第98話 氷王龍


 だから言っただろう、レジオン。

 ヘルートは無残な姿となったかつての部下を見た。

 氷の上に落ちたレジオンの首。その目は、大きく見開かれていた。

 レベル6のお前には、氷王龍の相手はとても無理だと。

 だが、仕方ない。お前が望んだことだ。

 レジオンが手をかけた王座には、龍が座っていた。それだけのことだ。

 ヘルートは氷王龍を見上げた。



「うわ……」

 身体を起こした氷王龍の巨大さに、ファリアが絶句した。

「お、大きい」

 氷王龍は長い首をゆっくりともたげた。

 ぐるりと首をまわすようにして、その場にいる全員を睥睨する。

「……いかん」

 クインクが立ち上がった。

 ヘクトオラクルの衝撃波に切り裂かれた大神官だったが、神官たちの治癒魔法により、すでに立ち上がれるほどに回復していた。

「みんな離れろ! 王龍は、まずい」

「ああ、くそ」

 トリアもナシオンの手を借りて立ち上がる。

「死ぬ前にまたこのでかい化け物と対峙することになろうとはな」



「……ウヌムさん」

 ヘルートは倒れたウヌムを助け起こす。その腹から、とめどなく血が流れていた。

「ここにはケルムの神官たちが来ている。大丈夫だ、助かるぞ」

「助かる気はない」

 ウヌムは弱々しい声で言った。

「あなたにも分かるだろう。残された者の地獄が、やっと終わるんだ」

 その言葉が、一瞬ヘルートを躊躇わせた。

 氷王龍が口を開く。鋭い牙の隙間から、ぞっとするほどの冷気が渦巻いているのが垣間見えた。

「私はここで氷王龍の牙に噛み砕かれるのがお似合いだ」

「それでもだめだ」

 ヘルートは声を絞り出した。

「離れるんだ。あんなものに殺されたって、何の救いにもならねえ」

 間に合わなかった。

 氷王龍がついに口から冷気を迸らせた。

 凄まじい威力だった。

 巻き込まれた特務部隊の戦士たちが、たちまち凍り付く。ヘルートの応援に駆け付けたヒルダたちが助かったのは、クインクをはじめとする神官たちが、全力で護りの結界を張ったからだった。それでも結界は破られ、数名の神官がなぎ倒された。

 そして。

「……サークスさん」

 爆発的な光が、邪悪な氷嵐からヘルートとウヌムを守っていた。

 二人の前に立ちはだかって、魔剣の光で氷を防いだのは、サークスだった。

「じいさん二人が、ごちゃごちゃと煮え切らねえことを言ってるんじゃねえよ」

 サークスはそう言うと、にやりと笑った。それから、崩れ落ちるように地面に倒れた。

 深手を負い、さらに残りの生命力を費やして氷王龍の攻撃を防いだサークスの命の炎は、もう燃え尽きかけていた。

「私を救ったのか」

 ウヌムは呆然と言った。

「なぜ」

「サークスさん、しっかりしろ。あんたはまだ死んじゃいけない人だ」

 ヘルートがサークスを抱き起す。

「誰か、治療を」

 しかし、神官たちの被害も大きかった。すぐに彼らのもとに駆けつけられる神官はいなかった。

「ウヌムさん。あんたにもらった命を返す時が来たんだ」

 サークスはヘルートに顔を向けて、そう言った。

「いつか、こんな日が来ると思ってた」

 俺はウヌムじゃない、と言おうとしたが、ヘルートにも分かった。霞みかけたサークスの目には、もはやウヌムとヘルートの区別もついていなかった。

「俺は、頑張っただろう? あのときのガキが、あんたに追いつきたくて、こんなところまで追いかけてきたんだ」

 サークスの手が、力なく空を掴む。誰かを探していた。

「ウヌムさん」

 ヘルートはウヌムを振り返った。

「握ってやれ」

 その声に背を押されたように、ウヌムはおずおずとサークスの手を握った。

「ああ。やっぱり」

 サークスは微笑んだ。

「あんたの手はあったかいな。俺の憧れた、あの日のまんまの手だ」

 それがサークスの最期の言葉だった。

 魔物狩人サークスは、憧れ続けた英雄に手を握られたまま、息を引き取った。

 頭上で竜巻のような音がした。

 氷王龍が再び息を吸いこんだのだ。

「まずい」

 ヘルートはサークスの身体を地面に寝かせると立ち上がった。

 悼むのは、後だ。今はあれに対処しなければ、死ぬ。

 まだ死ぬわけにはいかない。たとえ何があろうとも。

 氷王龍の青い目に、王龍特有の邪悪な光がなかった。

 人間には決して理解できない奇妙な諧謔みを含んだ、王と呼ばれる魔物だからこそ持つ眼光。この氷王龍には、それがない。

 蘇ったのは、その肉体だけなのだ。

 氷王龍の邪悪な魂は異界に還ったまま、この世界に戻ってきてはいない。

 ウヌムたちは残された核を利用して、その肉体だけを復元した。先ほどレジオンを殺すときに多少喋りはしたが、そんなものは炎王龍の死骸にへばりついていた残像と同じように、条件反射で言葉を発しているに過ぎない。

