ひゞき

白山

第1話 不合格と逢着


落ちた。


ぐしゃり、と受験票を握りつぶした。


パソコンの画面には、不合格の三文字が映っていた。咲かない桜を共にして。


「はは…ははは……」


椅子の背もたれに寄りかかり、自嘲を溢した。天井を見上げると、見慣れたシミの形がぼやけて見えなくなっていた。


全てを勉強に費やした3年間。青春、友情、娯楽、その殆どを勉強ですり潰した3年間。それらが、すべて無に帰した瞬間だった。


敗因は実力不足だ。それ以外に事実などない。それは理解していた。しかし、これほどやったのにこの仕打ちは、余りにも酷すぎるだろう。


俺は目一杯歯を食いしばり、握り潰された受験票をさらに握りつぶした。実力不足だなんて、それが1番悔しいんじゃないか。と思いながら。


ぼやけた視界が、更にぼやけた。


じわじわと、溢れ出んばかりに怒りと口惜しさが瞳から垂れた。


俺は絶望の淵をのたうち回っていた。夜になり、窓の外の世界が闇に包まれていることに気づいたのは、数十分後のことだった。


いよいよ我に返り、親に連絡をしようと思ったとき、ふと、いつの日か言われた台詞を思い出した。




瑞樹みずき、アンタ大学受験落ちたら死ねよ」




それは、母親から言われた台詞だった。『瑞樹みずき』とは俺の名前だ。


俺は母子家庭の下育った。エリート気質とプライドで固められた親の下、勉強の日々を送っていた。


大学に落ちたら死ね、と呪文を唱えられながら。


絶対零度の無慈悲な言葉は、いつも俺を恐怖に陥れていた。時には殴られたこともあった。今でも思い出すと、冷や汗が止まらない。


もし母親に、受験に失敗したと報告したら、とうなるのだろうか。


その疑問が湧いた瞬間、全身に鳥肌が立った。


恐怖と絶望が全身を駆け巡り、ぽっかりと心臓が撃ち抜かれた気分になった。


母親の恐怖、不合格の絶望感、俺にそれらを耐えうる力など、なかった。




死ねばいいんだろ。死ねば。




自暴自棄とも言える。しかし、これが唯一の救いだ、俺は確信した。


涙は引いていた。







制服に着替えて、街の方のホームセンターに向かった。(制服を着たのは、大学生になれなかったことによる高校への帰属意識なのだが)


ホームセンターに着き、適当なロープと、水と、桶を買った。桶を買ったのは、人は首を吊った後、体液が滴り落ちてしまうとどこかで聞いたからだ。


ひんやりとした空気の中、カートをレジに持っていった。


レジの人は、訝しげにこちらを見ていた。だが、そんなことどうでも良かった。


太ったレジ袋を抱え、街中を歩いた。外はすっかり夜になっていて、見上げると薄い星明かりがチラチラと輝いていた。


人混みの中を歩き、家の方へ真っ直ぐ歩いた。


テクテクと、足取り軽く歩んだ。 


人は歩いている時、考え事をしてしまう生き物である。


自分が今まで食べた物、努力して積み上げた物、その全てが、この後失われるのか。いやそもそも、死んだ後はどうなるのだろうか。いやまぁ、科学的に考えて『無』か。でも、それはそれで贅沢なのか。


