山姥少女と山の怪
宵宮祀花
野鳥の雛
山の掟
休暇を利用して、私はとあるハイキングコースに来ていた。
職場の人たちは今頃、キャンプ地でバーベキューをしているところだろう。けれど私は、休日にまで仕事仲間と顔を合わせる気は無かった。
煩わしい職場の人間関係。薄っぺらい社交辞令をヘラヘラ笑いで並べる人たちから離れて、自然を満喫したくて。
「あー、いい天気。上のほうはもっと空気が綺麗なんだろうな」
コース入口にある案内板を見ると、ハイキングコースは二つのルートがあるみたいだった。上級者向けと、簡単な初心者向け。初心者向けのほうは中腹までで、そこに小さな売店があるらしい。ロープウェイもあって、そっちは初心者向け同様に中腹の売店前までしか続いてないみたいだ。
私も現代人らしく運動不足は自覚してるし、軽い散歩感覚で来たから、初心者向けコースを選んで進もうとした。
「すみません」
「……なんですか?」
意気揚々と足を踏み出した背後に声をかけられ、私は若干苛立ちながら振り向く。声をかけるなら案内板見てるときでも良かったじゃない。そう思って相手を見れば、妙にくたびれたおばさんがビラを差し出して、陰気な顔でこっちを見ていた。
「もしこの人を見かけたら、ご連絡ください」
「はぁ……」
受け取って見ると、中年のおっさんの顔写真と、行方不明になった当時の服装やら荷物やらが書かれていた。
その格好はというと、緑の上着に赤いリュック。センスなさ過ぎ。一人クリスマス野郎じゃん。もうすぐ五十にもなって原色コーデとか痛すぎでしょ。
ていうかこれから山道へ行こうとしている人に行方不明者のことを話すとか、このおばさんは縁起悪いって思わないのだろうか。
「ゴミになるんでいりませーん」
こんな不吉なものを持っていきたくないし、その辺に捨てて誰かに見られたら面倒だから、私はくしゃっと握り締めた紙をおばさんに突き返した。
「あーあ、出だし最悪ぅ」
無神経なおばさんにムカついたからわざと聞こえるように言って歩き出す。
うちの職場にもさっきの人みたいな自己中おばさんいるけど、年取ると皆ああなるわけ? ほんと最悪。
溜息をつきながら今度こそハイキングコースに入ると、駐車場とか売店、自販機が並ぶ近代的な空気から一変した。足元こそ踏み固められて木の階段が出来ていたりと人の手が入っている感じがするのに、周りを木々に囲まれているだけで全然違う。
人気なのは頂上まで行ける上級者コースかロープウェイのほうらしく、ここは人があまりいない。見かけたとしても、私みたいに初めて来た感じの若い女の人か群れでトロトロ歩きをしているお年寄りばかり。
それもまばらで、のんびり歩けば綺麗な自然を独り占めする感覚が味わえる。
「来て良かったぁ……ついでになんかいい写真撮れないかな」
鳥の声が、あちこちから聞こえる。
野鳥の種類なんて知らないから、なにがいるかまではわからないけど。
「……?」
暫く進んで行くと、道脇の茂みからピィピィ鳴く小さな声がした。覗いてみれば、木の根元で小さな羽をばたつかせて鳴いている雛がいた。
辺りを見回して見ても、山の管理人らしき人はいない。山頂にある小屋か売店まで行かないと、そういう人はいないんだろう。
助けてあげよう。そう思って低木を避けたときだった。
「お姉さん」
背後から声をかけられて、ビクッと体が強ばった。
「な、なに……? 誰?」
振り向いた先にいたのは、どう見てもハイキングコースにいる格好じゃない服装をした、十代真ん中くらいに見える女の子だった。
長めのボブカットに、金のインナーカラー。Tシャツの上にパーカーを羽織って、足元はスニーカー。だけど山歩き用というよりはお洒落スニーカーで、いくら初心者向けとは言っても山道を歩いたらある程度汚れそうなものなのに、女の子の靴はいま降ろしたばかりみたいに綺麗だ。
