第89話 堕落
二十八年前。
氷王龍を討つと同時に、ヘルートは全てを失った。
特務部隊の任務も、仲間も、恋人も。
その手に残ったのは、氷王龍にとどめを刺した剛剣シュルシェレットだけだった。
凍り付いたアウラのもとをヘルートが離れることができたのは、この勝利を報告せねばならないという義務感からだった。
とにかく、最強の魔物は討ち果たした。レベル10となってこの実験を終わらせなければならない。こんな悲劇は、自分だけで十分だ。
その一心でようやくただ一人永久氷壁を後にして人里に辿り着いたヘルートは、グルバンの死を知った。特務部隊の上層部は、誰も生き残っていなかった。
命令を出す者のいなくなった世界で、ヘルートは途方に暮れた。
彼は、ついにレベル10に達することはなかった。
グルバンの死とともに、彼の計画の全てが霧散し、レベルという概念に何の意味もなくなったからだ。
おそらくヘルートは、世界を救った。
だがその栄光が降り注いだのは炎王龍を討った“光の剣”の頭上だけだった。
ヘルートという男の存在が世間に認知されることはなかった。
氷王龍の襲撃によって主だった幹部全てを失い、上層部がぽっかりと空白になった特務部隊では組織の再編が速やかに進められた。
新たに総監となった王弟は、特務部隊をオープンな組織へと変革する方向に舵を切った。
その過程で、大魔物期を生き延びた特務部隊の戦士たちは淘汰されていった。
レジオンのように器用に立ち回って昇進を遂げていったわずかな例外を除いては、その卓越した戦闘能力を発揮する場も与えられないまま、行く当てを失い、閑職へと回された。
激闘によって深く傷つき憔悴したヘルートも同じだった。
彼の功績は一顧だにされなかった。
新たな総監は、前体制の行っていた活動を野蛮で無意味な人体実験と断じ、それを表に出すことをしなかったからだ。
組織を生まれ変わらせるべく、それ以前の記録はすべて破棄され、新たに冒険者たちの戦いを手本とした魔物狩人の育成が始まった。
自分が組織にいる理由すら失ったヘルートは、二年後、特務部隊から離れた。
単なる一兵卒として再び護民兵団に戻され、流されるままに辺境の街の衛兵となった。特務部隊時代の彼が何をしていたのか、知る者はいなかった。
ただでさえ魔物の数の減った平和な街に、ヘルートの能力を発揮できる場所などなかったし、彼本人にも戦う意思はなかった。
ヘルートは自分を持て余し、酒におぼれた。
酔えば酔うほどに、アウラの最後の様子ばかりが思い出された。
どうして、あの時油断しちまったんだ。どうして、氷王龍にとどめを刺すことを優先せずにアウラを振り返っちまったんだ。
どうして。どうして。どうして。
繰り返す問いに、答えなど出るはずもなかった。
それでも剛剣シュルシェレットだけは手放さなかったのは、恋人も、ともに戦った仲間たちも、レベル10となって戦いを自分の手で終わらせるという目的も、何もかも失ったヘルートにとって、それが彼の苦闘を知る唯一の存在だったからだ。
荒んだ生活を送り、誰からもまともに相手されなくなったヘルートだったが、軍からは離れられなかった。
軍ではない場所でどう生きればいいのかも分からなかった。
ある時、ヘルートの街に警備の命令が来た。
要人として王族が訪れるので、その警備を担当するように、ということだった。
護民兵団では十数人の衛兵を選抜して、その任に当たらせた。
ヘルートもその一員に選ばれた。
無論、腕を見込まれてのことではない。
人数合わせ、単なる書類上の数字1として無作為に抽出されただけのことだ。
街の視察に訪れた王族の警備を、ヘルートも一応はきちんとこなした。
酒に溺れていたとはいえ、最低限の仕事のできない男ではなかった。それが出来なくなったら、もう死ぬしかないだろうという気持ちもあった。
「業の深い目をしている」
突然そう話しかけてきたのは、年老いた一人の魔法使いだった。
王族の随行者の一人としてやってきたこの魔法使いには、当の王族ですら気を遣って師として遇しているのがヘルートにも分かった。
おそらくは、著名な魔法使いなのだろう。
名声というものに無縁で、それを欲しいと思ったことさえなかったヘルートには、それが誰であろうと構わなかった。名を知ろうという気にさえならなかった。
だから、一行から不意に離れて一介の衛兵である自分に彼がそう話しかけてきたとき、ヘルートは戸惑った。
「……何でしょうか」
それでも衛兵としての仮面を取り繕ってそう返すと、老人は眉間にしわを寄せて小さく首を振った。
「アウラも喜ぶまい。命を懸けて愛した男がこの体たらくでは」
その言葉に、ヘルートは酒に濁った目を見開いた。
アウラ。
あの日以来、誰の口からもその名を聞いたことはなかった。
「あなたは」
ヘルートは、必死に言葉を絞り出した。
「あなたは、どなたですか」
「シュフェイ」
とその老人は言った。
聞いたことがあった。
それは、アウラの魔法の師の名前だった。
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