第16話 晴らし子

 朝、カテナが目を覚ますと数人の大人が家に来ていた。


 もちろん皆顔見知りだが、いつもとは違い、クウラフウラの塔の外壁の色と同じ黒い服を纏っていた。


 ああ、今日がその日なんだ、とカテナは悟った。


 いよいよなんだ。早かったような、やっとこの日が来たような。


「これ以上霧が濃くなったら、村がもたない。そういう結論になったんだ」


 みんなと同じ黒い服を着たキクリおじさんが言った。


「さあ、これに着替えなさい」


 手渡されたのは、カテナも見覚えのある白い服だった。


 これは、晴らし子の衣装。


 二年前にカリーンが着ていたのと同じものだ。


 カテナは、おずおずとそれを受け取った。覚悟はできていたつもりだったが、それでもどこかふわふわとして落ち着かなかった。


 白い衣装はいろいろなところに紐がいくつも付いていて、どれとどれをどう結べばいいのか分からず手こずったが、一歳年下のカイラが甲斐甲斐しく手伝ってくれた。


 きっと、次の晴らし子はこの子だ。


 紐を結んでくれているカイラの、小さな形のいい唇を見てカテナは思った。


 カイラの次は、まだ八歳のカーサ。その次の子はいない。


 きっとそれまでに、誰か新しい子が村に来るのだろう。



 両親と一緒にこの村に迷い込んだとき、カテナはまだ七歳だった。


 旅芸人だった両親は、それまでいた一座が解散してしまったので、大きな街の別の一座に加わるためにカテナを連れて旅をしている途中だった。


 けれど、その街に辿り着くことはできなかった。霧に包まれて方向を見失い、この村に迷い込んでしまったからだ。


 元来の気質からして旅人であるカテナの両親は、村の生活に素早く見切りをつけて、娘を連れて村を出ようとした。


 そして、選別の森で霧に食べられてしまった。


 カテナは一人で泣いているところを、キクリおじさんたちに救われた。


 霧が私だけ食べなかったのは、きっとこの日のため。


 今ではカテナにもそれが分かっていた。


 霧が濃くなった時、晴らし子になる女の子が必要だったから。村に男の子がいないのも、晴らし子として使えないからなのだろう。


 この村は全て、そういう誰かの都合でできている。


 都合の悪い存在は、霧に食われてしまう。私の両親や、あのかわいそうなヘルートのように。




 服を着替えて部屋を出たカテナは、家の前で大人たちの担ぐ輿に乗せられた。


 晴らし子は、家からクウラフウラの待つ尖塔までの間、地面に足を下ろしてはいけないのだ。


 輿を担ぐのは、コルトたち大人の男。


 五年間、家族のように暮らしたキクリおじさんは家の前でカテナを見送った。


「じゃあな、カテナ」


 それだけだった。ほかには何の言葉もなかった。


 道を進んでいくと、霧の中から村のおじさんやおばさんが出てきて見送ってくれた。皆、黒い服を着ていた。


「頼むよ、この霧を晴らしておくれよ」


「早く太陽が出ないと作物が実を付けないんだ」


 口々に、彼らは言った。カテナは誰からも別れを惜しまれなかった。


 カリーンの時もそうだった。みんな、霧を晴らしてくれと言ってばかりだった。あのときのカテナには、それが自分のことではないのに腹立たしく、悲しかった。


 この村では、霧が全て。クウラフウラさまが全て。


 そして私は、その供物。


 輿は塔へと通じる道の入り口まで来た。一緒についてきてくれたカイラも、ここで足を止める。


「ありがとう、カイラ」


 カテナは輿の上から手を伸ばしてカイラの頬を撫でた。


「次はきっとあなたね」


「うん」


 カイラはその手に自分の手を添える。


「クウラフウラ様によろしくね。次はカイラって子が行きますって」


 カリーンや自分とは違う無邪気な答えに、カテナは微笑んだ。


「そうね。お伝えしておくわ」