そして服装も不思議だけど、なにより目を引くのは彼女が連れている犬だ。大きな犬が二匹。片方はテレビで見た秋田犬っぽいけど、もう一匹はわからない。白い犬と黒い犬が一匹ずつリードに繋がれて、大人しくしている。
「雛の巣立ちは邪魔しちゃだめだよ」
「え……邪魔って……」
助けてあげようとしただけなのに邪魔とか言われて、思わずムッとした。どうしてたったいま出逢ったばかりの、しかも世間をろくに知らなさそうな子供にそんなこと言われなきゃいけないんだろう。
「野生動物は人間の匂いがついたら野生で生きていけないんだよ。それに、その雛は特に触らないほうがいい。危ないよ」
匂いって、香水なんてつけてきてないし。それとも私が
「なにそれ……名乗りもしないで勝手なこと言わないでよ、子供のくせに」
「……姥山姫花。お姉さんは知らないみたいだけど、山には山の掟があるんだよ」
「ちょっと……!」
人を無知呼ばわりした失礼な女の子は自分だけ言いたいことを言い終えると、犬を連れて山道を登っていってしまった。残された私は、彼女が去って行ったほうと雛がバタバタしているところを何度も見て、一度はその場を離れた。
麓のほうから、おばさん集団が登ってきている声が聞こえてきたからだ。ああいう年寄りは説教臭いから、もしかしたら雛に触ってるところを見られたらさっきと同じ注意を受ける羽目になるかも知れないと思って。
でも……帰り道。
私はやっぱりあの雛が気になって、雛を見かけたところを横道に逸れた。そんなに深い山じゃないし、すぐ傍にハイキングコースもあるし、なにより下山する人たちの声が聞こえているから、迷うこともないだろうし。
日がゆっくりと落ちていく。山道はすぐ暗くなるけど、懐中電灯もあるしスマホのライトだってあるから、これくらいなら何とかなる。
「肉食の獣とかに食べられてないかなぁ……」
もしそうなったらあの子のせいだ。
助けようとしたのを邪魔した、あの場違いな格好の、犬連れの女の子。弱い動物を強い存在が助けようとすることは悪いことじゃないはずなのに、偉そうに。
「全く、どっちが邪魔よ……」
ブツブツ言いながら、雛のいた木の側まで来た。行きに見た木の根元には既に雛の姿はなく、周りを見回しても親鳥らしき姿や鳥の巣みたいなものも見えない。
もう巣立って何処かに飛んで行ったのか、それとも……と嫌な想像が過ぎったときだった。
――――チッチッチッ。
何処からか、小鳥の鳴く声がした。
雛の声と似ているような、そうでもないような。でも、あの雛がいたところで声がしたってことは、もしかしたら親鳥かも知れない。親鳥が見つかれば、もしあの子の言う通りだったら近くに巣立ちが出来た雛もいるはずだ。
更に奥へと進むと、小鳥の羽ばたく音とさっきの鳴き声が聞こえた。まるで、私を導いているみたいに歌うような声が誘っている。
「結構近くまで来たと思うんだけど……」
声に導かれてどれくらい歩いただろう。少し開けた場所に出て、正面の木の根元に私が見た雛が、ちょこんと座っていた。その木の枝には親鳥らしき小鳥がいて、私をじっと見つめている。
警戒しているのかとも思ったけど、本当に巣立ちの邪魔だって思うのなら鳴き声で呼んだりしないはずだし。それに、雛がこんな近くにいて私を外敵だと思ってるならとっくに攻撃してるはずじゃない?
なのに小鳥も雛も、私をじっと見つめるだけ。これってそういうことよね。
「小鳥さん、今度は私がお家に招待してあげ…………きゃあ!」
ハンカチを取り出して近付こうとしたら、落葉に隠れて見えなかった木の根っこに足を引っかけて転んでしまった。幸い雛とはまだ距離があったから潰しちゃう心配はないけど、落葉が湿ってるせいで服が汚れた気がする。
手を伸ばして雛に触れた。雛はふわふわで、チィチィと鳴いた。やっぱりこの子、私に懐いてるんじゃない。連れて帰ったらきっと喜んでくれるはず。
「あーもう、最悪……」
手をついて体を起こそうとしたら、なにかが私の背中をぐっと押した。押したっていうか、踏んでる……?
