞳に宿るのは、同情心。
昔の自分ならば、そんな感情を向けられることを嫌ったはずだろう。
でも、今の自分にはそれが一番心地良かった。
「……違うよ、そんなの違う。あたしは知ってる。龍野くんの作品がとっても凄いこと」
「お世辞は要らないよ。もう俺は芸術の世界から退くことにしたからさ」
「えっ……? どどどど、どうして……?」
「現実を見ただけだよ。芸術で食っていけるほど、世界は甘くなかった」
ただそれだけの話だよ、それ以上でもそれ以下でもない。
そう口にして、龍野雅空は一方的に話を終わらせ、家路へと就くのであった。
欺くして、彼は出会ってしまうのである。
自分の常識を変える人物に。
自分の世界を覆してしまう世界的に有名な芸術家——
「そ、そこの少年〜〜!? た、助けてくれぇ〜!?」
と言えども、出会いはあまりにも滑稽なものだったが。
防球フェンスの鉄網。
近所のガキが秘密の抜け道とか言い出しそうな穴。
そこに怪獣の着ぐるみを纏う彼女が挟まっていたのだから。
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