第97話 黒き背骨


 勝負は決まったかに思われた、次の瞬間だった。

「がああっ」

 突然、ウヌムが叫んだ。

 ヘルートを跳ね飛ばすようにして立ち上がる。

 その身体の傷がたちまち癒えていく。

 神剣ヘカトオラクルの有する力の一つ。危機に陥った所有者の傷を癒す力が発動していた。

「こんなところで、負けるわけにはいかない」

 ウヌムは吼えた。

「私は、全てを失った。だが、あなたはまだ希望を捨てていない」

 その目が常軌を逸していた。闇に侵された目で、かつての英雄は叫んだ。

「デューオは、もうこの世のどこにもいない。だがあなたはその炎王龍の核で、恋人を蘇らせようとしている。不公平だ。そんなことは許さない」

 氷王龍の発する瘴気が、ヘカトオラクルに吸い込まれていく。その刀身は、すでに闇そのものだった。

「王龍を討った者は、絶望の底に沈まなければならない。それが世界を救った者の辿る運命だからだ」

 ウヌムは闇の剣を振りかざした。

「憎まなければならない、安全なところで自分を陥れた人間を! 恨まなければならない、自分を犠牲にして怠惰な平和を貪る人間を!」

 ヘルートは、全く動じなかった。闇と化した剣を猛禽のような目でぴたりと見据え、一瞬たりともそらさない。ウヌムの顔が歪む。

「あなたのような人間がいるとッ…!」

 振り下ろされた剣。

 その衝撃だけで、ヘルートの足元の大地が裂けた。

 だが、ヘルートの身体は両断されなかった。

 闇の剣を、白く輝く氷が受け止めていたからだ。

「ああ、やっぱりだめか」

 ヘルートは自分の握る氷を見つめた。その表面には、一筋の傷もない。

「いい一撃だったから、今のは少し期待したぜ」

「……あなたは」

 がらん、という乾いた音。ウヌムは剣を取り落としていた。

「あなたは、まるでブレない。目的が、強固過ぎる」

「そのために生きてるからな」

 ヘルートは言った。

「ほっといたってあと数年でこの世からおさらばする身だ。世界がどうとか、人類がどうとか、死にかけのじじいには正直どうでもいいんだ。言っただろう、俺は自分の都合だけで生きてると」

「あなたのような人間がいると」

 ウヌムは泣き笑いのような顔をした。

「自分が愚かに見える。大事なものはいつでも自分の足元に転がっていると諭されているような気になる」

「別にそんなことは言っちゃいない」

 ヘルートは答える。

「だから、あんたがそう思うんなら、それはあんた自身が本当はそう考えてるってことだ」

「デューオを」

 ウヌムはひざまずいた。

「デューオを愛していたんだ、本当に」

「ああ」

「忘れようとした。王女を愛そうとした」

「ああ」

「でも、それも奪われた」

「そうだな」

「私には、何もない。私は空っぽだ」

 ウヌムはうなだれた。

「だから、全部空っぽになればいいと思っていた」

「誰も、空っぽにはなれねえ」

 ヘルートは言った。

「人間が、血と肉でできてる限りはな」

 血塗れの胸を張る、痩せた老人。ウヌムは彼を見上げることができなかった。

「……氷王龍殺しのヘルート。私の負けだ」

 それは、敗北を知らなかった炎王龍殺しの英雄ウヌムが、初めて敗北を認めた瞬間だった。



 氷王龍を包む氷が、いよいよ大きな悲鳴を上げ始めていた。

「あいつが目覚めちまう」

 ヘルートは巨大な氷塊を睨みつけた。

「ウヌムさん、あんたなら止められるんだろう」

「あれは、あの状態ではまだ完全ではない」

 ウヌムは答えた。

「今、氷が割れたところで、出てくるのは二流の魔物以下の木偶の棒でしかない」

「そうなのか」

「ええ、なぜなら」

 ウヌムの言葉は途切れた。

 その腹から、黒い刀身が突き出ていた。

「ヘルートさん。本当にあなたは詰めが甘い」

 ウヌムの背後で、レジオンが笑った。

「氷王龍を本当に蘇らせるには、背骨が要るのですよ」

「レジオン。てめえ」

「よせ」

 ウヌムが叫ぶ。その口から血が溢れた。

「もういい、総監。私は負けたんだ」

「あなた個人の敗北に、私を巻き込まないでいただきたい」

 レジオンは冷たく言い放った。

「空席となった玉座が、私を待っているというのに」

 レジオンが剣を抜く。ウヌムの腹から血が溢れた。

 邪剣と化したヘカトオラクルの刀身が、所有者の血に染まっていた。

「やめろ、レジオン」

 ヘルートが動き出す前に、レジオンは素早く身を引いた。

「死にぞこないはそこで見ていろ」

 ヘルートに光弾を放って牽制すると、レジオンはそのまま氷王龍の方へと駆け寄った。

「背骨だと?」

 ヘルートはそれを追おうとしたが、すでにあまりにも血を流し過ぎていた。

 ふらついた足で、たたらを踏む。

「くそ」

「さあ、目覚めよ! 魔物の王よ!」

 レジオンは、両手で邪剣を捧げるように高く掲げた。

「人の王が貴様を呼んでいるのだ、目を覚ますがいい!」

 その声に呼応するように、邪剣がふわりと浮き上がった。

「まさか」

 ヘルートは目を見開く。

「あの剣を背骨にするってのか」

 氷王龍を包んでいた氷が轟音と共に砕けた。それは爆散と呼んでもよいほどの凄まじい砕け方だった。

 露わになった龍の白い身体にヘカトオラクルが吸い込まれ、消えた。

 氷王龍がゆっくりと目を開く。

「さあ!」

 駈け寄ったレジオンが両腕を広げる。

「氷王龍よ、その力を示せ!」

 氷王龍の青い目がぎろりと動き、レジオンを見た。

 次の瞬間、レジオンの身体がかき消すように見えなくなった。

 一瞬の後、ばらばらになったレジオンの身体が辺りに降り注いだ。後を追うように、粉々に噛み砕かれた宝剣ケラハオールの残骸が降り注ぐ。

「命じるな」

 低い、地の底から響くような声だった。ヘルートは眉間にしわを寄せる。

「人間ごときが、余に」

 氷王龍が、その巨体をゆらりと起こした。



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