第91話 俺はそこから始めます
「弟子入りをしたい…?」
突然訪ねてきたヘルートに、シュフェイは困惑した顔をした。
高名な魔法使いである彼も、すでに老齢のためほとんどの職務を引退し、今は王都から遠く離れた山中に居を構えていた。
そこに現れたヘルートは、思い詰めた顔をしていた。
「軍は辞めてきました」
ヘルートは言った。
「どうか、俺をあなたの弟子にしてください」
「あのな、ヘルート。よく聞け」
シュフェイは小さな庵の戸口に立ちふさがるように、腰に手を当てた。。
「俺は弟子はとらん。アウラを弟子にしたのは、旧友から何度も頼まれたから、特別だ」
「知っています」
ヘルートは言った。
「それでも、弟子にしてください」
「どうしてそんなに弟子になりたい」
シュフェイはため息をつく。
「弟子になってどうする。お前はすでに優れた戦士のはずだ」
「自分の一番したいことを考えたんです。そうしたら、俺の一番したいことは、アウラにもう一度会うことだった。俺はアウラとあんなに長いこと一緒にいたのに、あいつのことを何も知らなかった。今度こそちゃんとアウラのことを知りたい」
「だが、アウラは死んだのだ」
諭すように、シュフェイは言った。
「だからお前も、もう前を向いて」
「アウラは死んでいない」
ヘルートはシュフェイの言葉を遮った。
「軍を辞めた後でもう一度、永久氷壁に行きました。そこで確信した。アウラは、あの氷の中で今も生きています」
「決して砕けぬ氷の中で生きているだと」
シュフェイは首を振る。
「そんなことをどうやって証明する」
「あの氷は、俺の剣でも傷一つ付かなかった。だけど、魔法なら。不可能を可能にする魔法使いなら、きっとあの氷を溶かすことができる」
ヘルートは、懐から布に包んだ氷の欠片を取り出した。
「この永久氷壁を溶かすことが」
シュフェイは厳しい表情でその氷片を見つめ、それから首を振った。
「永久氷壁を溶かすことのできる魔法など、存在しない」
「それも知っています」
「ならば、分かるだろう。それは不可能ということだ」
「でも何か方法はあるはずです」
ヘルートは退かなかった。
「永久氷壁は、魔物の作り出したものです。俺は今まで、どんな魔物にも負けたことはない。永久氷壁を作り出した氷王龍にも勝った。だから、きっと方法はあるはずだ。この世のどこかに、何か必ず方法が残っている。俺は残りの命を、それを探すために使いたい」
ヘルートの勢いに押されたように、シュフェイが口をつぐむ。
「アウラは今までの自分とは全く違う世界に、自ら飛び込んできた。たった一人で軍に飛び込んで、いきなり魔物と殺し合いをした。俺にはその勇気がなかった。軍を抜けて、知らない道を歩むのが怖かった」
でも、とヘルートは言った。
「今からでも間に合うのなら。俺は今までの自分とは全く別の世界に飛び込む。そこで可能性を見付けます。不可能を、可能にします」
シュフェイは、ヘルートの目をじっと見つめた。
「不可能を可能に、か」
シュフェイは息を吐いた。深く長い息だった。
「ヘルート。残念だが、弟子を取らないという俺の信条などより、もっと大きな壁がある。それは、仮に俺の弟子になったとしても、お前は決して魔法使いにはなれないということだ」
「どういうことですか」
「魔法使いになるには、幼少期からの訓練が重要なのだ。訓練を始める時期は、早ければ早いほどいい。逆に、十三歳か十四歳を過ぎてしまえば、もう魔法を使いこなすことのできる素養は完全に失われる」
そう言って、シュフェイはヘルートを見た。
「お前は今、何歳だ」
「四十四です」
「絶対に無理だ。魔法を学ぶには、三十年前でも手遅れだ」
シュフェイは首を振った。
「自己実現ならば、他の道を探せ。お前にはあの剣があるのだろう。氷王龍をも斬り裂いたあの剛剣が。あれならば、どんな道でも切り開くことができる。魔法使いになるという道以外ならば」
「シュルシェレットとは、別れました」
「なに」
「ここに来る途中、ソリュードルの地下迷宮に立ち寄りました。あそこは不思議ですね。魔物の出現がこんなに減った今でも、溢れんばかりの魔物がいた。その一番奥の、元あった場所にシュルシェレットは返してきました」
