恋文
青井ひろ
恋文 / 一話完結
台風による強風の影響で運転再開の目処が立っていなかった。
『六十歳から始めるウォーキング!』『必見!食べ歩きダイエット法!』
購買意欲を掻き立てる健康雑誌のコーナーを登志夫は通り過ぎる。革靴の裏についた雨のせいで歩くたびにキュッっと音が鳴る。
先月五十九歳になった登志夫は、今現在、身体に危機感を伴う衰えをそこまで感じることなく生活できていた。しいて言うなら目覚めが早くなり、白髪になったことぐらいで、子供も結婚し、妻の
時代小説を探そうと通路を右に曲がったとき、ある本が目に入った。
「あ、エンディングノート」
先日のテレビを思い出す。「まだ元気なうちに書いておくことをおすすめしますよ。しっかり備えておくことで老後を気兼ねなく楽しめますしね」そう専門家が言っていた。
登志夫は数ある中から一冊を手に取り、パラパラとめくる。ふーん、と喉だけを鳴らしながら頷くと、裏表紙の裏面に貼り付けられている便箋と封筒に気付いた。付録であった。
「大切な方へ向けて最後のメッセージを残しておきませんか」と説明書きがある。
手紙かぁ。今まで里美に手紙を書いたことがない登志夫はちょっとした興味が沸き、その本を手にレジに向かった。
帰宅後、今日は散々だった、といつもより一時間以上遅れて帰った登志夫は、里美と夕食をとりながらそんな話をした。子供を含め三人で使うこと、色んなことを考えて購入した木目調のダイニングテーブルは登志夫と里美だけが使うには大きかったが、登志夫にはそれがよかった。子供を育て切った自分と里美を、そこにあるだけで讃えてくれているようであったからだ。
里美が先に「休むわね」と寝室に向かい、それを見送ってから登志夫は仕事鞄の中から購入したエンディングノートを取り出した。
気になっていた便箋と封筒を裏表紙から剥がし、テーブルに広げる。それから本に書かれている例を参考に登志夫は、最初で最期の手紙、を書き始めた。
例文に目を通した登志夫は、単純に感謝を伝えることが大切で、普通の手紙と変わらないと感じた。仮に明日、自分がこの世を去るとしたら、そう想像し、便箋にペンを当てた。
一時間経った頃、すべてを書き終えた登志夫はペンをテーブルに置き、伸びをした。
「もうこんな時間だったのか」登志夫は伸びをしたあと、便箋に書かれた自分の文字、言葉をもう一度見た。
――登志夫と里美は両家の猛反対を押し切って結婚した。当時は将来性が見込めない職であった登志夫と、そして身体があまり丈夫ではなかった里美、その二人が不安定な今後を生き抜いていけるのかどうかを不安視され最後まで快く頷いてもらうことなく二人一緒になった。
そんな両親を見返してやろう、その意気込みをことごとく裏切ることが待ち受けているとは当時の二人にはわかるはずもなかった。
両親の不安は的中し、登志夫の会社は結婚して一年後に倒産した。
再起をかけ近所の工場で働き始めた翌月に、未曾有の豪雨が町の川を氾濫させ、工場の中にまで押し寄せた水が、生命線であった機械を全て飲み込んだ。
再び職を失った登志夫と里美は、小さなアパートに引っ越し、アルバイトで暮らしを支える日々を余儀なくされた。それからほどなくして、登志夫の友人から自分が営む電機屋で働かないかと誘いを受ける。登志夫と里美の暮らしが安定し始めたのは登志夫が四回目の新天地で勤務するようになってからであった。
ただもう一つ、忘れることが出来ないことがあった。
暮らしが安定し、将来のことを考えられるようになった二人の間に愛しい子供が産まれた。名を「未来」と名付け、登志夫と里美の日々にこれ以上ない光を与えてくれる女の子であったが、未来は身体が弱く、深夜の病院に連れて行くことが何度もあり、登志夫と里美が眠ることなく朝を迎えることは珍しくなかった。学校にも馴染めず転校をしたり、里美が未来の同級生の親と馴染めず仲間外れになったこともあった。
思い出せばキリがないほど、里美と登志夫はこのテーブルの上で手を握り合い「大丈夫、大丈夫」と支え合い続けてきた。
それでも、そう振り返るだけの余裕が今、あることを登志夫はありがたいことだと感じていた。
登志夫は便箋を折り畳み、封筒に入れた。登志夫は寝室に向かい、先に眠る里美の顔を見た。年を取ったはずなのに、どこかあどけない里美の表情は、出会った頃を思い出させた。さっきまで里美との最期の別れを想像し、今までを思い返しながら書いていたことが影響したのか、その表情に登志夫は安堵と申し訳なさが混ざったものを流した。それは弧を描き顎先から零れ落ちた。
登志夫は寝室を出て、自室の机に入れた封筒を取り出した。うん、うん、と何度も頷き寝室に戻ると、それを里美の枕元で薄く光る照明の隣に置いた。
登志夫も布団に入り目を閉じた。瞼の裏に広がる暗闇をぼんやり眺めながら思う。
「たくさん苦労してきたけれど、悪い人生じゃなかったよ。忘れることの出来ない不幸が何度もあった、それは確かだけど、その度に僕らはそこに寄り添い、支え合った記憶を紐づけしてこられた。それは多分、ううん、絶対、幸せなことだったよね。僕が死んでから君が見るはずだった手紙、やっぱり今すぐ君に読んでほしいと思ったのは、死んでからじゃ遅いよねって思ったからなんだよ。生きている間に伝えなくちゃ、そう思ったんだよ。たった一言しか、書けなかったんだけどね。起きたら読んでほしい」
いつの間にか、隣で眠る里美に語り掛けるように、登志夫は心の中で話した。
リビングから聞こえる食器の音で登志夫は目を覚ました。里美がもう起きていることを知り、照明の隣に手紙がないことに気付くと登志夫は少しずつ照れに似た気持ちを感じ始めた。いつも通り、を装うぎこちなさでリビングに向かい里美におはようと声を掛ける。
「あ、おはよう!」
里美も少しぎこちないような、そんな表情に見えた。机の上に広げられた便箋を見つけ、登志夫は言った。
「これ読んでくれた?」
里美は登志夫に近づいて言った。
「これエンディングノートとかに付いている手紙だよね? 最後のメッセージって書いてあるけど、今読んでもよかったの?」
「あ、あぁそうなんだよ!昨日本屋で見つけてさ・・。今、読んでもらわないと意味ないかなって」
「手紙なんて初めてじゃない。・・ありがとうね」
里美は照れる登志夫を笑うように、それでいて自分の照れを隠すように笑ってそう言った。
「・・いつも、ありがとうな」
「でもね、これじゃあ、ラブレターよ」
「え?」
そう言って里美は登志夫の肩をポンと叩いた。鼻歌を歌いながら台所に戻る里美の背中を見たあと、机の便箋に視線を落とした。
――生まれ変わっても一緒に暮らしてほしい
そう書かれた文字の端が丸く滲んでいた。
恋文 青井ひろ @aoi_hiro_ringo
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