『無』は贅沢、か。


俺の足は、気づいたら止まっていた。


不思議な感情が、体を包み込んだのだ。


それは充足感と虚無感だった。


充足感は、これでやっと楽になれるという安心からなのだろう。しかし、この虚無感は何だ。もしかして、死んだ後の『無』への恐怖が、冷たく俺の頭の中に残っているのか。


母親への恐怖と、死後への恐怖。同じ恐怖だが、それらは均衡した。


死ぬのは別にいい。しかし、今まで俺がやったこと全ては、もう何も残らないだなんて。


いやいや。一度決めたのだ。死ぬと。


今更辞めたって、ただ辛さが残るだけじゃないか。


しかし、理論で理解しても身体はついてきてはくれない。足は止まったままだ。


街行く人々は、俺を追い越して歩いてゆく。


……もしかして、死ぬのが怖くなったのか。


己の感情に気づくと、途端に自己嫌悪で反吐が出そうになった。


……ダサいな。本当に。


俺はまた、あの受験の時のように中途半端な志で終わったのか。死ぬことも、死ぬ勇気も、ないのか。


自己の不甲斐なさに、涙が溢れそうだった。いや、既に俺のレジ袋には、水が滴り落ちている。ダサいさ。男が泣くだなんて。


「スズッ……あぁ、何で俺は…いっつも…」


人々が横を通り過ぎるなか、一人嗚咽をする。立ってることもままならなくなって、俺は道端でへたれこんだ。


建物の柱に背中を預けて、またぼんやりと空を見上げた。


薄い光の星は、その数を増やしていたようだった。


しかし気持ちが塞ぎ込み、俺は両腕で膝を抱え込んだ。涙が止まるまで、とりあえずここにいる事にした。街ゆく人々には、制服を着た変な浮浪者と見られていたであろう。


……一人を除いて。


「うーっわ、ヤバイ奴居るって」


女の声がした。


そして、少しした後、


「あのー、ねぇ、大丈夫ですか?」


また声がした。


その声は、俺に向けられているようだった。


見上げると、そこには一人の若い女性がいた。若いとは言っても、多分俺よりは年齢があるだろうが……。


彼女は、ウルフカットな琥珀色の髪と、同じ色の切れ長の大きな目を持っていた。


「………」


あまりにも綺麗なその色に、目が釘付けになった。しかし、


「……チッ、ただの出会い厨か」


俺の視線に気づいた彼女は、突如不快を露わにした。


俺は我を思い出して、涙をぬぐって取り繕う。


「あ、いや、そうじゃない。そうじゃないです」


と、必死に弁明した。


「ふーん、でもよくいるんだよね。私目当てで、この店の玄関前で屯する奴」

「この店……?」


何を言ってるのか分からず、俺は思わず聞き返す。


「え?私目当てでそこにいたんじゃないの?あ、でもその顔……何かあった?」

「いえ……何も」

「あっそ、ならいいけど」


彼女は興味を無くしたかの様に、俺から視線を外した。


俺は訳がわからないまま、自分が寄りかかっている建物の方に目を向けた。すると、その建物には、木目調の掛け看板があることに気づく。


『bar ひゞき』と書いてあった。


色々察して、俺は再び彼女の方を向く。


彼女は、白のシャツに黒のカマーベストとスラックスを着ていた。それらはよくアイロンがけされていつつも、ピッタリと着慣れている印象だった。


なるほど、彼女はここのバーの従業員ということか。そして、どうやら彼女目当てで店に屯する人々が存在するという事なのだろう。


合点がいって、俺は一息ついた。


「…あのさ」


しかし、彼女は睨みをきかせて疑問を呈す。


「その袋の中にあるの、ロープと水だよね。何する気だったの」


聞いて欲しくない質問が、俺の胸に飛び込んで来た。


「…これは、まぁ綱引きの練習だよ」

「ふぅん。何、明日運動会でもやるの?」

「まぁ、そんな感じかな」

「ふぅぅん。それにしては細すぎるし、短すぎる様にも見えるけどね」

「まぁ、俺の学校限界集落にあるし…」

「ふぅぅぅん」


俺が言い訳をするたびに、彼女は声の音量を上げていった。


「………」

「………」


暫くの沈黙が続いて、俺は折れたかの様に真実を吐いた。


「ま、ホントのとこは君の想像通りだよ。はは…」


吐き捨てる様な、情けない声で。


彼女は首を傾げて問う。


「……自殺しようとしたってこと?」

「まぁ、そんな感じ。と言っても、多分未遂で終わったと思うけど」

「そうかな。君のさっきの顔は、本当に『死の淵』な顔だったよ」

「本当だよ。丁度さっき、命が惜しくなって情けなくなってたところさ」

「あぁね」


何に納得したのか、彼女は相槌を打った。


しかし、よくただのロープと水で、俺が自殺しようとしていたことを推察したものだ。心を見透かす能力でもあるのだろうか。


「……もう、帰ります」


醜態を晒した様な気がし、バツが悪いので、俺はその場を立ち去ろうとした。


腰を上げて、彼女に一礼をして踵を返した。後ろ暗い気持ちを、まだ孕みながら。


「待って」


そんな俺を、彼女は止めた。


「君、まだ死にたそうな顔してるから、ちょっとウチ寄ってきなさいよ。奢るから」


穏やか目を、俺に向けて。


しかし、バーなんて入ったこともないから、俺は少したじろぐ。


「え、いやいいですって。悪いし」

「……君、自分の頬拭ってみなさいよ」

「頬も何も……って、あ」


拭った手の指先には、うっすらと水がついていた。


どうやら、俺はまた涙を流してしまった様だ。


「…自分で気づかないなんて、重症」

「……そうかもしれません」

「しかもまだ高校生でしょ?子供がそんな顔してんじゃないよ」

「………そうかもしれません」

「ほら、こっち」


彼女は店の中に手招きをした。


俺は少し考えたのち、店の中に入ることにした。


しかし、再発した涙は、決して悲しい涙ではなく、安心のものであったと、俺は既に理解していた。


しかし、それはずっと言わないことにした。

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