第6話

 境界村について調べれば、田舎の風景が画像として表示された。


 緑豊かな山々、澄んだ川、広がる田んぼと畑が広がっている。


 都会の喧騒とは無縁の静かな環境で、心が安らぐような風景が広がっていた。


 こんな場所なら、ヒバチも喜んで飛び回れるだろうな。


「ヒバチ、どう思う? 田舎に移住するのって?」

「キュピ!」


 ヒバチも画像を見ながら喜んでくれる。


 覚醒者としての新しい生活を、都会ではなく自然の中で始めるのもいいかもしれない。そう考えると、心が弾むような気持ちになった。



 弁護士事務所へ向かう。都内の落ち着いたビルの中にあり、ドアを開けると、受付の女性が優しく微笑んで迎えてくれた。


「ようこそ佐々木弁護士事務所へ」

「こんにちは、予約していた堂本です」

「堂本様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 案内された部屋には、落ち着いた雰囲気の中年男性が座っている。

 紹介にあった佐々木弁護士だ。

 柔らかい笑顔が印象的で、安心感を与える雰囲気の人だ。


「堂本さん、どうぞおかけください。今日はお越しいただきありがとうございます」


 すでに何度か打ち合わせをしているのに、いつも丁寧な佐々木弁護士には、こちらも安心感を持つことをできる。


 紹介の後ろ盾になってくれた超ハンターには、会える機会があればお礼がしたい。


「はい、佐々木先生。こちらこそお時間をいただきありがとうございます。それとカメラや録音した映像を持ってきました」

「はい。ありがとうございます」


 俺は、仕事をしている一ヶ月の間に、佐々木弁護士にこれまでの経緯を説明した。


 会社内でのパワハラや無理な要求、サービス残業などの詳細。それに、今回の辞表を提出しようとした際の課長の対応。それらの証拠となるデータ、動画、ボイスレコーダーのすべてを提出する。


 佐々木先生は静かに頷きながら聞いてくれた。


「わかりました。堂本さんのケースは非常に一般的なパワハラの例ですね。まず、会社を辞めるための手続きを法律に基づいて進めます。辞表の提出とその受理に関する手続きに行います」


 心強い言葉を受けて、俺は随分と勇気をもらっている。


「ありがとうございます。正直、会社と揉めるのは避けたいと思っています」

「ご心配なく。こちらが法的に正当な手続きを踏めば、会社側も無理な要求をしてくることはできません。それに、万が一揉めることになっても、私が全力でサポートしますから」


 佐々木先生の言葉に、本当に辞めれるんだと感じた。

 これでようやく、自由になれる。


「それから、田舎への移住を考えていると聞きましたが、素晴らしい決断だと思います。都会のストレスから解放されることは、心身の健康にとても良い影響を与えます。私も弁護士業を辞めたら田舎へ移住を考えているんですよ」


 こちらの心のケアまで考えてくれている佐々木先生。

 心のケアまでしてくれるなんて、本当に良い先生を紹介してもらえた。


「はい、実は広告を見て、境界村という場所に興味を持っています」

「境界村ですか。奇遇ですね。実は、私の知り合いがその村の移住プログラムに関わっていてね。非常に良い評判を聞いています。自然豊かで、コミュニティもしっかりしているそうですよ」


 意外にも、あの広告を作成した上条さんという村役場の代表と、佐々木先生は知り合いだった。


 知ってる人の話を聞くだけで、移住をすることにためらっていたのが嘘のように、気持ちが軽くなる。


「そうなんですか? それを聞いて、ますます移住を考えたくなりました」

「堂本さんが新しい生活をスタートするために、会社のことは、全力でサポートします。何かあれば、いつでもご相談ください」

「ありがとうございます。これで心の荷が少し軽くなりました」


 佐々木先生との打ち合わせを終え、事務所を後にする。


 都会の喧騒の中、辺りを見れば、黒いモヤがかかったように、薄暗い。

 それは幽精霊師になったからだけではないように思える。


 自分の心が、この都会から離れて、田舎で自由になりたいと思っているように思えた。


「ヒバチ、俺たちの新しい生活が始まるんだな」

「キュピ!」


 田舎の風景を思い描きながら、俺は新しい未来に向けて一歩を踏み出した。



 辞表を受理してもらうのに、さらに一ヶ月もかかった。


 佐々木先生は労働問題で数々の勝訴を収めた敏腕弁護士ということで、彼の協力を得て、俺は会社に対して仕事を辞める手続きを行った。


 数日に渡ったやりとりは二週間を過ぎても相手の対応が遅く、内容証明を三通も送り、やっと会社から返事をしたいと申し出があった。


 会社の弁護士事務所からのもので、俺が裁判も辞さない覚悟で、証拠の一部と訴訟についての正式な通知を送ったからだ。


 これ以上続けるのであれば、パワハラについてマスコミを交えて戦うことを告げた。

 その内容証明を受け取った会社が和解について話をしたいと呼び出してきたのだ。

 