「……なぜだ」
「今までの自分を棄てるためです」
ヘルートは答えた。
「特務部隊最強の戦士。人知れず氷王龍を討った、報われない男。俺はいつの間にか自分で自分をそういう型に嵌めこんでいました。もはや戦う魔物のいない俺にとって、シュルシェレットはそんな過去の栄光に自分を縛りつける鎖でしかなかった。もう俺にはあの剣を使う資格はない。だから、手放しました」
ヘルートはひざまずくと、額を地面にこすりつけた。
「どうか! どうか俺を弟子にしてください! この歳で魔法使いになるのが不可能だと言うなら、俺はそこから始めます! そのくらいのことも覆せなくて、アウラの氷を溶かせるわけがない」
シュフェイはしばらくの間、ヘルートの震える背中を見ていた。
やがて、諦めたように身を翻した。
「入れ」
それからヘルートの訓練が始まった。
だが、やはり年齢の壁は大きかった。
ヘルートには何もできなかった。
才能ある幼い子供が朝飯前にできるようなことに、何度挑戦しても一度として成功しなかった。
そのまま二年が過ぎ、三年が過ぎた。
ヘルートの訓練への熱意は衰えることがなかったが、成し遂げた成果は一つもなかった。
「なあ、ヘルート」
ある日、シュフェイは弟子にそう呼びかけた。
「お前、本当に魔法使いになる気か。そろそろ諦めようとは思わないか」
「思わないです」
ヘルートは即答した。
「毎日、新しい発見があります」
「新しい発見、ね」
シュフェイは煙一つ上げられたことのない弟子の手を見た。
「特務部隊で戦っていたときの方が、余程新しい発見があったのではないか」
「ああ、そうかもしれないですね」
ヘルートは微笑む。
「確かに魔物との戦いの中にも、毎日新しい発見があったはずです」
「はず?」
「俺はその発見を喜べませんでしたから」
ヘルートは自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと続けた。
「きっと、それを発見とも思っていなかった。もっと別の、面倒な何かとして捉えていたと思います」
「それはなぜかね」
「命じられて戦っていたから、だと思います」
生き残るために必要な何か。レベル10に達するために必要な何か。全ての評価軸は自分の外にあった。要不要も快不快も、全ては外的な要因で決められていた。
「今は自分の意志で訓練をしています。だから、見付かる一つひとつの変化がとても嬉しい」
「……そうか」
シュフェイは頷く。
「本気なんだな」
「はい」
「それなら、可能性は残っているのかもしれんな」
「……え? 何のです?」
「決まってるだろう」
シュフェイは微笑んだ。
「ヘルート。お前が世界をひっくり返す可能性だよ」
ヘルートの手に小さな小さな炎が生まれたのは、それからさらに五年後のことだった。
***
「今のあなたの姿は、かつてのあなたに対する冒涜のように見えます」
レジオンの言葉に、ヘルートはわずかに眉を顰める。
「……なんだって?」
「かつてのあなたは、誰もが仰ぎ見る孤高の戦士だった」
レジオンは憐れむような目をしていた。
「それが、今はどうだ。老いるのは誰もが一緒だが、過去の自分をすべて否定するかのように似合わぬローブをまとって、丸腰でこのようなところにのこのこと」
特務部隊総監の言葉には、はっきりと嫌悪が滲んでいた。
「あなたは、私のなりたくなかった落ちぶれた老人そのものだ」
「そうか」
頷くヘルートの表情は静かだった。レジオンはわずかに苛立ったように重ねて問うた。
「もう戦士は捨てたということですか」
「ああ」
ヘルートは頷く。
「見ての通りだ。剣は手放した」
「それでこの私に勝とうと?」
レジオンの声が殺気を孕む。それに触発されたように、湾刀と槍を携えた二人の部下がじわりと前に出た。
「私は、もう昔の私ではありませんよ」
レジオンは言った。
「あなたは老いた。だが私はあの頃よりも遥かに腕を上げた」
「ああ。そうなんだろうな」
ヘルートは涼やかな目でレジオンを見た。
「それでもだ、レジオン。俺は魔法使いだ。剣は使わねえよ」
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