「なに、が……ッ、いぎゃあ!?」
バキリ。
足のほうから嫌な音がした。それから、いままで味わったことのない痛みが足から全身へ突き抜けた。
目の前がチカチカして、一瞬なにが起きたか理解出来なかった。
【転んだ】
【転んだ】
【転んだら、食べていい】
男とも女ともつかない悍ましい声がした。
その声は私の頭上から聞こえた気がする。
――――チッチッチッ。
小鳥の鳴く声。
ボキッ。バキバキ。
なにかを折り砕く音。
「ぎゃあああっ! いだいいだいいだいぃいいいいっ!!」
それから、耳障りな悲鳴。
誰がこんな大騒ぎしてるんだろうと思ったら、喉が痛んで咳き込んだ。その瞬間、五月蠅い悲鳴が止まって。そこでようやく、叫んでいるのが自分だと気付いた。口の中に湿った枯葉と土が紛れ込んでくる。
痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。
どうして。なにが起こったの? どうして足が痛いの?
いつの間にか、背中にのし掛かっていた重みが消えていて。私は上体を起こして、恐る恐る自分の足を見た。
「嫌ぁああああああああああああっ!!!」
でも、そこに足はなかった。
「ひっ……ひぐっ……なんで……やだ…………痛い…………痛いよ…………」
焼けるような、或いは冷えていくような、滅茶苦茶になった感覚だけがある。傍でボリボリぐちゃぐちゃとなにかを食べる音が聞こえて、見たくもないのに首が勝手にそっちを向いた。
「きゃあああっ!?」
私のすぐ横で、熊みたいに大きな犬が、なにかを貪っている。
白い毛並みが口元だけ紅く染まって、犬の下に私が履いていた靴が転がっている。靴の履き口に断面が見えてしまって、中身がまだあるんだとか悠長なことが頭の隅を通り抜けていった。
「あぁ、だから言ったのに」
雛がいたほうから暢気な声がして、涙でぐちゃぐちゃの顔を向けた。そこにはあの女の子がいて、黒い犬を連れていた。
行きで見たときには、確か白い犬もいたのに。そう思ったとき、白い犬の居場所に思い至ってしまって、私は破裂したように叫んだ。
「アンタが……アンタが全部仕組んだのね!?」
雛も、忠告も、全部全部罠だったんだ。私を陥れるための。
一言叫ぶだけで息が上がる。出血しすぎたんだ。苦しい。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの。
必死に叫ぶ私を、女の子の冷めた目が見下ろす。
「私は、当たり前のことを忠告しただけ。山に入るなら、野生の動植物への接し方も学んでおくべきだったんじゃない?」
「な……によ、偉そうに……アンタが言ったのは、人に臭いとか何とか、悪口だったじゃない……」
「言ってないけど?」
しれっと返され、私は返す言葉を失った。
「もう……何でもいいから、救助を呼んでよ……」
会話する気にもなれなくてそう言うと、女の子は、それはそれは不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「は……?」
意味がわからない。ひどい怪我をしてるんだから当たり前じゃない。このままじゃ私、死んじゃうんだよ? なに言ってるの……?
「お姉さんは山のものに手を出して山の物になったんだから、もういらないでしょ、救助なんて」
「なに、それ……」
そんなものになった覚えはない。勝手なこと言わないで。
意識が薄れていく。息が浅くなる。指先が冷えて震える。痛いのに、痛みが遠い。感覚が麻痺していく。
「だめって言ったのに、夜雀に手を出した。山の怪に手を出したなら、それはもう、山の物。さあシロ、食べていいよ。転んだ者は、食べていい。それが山犬の掟」
最後に一つ、ごきりと嫌な音が響いて。
私の意識は完全に闇に落ちて、消えた。
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