計算令嬢の誤算~陰険な公爵閣下との婚約を解消するつもりが何故か猫を飼っていた~

納戸丁字

前編 置き去り計算令嬢、猫を拾う

(しまった。今日も言いそびれてしまったわ)


 ぼうっとして見上げた先には、白く優美な骨組みに支えられたガラスのドームがあった。

 更に向こうには尾を引く巻雲の浮かぶ、からりと晴れた秋空が広がっている。


 しかし私を取り囲む空間は温められている。

 春の盛りのように、人工的な手段で。

 あでやかに咲く異国の花々や風変りな枝ぶりの樹木たちを維持するためだ。


 従者と共に足早に遠ざかる背中は、ローレンス・ファン・メイレン公爵のものだ。

 重厚なマントとなびく髪が透かして見えた木々の間に消えていく。

 色はどちらも、夜のような漆黒だった。


 通りがかる人々が、残された私をじろじろと遠巻きに眺めていく。

 その視線に含まれているのは同情心半分、嘲笑半分といったところだろうか。


 扇子の下の口元はこう動いているのだろう。


 『身の程知らずの計算女』


 ――と。




 私、アメリア・デウィットは見栄えのいい女ではない。

 薄寝ぼけた茶色の髪に、氷のような灰青の瞳はどこか茫洋とした印象を他人に与えるようだ。


 色合いが淡白すぎて存在感がない。目の色が薄すぎてどこを見ているかわからない。

 そんな風に不気味がられることが多い。


 加えて私自身の趣味の関係もあってか、家族以外の殿方から優しくされた経験はなかった。


 そんな私が、ある日突然ローレンス・ファン・メイレン公爵から婚約を申し込まれた。


 メイレン公といえば王との血の繋がりが強く、王家と深い関係を取り結んでいる。

 つまりとんでもない権力を握っていた。


 なかでも現当主のローレンス閣下は実力者で高名だった。

 武器は鋭い舌鋒と地獄耳とすらいわれる調査能力。

 いったいどこから仕入れてきたの? という情報で対立者を徹底的にやり込めることで畏怖されていた。


 黒髪で黒づくめの格好を好み、エメラルド混じりの金の眼ばかりが煌々と光る。

 怖いくらいの美形なことも相まって、正直、地位のことがなくても近寄りがたい人物だ。

 陰険だ、嫌な奴だ、と陰口をたたかれることも度々だった。


 そんなローレンス公爵が、格で劣るデウィットの娘に婚約を申し込んだのだ。

 社交界はちょっとした騒ぎになった。


 身分違いの恋路だと勘ぐられ、周囲からずいぶんと探りを入れられたものだった。

 私とローレンス公爵との私的な交流なんて何もなかったのだけれど。


 彼はただ一言、こう告げただけだ。


「貴方の論文集を読んだ」


 なるほど。

 と、私は腑に落ちた。


 幼いころから、私の世界には数字が寄り添ってくれていた。

 数学は私が覚えた二番目の言葉で、なかでも統計学は大の親友といっていい。


 余暇に書いた論文を、兄の勧めでいくつか発表していたこともある。


 といっても、女の名前で出しても仕方がないので、兄自身の名義を借りさせてもらった。

 お兄様は「本当にそれでいいのか」と何度も念押ししていた。

 けれど、私の側には特に不都合がなかったのでそうさせてもらった形だ。


 なのに一体どうやってか、ローレンス閣下は実の作者を嗅ぎ付けたらしい。


 つまり、私に声をかけたのは妻という名の領地経営の一員を勧誘したに等しかった。

 見た目も冴えない、いつも数の事を考えてはぼんやりしている変なに対してなら、納得の用件だ。


 私にとっても、結婚した後も数の世界で遊べるのは悪い話ではない。


 どちらにしても、はるか格上の相手からの求婚だ。

 断るならばとんでもない胆力が要ることだろう。