 だからこの氷王龍は機械的に息吹を吐き、目の前の敵を殺そうとする。

「ウヌムさん、その男を犬死にさせる気か」

 ヘルートは叫んだ。

「来るぞ、対処しなければ死ぬ」

 だが、青ざめた顔のウヌムはサークスの手を握ったまま動かなかった。

「ちっ」

 ヘルートはサークスの遺した魔剣を握った。

 所有者じゃなくて、申し訳ねえが。だが、サークスさんの死を無駄にしないためだ。

「頼む、ラヴァノール」

 天を衝く巨龍の口から、再びすさまじい冷気の嵐が吹き下ろされた。

 背後で仲間たちの悲鳴が上がったが、ヘルートにもそちらを見る余裕はなかった。

 魔剣ラヴァノールが、光を放った。

 サークスの全生命力をかけた先ほどの光には及ばなかったが、魔剣の光はそれでもかろうじてウヌムとサークスを守り切った。

「トリア様!」というナシオンの悲痛な叫びが聞こえた。

 あの魔法使いもやられたのか。

 そう思ったが、もはやヘルートには振り向く力もなかった。

「目障りだ」

 氷王龍が言った。

「これ以上、余の前をうろちょろするな。死ね」

 この言葉は、紛い物だ。

 ヘルートは思った。

 狡猾にして尊大な氷王龍は、もっと卑劣で厭らしい戦い方をする。

 こんな力に任せた単純な戦いを好まない。

 だがだからこそ、疲弊しきったヘルートにとっては付け入る隙が無かった。

 次の一撃で、この場の全員が死ぬ。

 そうすれば、次に襲われるのはジルヴェラの街だろう。そこには、カテナがいる。

 それが終われば、今度は世界中の街が襲われる。この国が滅びれば、次は他の小国を呑み込むことだろう。世界の終わりだ。

 ヘルートは氷王龍を見上げた。

 巨龍は、かつて自分を討った男など一顧だにしていない。紛い物の記憶には残っていないのかもしれなかった。

 この場にいる人間など、氷王龍にとっては全て、取るに足らない脆弱な存在なのだ。目を向ける価値すらない。


 だが、俺はここにいる。


 ヘルートは覚悟を決めた。

 胸に溜まったものを全て吐き出すように、長い長い息を吐いた。

 もう、それを手にすることはないと思っていた。

 すまん、アウラ。

 心の中で恋人に詫びる。

 お前にもう一度会うまでは、絶対に持つまいと誓った。

 魔法使いを志した時に、そう決めたのだ。だからこそ、ヘルートはこの歳で魔法を身につけることができた。

 だが、結局最後にはそれに頼ってしまう。

 全てを棄てて魔法使いになったはずなのに。

「あらゆるものが死ぬ」

 うずくまったまま、ウヌムが呟いた。

 その足元が、氷王龍の発する冷気で凍り始めていた。

「私など救わずに、己の身を守ればよかったのだ。私には救われる価値などなかったというのに」

「泣き言は、俺のいないところで言え」

 ヘルートは言った。

の戦いの邪魔だ」

 右腕を真横に突き出す。虚空に向けて、手を開く。

 相棒よ。ムシのいい話だってことは分かってる。

 だがもう一度だけ、俺に力を貸してくれないか。

 こいつを討つための力を。

 世界を救うための力を。

 ヘルートの呼びかけに、それは応じた。

 もとより、それは遥か古代に、そのためだけに鍛え上げられた剣だった。


 氷王龍を討つのなら。


 その揺るぎない声が、ヘルートにもはっきりと聞こえた。


 我はいつでも、汝に力を貸そう。


 次の瞬間、空間が歪むようにして一振りの剣が現れた。ヘルートの手に握られたそれは、とても名のある剣のようには見えなかった。

 装飾もない。まるで肉切り包丁のように分厚い刃の、ひどく不格好な代物だった。

 だが、宿敵の存在を感じ取ったように、氷王龍がヘルートにその目を向けた。

 剛剣シュルシェレット。

 それがその剣の名だった。



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