 俺と佐々木先生は会社の会議室へ通された。

 そこには久保田課長と経営陣が待ち構えていた。


「堂本! これは一体どういうことだ!?」


 会議室に入るなり、久保田課長の怒声が響く。

 久保田課長は真っ赤な顔で怒鳴り声をあげて、その場にいた者たちも驚いた顔を見せる。


「……久保田課長、あなたは変わらないのですね」


 一ヶ月ぶりに会った久保田は、まだ俺を部下だと思っているのだろう。

 椅子に座った我々に対して、変わらない態度を取る。

 佐々木先生が証拠を取り出し、机の上に広げていく。


 もちろん、今の怒声もしっかりと録音されており、他にも社内で録音したデータや、これまで送られてきたメールのスクリーンショット、会社内で撮られた正式な監視カメラの映像などがずらりと並んでいる。


「これらがすべての証拠です。久保田課長、あなたの暴言やパワハラがすべて記録されています」


 久保田課長の顔色が一気に青ざめた。どうやらこちらが何の準備もなく言いがかりをつけてきたと突っぱねる予定だったのだろう。


「こ、これは捏造だ!」


 久保田課長の絶叫が、会議室に響く。


 しかし、すでに経営陣の方では話し合いが済んでいる様子で、久保田課長の絶叫に反応する人はいない。


 佐々木先生が提出した録音データを再生して確かめる。

 そこからは久保田課長の声が明確に聞こえてきた。


「うるせぇ! お前の仕事なんて所詮最低限だろうが! この幽霊野郎が!」


 経営陣は、録音データから聞こえてきた怒声と罵声に頭を抱える。


「久保田さん、これは非常にまずい状況です」


 佐々木先生のメガネがキラリと光った。


「私たちは法的に正当な権利を主張します。和解を求めるなら、相応の補償が必要です」


 久保田課長は口を開けたり閉じたりして、言葉が出ないようだった。

 経営陣の一人が口を開いた。


「公にされるのは困る、補償内容を教えてください」


 佐々木先生が詳細な補償内容と、久保田課長の処分を求める条件を提示した。


「えーっとですね、まずは慰謝料、そして、正式に辞表を認め、退職金の支払い。さらに現在の職場環境の改善と、久保田課長の降格! それらが条件だと堂本さんはおっしゃられています」


 経営陣は佐々木弁護士の言葉に、渋々同意して書類にサインを捺していく。

 向こうの弁護士が邪魔をするかと思ったが、どうやら久保田を切り捨てることを経営陣は決めたようだ。


「わかりました。和解に同意します」


 久保田課長は研修生に降格され、俺は相応の補償金を受け取った。

 書類上ではあるが、会社の改善を約束させた。


 俺は晴れて会社を辞めることを認められ、さらに今までの精神的苦痛やサービス残業などの手当も支給されることが決まった。


 佐々木先生のおかげで大勝利だ。



 会社を出る俺を久保田課長が追いかけてきた。

 

「……貴様のせいで!」


 殴りかかってきた久保田課長! だが、俺を守ろうとしたヒバチが二人の火柱を作り出した。


「なっ!?」

「課長、会社の中だから何もしませんでしたが、私は覚醒者として力に目覚めました。もうあなたからパワハラを甘んじて受ける弱い私ではない。ヒバチは妖精です。あなたが言われる幽霊に本当になってしまったのかもしれませんよ」


 俺の後ろに幻影を作り出したヒバチによって、炎を背負って睨む鬼が見えている。


「ひっ?!」


 尻餅をついて涙目になった久保田、俺は笑顔で手を振った。

 あんな最低野郎に手を出す気にもならない。


「よかったのですか? 今ならやり返しても正当防衛でしたよ」

「良いんです。むしろ、いつやり返されるのかわからないという、幻覚を見せている方が、人は未来に恐怖抱えるでしょ?」

「はは、案外、堂本さんは性格が悪いね」

「はい! 課長に遠慮なんてしません」


 佐々木先生と笑って、逃げていく久保田を見送った。


 俺は新たな一歩を踏み出すための自由を手に入れた。


「佐々木先生、本当にありがとうございました」

「いえ、私もブラック企業をギャフンと言わせられて満足ですよ」


 改めて佐々木先生と握手をして別れる。


 家に帰り着くと、全てが終わったのだとドッと疲れたが溢れ出した。


 何よりも、話し合いの場を持つまでの一ヶ月間で、精神はすり切れてしまった。

 誰かと争うことが、こんなにもしんどいことだとは思いもしなかった。

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