 お父様もこの申し出にはすっかり驚いて、ほとんど言いなりでうなずいていた。


 そして程なくして、周囲の人々もからくりに気付き始めた。


 なにせローレンス公爵は人目につく場所でしか私と会おうとしないのだ。

 警備はつくけれど、人払いも最低限だ。

 まるで誰かに「彼女に手を出していませんよ」と義理立てするかのように。


 そのまま、ろくな会話もないデートが何事もなく終わることもあるけれど。

 でも、「用事が入った」という名目で私を置き去りにしていくことも頻繁にあった。


 今日もまた、温室に到着して早々、まだ中も満足に見て回らない内に彼は出て行ってしまった。


「失礼、急用が入りました」


 の一言で。

 従者が耳打ちするより先にその場から立ち上がって、後はこちらを振り返りもせず。


 付き添ってくれた私の侍女もどこか気まずげに佇んでいた。


 万事がこの調子だった。

 あまりのつれなさに面白くなって、記録をつけている。


 ご縁が出来てから今までの半年間、対面でデートした回数は19回。

 うち14回は途中離席や直前で中止になっていた。

 指数を100とすると、すっぽかし率は73.68にのぼる。


 それに、そんな計算をするまでもなく、流石に私も悟っている。


 私の他に、恋愛的な意味での本命が居るんですね? と。


 貴族の姻戚は家同士を結びつける契約だ。

 愛のない婚姻もありふれている。


 それに、経緯からしてローレンス閣下が用があるのは女としての私ではない。

 数字と戯れている方の私、すなわち数学的な能力だ。


 だから、愛する人が別にいるのはかまわない。

 多少はプライドが傷つくけれど、怒るのもお門違いだ。


 それより何より、徹底して愛人の存在を隠している方が気になった。


 あれほどの地位の持ち主だ、恋多き男だからといって何の欠点にもならない。

 それなのにここまで隠し通すのも不自然だ。


 まさか、表沙汰にできないような人物と繋がっているのだろうか?

 ……だとすれば婚姻してしまえば、私たちも無関係ではいられない。


 ただでさえメイレン公爵家には黒い噂も絶えないのだ。

 本当に縁を結ぶべきかどうかも含めて、慎重に検討しなければならないだろう。

 ……そうでなくても、最近の国内には不穏な動きが多いのだから。


「よし、婚約を解消しよう」


 いつしか私は、そう決意していた。


 極論すれば、今なら私一人が恥をかけば公爵家と手を切れる。

 私はローレンス閣下からさほどの関心も持たれていない。

 打診したらあっさり手放してくれる可能性も残されていた。


 それが駄目なら最後の手段だ。

 この国では女性側からの婚約解消要請の権利がある。


 具体的には、女性保護で高名な聖人が創立した教会へ駆けこめばいい。

 修道女として数年の禊をすれば、晴れて家に帰ることもできる。


 ……もちろん、その場合はよほどのこともなければ嫁の貰い手はなくなるけれど。


 玉の輿だ、上昇婚だと浮かれていたお父様たちには申し訳ないことだと思う。


 けれど、降ってわいたような幸運が、幻のようにかき消えてしまったというだけだ。

 最初から縁がなかったと思って、諦めてもらえたらいいのだけれど。


 そんなわけで、ここ最近の私は婚約解消のお願いを切り出す機会をうかがっている。

 けれどもローレンス閣下に先手を打たれて離席されてしまうことが続いていた。


 かくなる上は、手紙を出すしかないかもしれない。

 下手に物証が残ると揉め方が大きくなりそうで気が引けるのだけど……。


(今後はどうしましょう?

 領地経営の手伝いを続けて、持て余されるようなら改めて修道女になろうかしら)