 担ぎ手の男たちが歩き出す。


 輿はそのまま山へと入っていく。


 尾根へと続く細い道を輿で登るのは、屈強な男たちとはいえ苦しそうだったが、それでもカテナに下りて歩けとは言わなかった。


 晴らし子であるカテナを無事に塔まで送り届けることが、村の男たちに課せられた使命なのだ。少なくとも、彼らはそう信じている。


 ようやく塔にたどり着いたとき、男たちは全員汗びっしょりで荒い息をついていた。


 塔の入り口の重い石の扉が、今日は大きく開け放たれていた。


 輿はその前に静かに下ろされた。


「みんな、ありがとう」


 カテナはそう言って立ち上がった。


「ああ」


 コルトが頷く。


「元気でな」


 男たちは言葉少なだった。塔の内部は不気味に静まり返り、彼らは皆ちらちらとそちらを窺っている。一刻も早くここから立ち去りたいという気持ちが透けて見えた。


 怖いのだ。この塔の主が。


「ご苦労」


 突然どこからか、地を揺るがすような低い声がした。ひっ、と男たちのうちの誰かが悲鳴を漏らした。


「晴らし子を残して帰れ」


 それはクウラフウラの声だった。


 男たちは弾かれたように走り出した。転がらんばかりの勢いで、一度として振り返ることはなかった。


 後に残されたカテナは教えられていた通り、その場で白い衣装を脱ぎ、下着姿になった。


 剥き出しの肌に、霧混じりの空気が冷たかった。


 鳥肌の立ってしまった二の腕をさすってから、服を丁寧にたたんで輿の上に置く。


 輿は、後で男たちが回収に来る。そしてこの服は、次の晴らし子が何年後かに着ることになるのだろう。


「入れ」


 クウラフウラの声が響いた。


 ふう、と息を吐いて心を落ち着けると、カテナは「はい」と返事をして塔に足を踏み入れた。


 カテナが中に入るのを待っていたかのように、石の扉は音もなく閉じた。


 暗闇に包まれたのは、ほんの一瞬だった。


 すぐに壁沿いの燭台に炎が灯る。


 カテナは明るくなった内部を見上げた。


 遥か最上階までずっと空洞が続く、巨大で虚ろな建造物だった。


「来るがよい」


 塔の中に入っても、クウラフウラの声はどこから聞こえてきているのか分からない。


 だが、いるのは最上階だろう。


 壁に沿って設置された細い石の階段に、カテナは下着姿のままで足を掛ける。


 裸足には石が冷たかった。


 そのとき、クウラフウラが意外なことを言った。


「そちらではない」


「え?」


 カテナは足を止める。


「こちらだ」


 彼女をいざなうように、一階の一番奥の壁にかけられた燭台が音を立てて大きく燃え上がった。


 上じゃないの、とカテナは意外に思う。


 ヘルートも、最上階でクウラフウラに会ったって言っていたのに。


 だが、呼ばれたのであれば従うしかない。


 カテナは階段を離れ、燭台の方へと歩いた。


 それでもやはり視線は自然と上へと引き付けられる。遥か上の天井を見上げながら歩いているうちに、カテナは気付いた。


 あれ、壁の色が違う。


 一階の壁と、それよりも上の壁との色が。


 どちらも黒色なのだが、同じではない。


 そうか。一階の壁だけがずいぶんと古いんだ。多分、この塔自体は古くないのに、土台になっている一階だけが……。


 そんなことを考えているうちに、大きく燃えている燭台の下に着いた。


 そこまで来てやっと、まるで誰にも見つかりたくないかのように細い階段がひっそりと地下へと向かって伸びているのを見付けた。


 下り階段。地下なのか。


「ここ、ですか」


「そうだ」


 クウラフウラの声は言った。


「そこを下りろ」


 嫌な予感がした。ものすごく嫌な予感が。


 カテナの足は竦んだ。




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