第88話 過去の亡霊
その日、王都において、一筋の黒い何かが宮廷から真っ直ぐに天に昇っていくのを多くの人間が目撃した。
駆けつけた近衛兵たちが目にしたのは、血の海に沈む国王とその一族の姿だった。
王都は、かつてない混乱に包まれた。
王族と国の重鎮を一掃してきた。
ウヌムの告白に、まるで永久氷壁に包まれたかのようにその場は静まり返った。
「今ごろ、王宮は大騒ぎだろうね」
ウヌムは笑う。
「この国を次は誰が動かすのか。空になった王座に誰が座るのか。そんなことで醜く争うんだろう。でも、そんなのはただの始まりに過ぎない。次は、これだ」
そう言って、氷王龍の遺骸を指差した。
「三十年前に世界を恐怖のどん底に叩き落とした王龍が、また帰ってくるんだ。今度はどうだろう、人間は生き残れるかな」
「氷王龍を蘇らせようというのか」
トリアが言う。
「だがどうやって。その氷は何だ」
「私のヘカトオラクルの持つ癒しの力と、レジオン総監の持つ剣の氷の力を組み合わせたんだよ。研究にずいぶんと時間がかかったけどね」
「宝剣ケラハオール」
レジオンは誇らしげに己の持つ剣を掲げた。
「地の獄のダンジョン、ソリュードルの地下迷宮で手に入れた剣です」
「ヘルートさん。氷王龍を討った後に核は取り出しておくべきだったね」
ウヌムは言った。
「氷王龍の身体はほとんど朽ち果てていたけれど、核がまだ残っていた。そのおかげでこうして身体を復元できた」
「核をどうこうしようなどという余裕はありませんでしたな、当時は」
それを悔やむ様子もなく、ヘルートは答えた。
「それどころではなかった。こんな風に利用されようとは思いませんでした」
「氷王龍はじきに蘇り、ここを飛び立ちます」
ウヌムは言った。
「人類にはもう一度、試練を受けてもらう。本物の魔物の脅威に晒されてもらう。その過程で新しい清らかなものが立ち上がるのならそれもよし。そうでないのなら、きれいさっぱり滅びればいい」
そう言って、ウヌムは微笑んだ。
「それがデューオの望みでもあるだろうから」
「ばかな」
クインクが前に進み出た。
「デューオがそんなことを望むはずがない。私はお前を止めるぞ、ウヌム」
「いいよ」
ウヌムは軽い口調で答えた。
「久しぶりに楽しくやろう。レジオン総監、ヘルートさんは任せてもいいね」
「もちろんです」
レジオンは頷く。
「私もこの老人とは決着を付けねばと思っておりました」
ヘルート対レジオン。クインク、トリア対ウヌム。
英雄たちの対峙は、その構図に収束した。
「まあ、俺の順番から言ってもまずはお前だ」
ヘルートはレジオンに言った。
「特務部隊の総監まで上り詰めたお前が、どうしてあんなのに加担してるんだ」
「上り詰めた?」
レジオンは唇を歪めて、それから笑った。
「ああ、あなたから見れば私は上り詰めたように見えましたか。そうですね、確かにあなたの人生を縛っていたグルバン参謀長よりも私は偉くなってしまいましたからね。あなたにとっては雲の上の存在に見えるかもしれない」
ヘルートは何も言わない。レジオンは続けた。
「けれど、この地位まで来ると分かるのですよ。上には上がいる。どこまで上ってもやはり上がいる。結局最後は、見えない蓋のようなものに塞がれる。その蓋をこじ開けるには、全てを崩して一から新しい秩序を築くしかないのです」
「だから、氷王龍に全部ぶっ壊してもらおうって?」
ヘルートはため息をついた。
「何にもなくなったら、もう上に上る必要もねえだろうが。生きてる人間が誰もいなくなった後で、一人で王を名乗るのか」
「確かに氷王龍は強力な魔物ですが、ある程度のところで退場願いますよ」
レジオンは不敵に笑う。
「そのための、特務部隊の戦力です。ここに連れて来た以外にも、特務部隊には多くの魔物狩人がいる。あなたには悪いが、彼らの水準はあなたがいた当時の特務部隊の比ではない。あの頃のレベル8程度の人間は、今では珍しくもない」
「レベル6だったお前が、どうしてレベル8を測れるんだ。やっぱりお前にも見せておくんだったか」
ヘルートは顎髭をしごく。
「氷王龍は、そんなに生易しいもんじゃねえぞ」
「自分だけは真実を知っているとでも言いたげですね」
レジオンはあくまで笑顔のままだ。
「ですが、私はあなたなどよりも余程厳しい世界を生き抜いてきた。あなたが惨めに落ちぶれて、逃げていった後の世界をだ。そして得たのが今の、この地位だ」
「それについちゃ、言い訳のしようもねえな」
ヘルートは認めた。
「人には向き不向きがある。俺には、戦い以外のそういうことは何一つ向いていなかった」
「向き不向き? 違うな、覚悟の差だ」
レジオンは冷たく言い放つ。
「私にとってあなたは過去の亡霊だ、ヘルートさん。みすぼらしい過去を背負い、何の成長もないままで、突然現代に蘇り私の前に現れた憐れな亡霊。魔法使いだと? あなたが?」
そう言って、揶揄するようにヘルートを見た。
「そう言えばあなたの持っていた剣はどうしました。不格好な、斬る以外に何の能力もないあの剣は」
ヘルートは無言で肩をすくめる。
「剣にまで捨てられたのですか」
レジオンは笑った。
「それならば、魔法使いになるしかなかったわけですな」
「まあ、そんなところだ」
ヘルートは言った。
「俺は魔法使いになった。だから、こうして今も生きている。戦士のままじゃ、俺は生きられなかった」
「興味がないわけではないですがね。最強の戦士だった男の、転落人生の詳細を」
レジオンはちらりと氷王龍を見た。
「けれど、あまり時間もかけていられない」
「いいさ」
ヘルートは外套を無造作に脱ぎ捨てた。
「お前に話すほどのことでもない」
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