 顔を上げ、ガラスのドーム天井を眺める。

 この温室は鉄とガラスが競演する芸術品だ。

 これほどの巨躯の設計には、どれほど膨大で緻密な計算が行われたのだろう。


 ここには数多くの技師や職工の意思や願いが息づいている。

 そのことを思うだけで私の心には灯がともった。

 人の営みへの崇敬が。


 私はひとりぼっちではない、そう思える。


 今後の生活を思いめぐらしているうちに、外はすっかり夕暮れになっていた。

 そろそろ帰ってもいい頃合いだろう。

 このくらい時間を潰しておけば、お母さまに余計な心配もかけずに済むだろうか。


 ――そう、ここは風も吹かないない温室の中。

 なのに、私の視線の先で、植え込みの一部がかすかに揺れる。


 それがなんだか気にかかって、私は歩み寄って行った。

 鮮やかな寄せ植えをそっと掻き分けて覗き込むと、小さく丸まった形の影が見える。


 目を凝らせば、そこには、傷だらけの身体でうずくまる猫がいた。

 私はとっさに手を伸ばす。


 嘘みたいに軽くて、ぐんにゃりと形を変える身体をなんとか抱き上げる。

 私はあわてて家へと取って返した。


◇◇◇


 それから二か月後。

 温室で拾った猫はすっかり元気になっていた。


 猫の毛並みはつややかな黒にふわふわの白が混じったものだった。

 白い部分は前脚の先と胸元から顎下、顔の下半分にかけて。

 まるで黒づくめの正装に黒い仮面を被っているようだった。

 緑がかった金色の瞳といい、なんだか誰かを連想させる見た目だ。


 そう、この子はローレンス公爵にちょっと似ている。


「でも、大違いなところもあるわ。あなたってとっても可愛くて素敵よ。公爵閣下なんか足元にも及ばないわ!」


 ……どうして半目になっているのかしら。

 首をかしげていたら、猫はフンと鼻を鳴らして籠から飛び降りてしまう。

 そうしてベルベットのような尻尾をぱたんと一振りしてから、どこかに歩いて行った。


 褒めたつもりだったのに。

 つくづく気まぐれな生き物だ。


 あの日、温室で猫を拾って、私はあわてて家に戻った。

 首都の邸宅ではなく、領地に建つ本宅へだ。


 馬車を飛ばしてもらって日没寸前に帰り着くと、すぐに獣医を呼んでもらった。

 その日は農場の牛たちの健康診断の日だったのを思い出したからだ。


 幸い、馴染みの獣医はすぐにやってきてくれた。

「小柄な生き物は少しの出血で大ごとになるから怖いんだがのう」

 などとぶつくさ言いながらも手際よく傷の手当てをし、包帯を巻いてくれた。


 私には彼を(そう、猫は雄だった。獣医に確認済みだ)拾った責任がある。

 だから昼夜つきっきりで看病をした。

 特別に塩抜きで作ってもらった肉入りスープを猫の口に運び、薬を塗り直して包帯を巻きなおす。

 そうして暖炉の傍に暖かな寝床を作って見守った。


 幸い、猫の容体は日に日に回復してくれた。

 宝石のような瞳がぱっちりと開かれた時は、少し涙ぐんでしまった。


 半月もたつころには傷もふさがり、猫は自由に歩けるまでに回復していた。

 邸宅内を堂々と歩き回る姿は、可愛らしくもどこか尊大だ。

 いつしか猫は、誰からともなく『閣下』と呼ばれるようになった。


 本当は可愛い名前をつけてあげたかったのだけど、仕方ない。


 だって、呼ぶと振り向くようになってしまったのだから。


「閣下~、ご飯だよ~」


「なーん」


 小鍋を片手にそう呼びかけたら、ほら!

 猫はどこからともなく小走りで現れた。

 すっかり自分の名前だと認識しているようだった。


 陶器の深皿に猫用の食事をよそってあげる。

 その間、閣下は前脚を揃えてお行儀よく待っていた。


 飼い主のひいき目かもしれないけど、この子ってかなり賢い。


「はいどうぞ」


 声をかけると、とことことお皿の前に歩いてきて食べ始める。


「今日はチキンの牛骨スープがけだよ。閣下、おいしい?」


「うな、にゃおん」


 声をかけると、ぺろりと口の周りを舐めてから鳴き返してくれる。

 訳知り顔で『まあ、悪くない』と言っているかのようだ。




 猫の閣下には不思議なところもあった。

 いつの間にか姿を消して、きまって部屋の外で見つかるのだ。

 どんなにきちんと戸締りをしても、いつの間にかするりと抜け出しているようだった。


 ある時なんて、私が庭で散策していたら閣下が木の上からひょっこり顔を出した。


 いったいどうやって屋敷の外に出たんだろう?

 まさかドアノブを回していったわけでもないだろうし。

 家族や使用人の誰かがこっそり連れ出しているのだろうかとも思った。

 けれど、誰に聞いてみてもそんなことはしていないと答える。


 屋敷の者は『閣下はアメリアお嬢様の猫』と皆が知っていた。

 妙な意地悪をされることなんてないはず。


 猫って本当に奇妙な生き物だ。

 興味が尽きないし、見ていて飽きない。

 そういった意味では、数の世界に少し似ているかも。


「……奇妙といえば、ねえ閣下」


「んなん?」


 私はふと思い出して、膝の上の閣下に話しかけた。

 閣下は片目を開けて『なんだ?』と言うように、めんどくさそうに鳴いてみせる。


「噂だけど、ローレンス公爵が行方不明なんですって」


「に゙」


「それも、私との温室デートをすっぽかしたあの日以来」


「……な、な~」


「事故にでも遭ったのかしら? けど、最後の目撃証言が首都のど真ん中でしょ?

 運河に落ちた訳でもないでしょうし……それに、万一溺れてもお付きの人たちがすぐ助けるものね?」


「……うなぁ」


「まさか暗殺!? ……とも思ったけれど……」


「うにゃん」


「仮によ?

 公爵家が死を隠していたとしても、手を下した側が『私がやりました!』と喧伝しないのはおかしいわ。

 そうじゃなきゃ暗殺した意味もないもの」


「んなぁお……」


「……どうしたの閣下? なんだか変に申し訳なさそうに鳴くじゃない」


「――フスン!」


 私がそう聞くと、閣下はまるで咳払いしたかのように息をついて、膝の上からするりと降りていってしまった。




 ――その日の夜。


 取り寄せてもらった学術書があまりに面白過ぎて、私は時間を忘れて読みふけってしまっていた。

 そしていつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。


 ことり、と微かな音がして意識が浮上する。


 そっと顔を上げ、音のした方向へ視線を向ける。

 そこには閣下が居た。

 裏庭に面した窓に前脚をついて立ち上がっている。

 満月の光を受けて、まるで月光浴しているかのようだ。


(可愛い。まるで人間みたいな姿勢ね)


 こっそり観察していると、不意に閣下は伸びあがって窓の掛け金を外してしまった。


 カチャン! キィ……ぱたん。


 閣下は窓を押し開けると、隙間からするりと外へ出てしまった。

 しかも、窓の隙間をきちんと閉じてからその場を後にする。

 まあ賢い。


 ――いえ、待って。

 ただの猫が窓を開けて、しかも閉じるですって?


 その、妙に人間臭い動作にざわざわと不安が湧きおこる。


 私はそっと身を起こすと、窓から外をうかがった。

 閣下は裏庭をとことこと横切っていくところだった。

 月光に照らされた黒白の毛並みが芝生に映えてよく目立つ。


 そして、敷地の隅の納屋へするりと入り込んでいった。


 そこまで確認すると、私は音をたてないように部屋を後にする。




「――それで、進展は?」


「芳しくありませんね。

 奴らもなかなか尻尾を出しません――おっと失礼を」


 フン、と鼻を鳴らす物音。


 私は納屋のドアにぴったりと耳をつけて、会話を一言も聴きもらさないよう集中する。

 中から聞こえてくる声は二種類。どちらも大人の男性のものだった。


「……まあいい。私の不在の影響も出てきているようだな」


「ええ。影武者任せにできない勤めがそろそろ引き延ばしの限界に」


「だろうな。どうにか私が健在であることを示さねばならん」


「……再び御身に危険が迫るのでは?」


「それでも、だ。姿のままなのは不服だが、執務にも復帰せねば」


「え、つまりここを出て帰還なさると? 無謀ですよ!」


「なに、猫一匹が屋敷に潜り込んだとて気にするものなど誰もいないさ」


「しかし……」


「アメリアさんは聡いひとだ。

 いつまで誤魔化せるか」


「それにしちゃあ飼い猫生活を満喫していたようですが……。

 すっかり毛づやも良くなっちゃって」


「やかましい」


「アメリア嬢はあなたを可愛がっているんでしょう?

 急に消えたら大層悲しむと思いますけどねえ」


「……そうでもないさ」


 二人の声には聞き覚えがあった。

 少なくとも、片方の、特に尊大なしゃべり方をしている方。


 聞き違えることなんてありえない。

 だって私は、彼の婚約者なのだから。


「ローレンス様!」


 私は反射的にドアを開けて、納屋の中へ踏み込んだ。


 古びた椅子の上で両脚を揃えて座っているのは、黒白毛並みをした猫の閣下。

 そして、その手前に跪いているのは、ローレンス公爵の従者だ。


「どういうことか、説明してくださいますか?

 閣下……いえ、ローレンス公爵閣下!」


「にゃ、にゃーん」


「今更ごまかしてもダメです」

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