第13話 冷えた果実
人気のない森を、ヘルートは一人歩いていた。
村人たちから「選別の森」と呼ばれるこの森は、山の麓へと通じる、村にとっては外界への唯一の出口だ。
おそらくは、さほど深い森ではない。
ヘルートはそう見ていた。
もちろんこの一帯全てを覆う、この濃い霧さえなければの話だが。
「む」
不意に霧の中から現れた太い木の幹に、見覚えのある傷を見付け、ヘルートは足を止めた。
「……なるほど」
その新しい傷を指でなぞる。
それは少し前に自分が付けた傷に他ならなかった。
霧の中をでたらめに歩いてきたわけではない。
あらゆる方法で自分の位置を確かめ、歩く方向を確かめてきた。
それでも、元の場所に戻ってきてしまった。
それは、普通では考えられないことだった。
「魔法か」
そう呟いたヘルートは、何かに気付いたように背後を振り返る。
そこで、霧が揺れていた。
周囲を包む霧は全く揺れていないというのに、ヘルートの背後のひとかたまりの霧だけが、意志を持つかのようにゆらゆらと揺れていた。
ヘルートは村を案内してくれた少女の言葉を思い出す。
森の怒りに触れると、霧に食べられる。
食べられるかどうかはともかく、目に見えない何者かの悪意が、森に満ちているのは分かった。
「歓迎されていないのは確かじゃの」
霧の揺れが大きくなる。それに合わせて周囲の木々がざわざわと揺れた。
高まる不穏な気配。
「ふむ」
葉音が不意に止んだ。
老魔法使いの手に、周囲を圧するほどの冷気を放つ氷が握られていた。
ぱき、ぱき、ぱき。
消えた葉音の代わりに、氷のまわりで微かな音が鳴っている。
それは氷の発する冷気に触れた霧が瞬時に凍り付く音に他ならなかった。
まるでそれを恐れるかのように、霧の揺れが止んだ。
「ま、欲しいものは手に入った」
ヘルートは何事もなかったように氷を袖にしまうと、元来た道を歩き出した。
「これは少し時間がかかりそうじゃの」
「カテナさん、こんにちは」
ヘルートがふらりとカテナの家に現れたのは、彼がこの村に迷い込んでから十日余りが経った日の朝だった。
意外なことにヘルートは、カテナが案内をしたその翌日からきちんと畑に現れ、ほかの男たちとともに畑仕事に精を出していた。
「あのじいさん、なかなかどうして力があるんだよ」
その仕事ぶりを目にしたキクリおじさんがそう言っていた。
彼の話では、ヘルートはその歳に似合わない身軽な動きで畑を行き来し、ほかの壮年の男たちとまるで遜色ない働きをしているという。
その話にカテナはほっとしたような寂しいような、複雑な気持ちを抱いた。
あの人も、あっという間に村に馴染んだのね。
尖塔に行きたいなんて言っていたから、ちょっと心配していたけれど、やっぱり普通の大人だった。
あの黒い塔には、村人が自由に行くことなどできない。
行けるのは、「晴らし子」を連れていくときだけだ。
本当はあの塔に行きたくないの、と打ち明けてくれた時のカリーンの顔を、カテナは今でもはっきりと覚えている。
カテナ、私怖いの。もう村に戻ってこられないとか、そういうことじゃなくて。何だかあの塔に行ったら私自身まで霧に溶けてしまうような気がして。
村に来たばかりで何も分からなかったカテナに、この村のことを何でも教えてくれたカリーン。
両親が霧に食べられてしまってからは、まるで実のお姉さんのように接してくれた。
そのカリーンが、まるで年下の女の子のように怯えていた。
カリーンが「晴らし子」としてあの尖塔に行った後どうなったのか、カテナには知る由もない。ただ、村を覆っていた霧が晴れて、大人たちが「カリーンは役目を果たしたんだ」と言っているのを聞いただけだ。
あの塔は、そういうところ。
神聖だけど、恐ろしいところ。
だから、ただの“元気な老いぼれ”が気まぐれに行ってみようなんて気を起こしてはいけないのだ。
そう思っていたのに。
カテナを訪ねてきたヘルートは、いつものローブ姿だった。
「どうしたの、ヘルート」
答える代わりに、ヘルートはローブの袖から手品のように小さな赤梨の実を取り出し、カテナに差し出す。
「来る途中の木になっていました。見事なもんですな」
カテナが手を出さずにいると、ヘルートは実をひょいっと上に放り投げた。
それが老人の手元に落ちてくる前に、カテナは手を伸ばして空中で掴む。
その鞭のようなしなやかな手さばきに、老人は目を見張った。
「おお、取られてしまった。見事なもんですな」
「ヘルートがのろまなだけよ」
澄ました顔でカテナは答えてから、驚いて実を見た。
「冷たい」
彼女が掴んだ赤梨の実は、氷のように冷たかった。
「果物は冷やした方が甘くなりますからな」
ヘルートが、袖からまた手品のように滑らかに、新たな赤梨の実を取り出す。
「これは儂の分」
そう言って、意外なほど人懐っこい表情で笑う。
「カテナさんに、ちょっと案内してほしい場所がありましてな」
「別にいいけど」
ちょうど、キクリおじさんも畑に行ったところだ。家には誰もいない。
「この前はちゃんと案内できなかったから。どこに行きたいの」
行きたいのは水車小屋か、それとも牛小屋か。
「まあそれは追々、話しながら」
老人は話を濁した。
赤梨を齧りながら、カテナはヘルートと並んで村の道を歩き出す。
ヘルートの言った通り、冷えた赤梨は、今まで食べたどんな赤梨よりも甘く感じた。
「おいしい」
「そうでしょう」
ヘルートはにこにこと頷く。
「冷やせば、果物はうまいのです」
カテナが気になったのは、そこだった。
「でも、どうやって冷やしたの」
「ああ、それは」
老人はローブの袖から、今度は布に包まれた何かを取り出した。
この袖には何でも入ってるみたい、とカテナはおかしく思う。
他にも何か入っているようで、袖はまだ膨らんでいた。
「これです」
ヘルートが布をそっと開くと、ちょうど彼の拳くらいの大きさの透明の塊があった。
「……氷?」
「ええ」
ヘルートが頷く。カテナは、その氷をまじまじと見つめる。
氷だと言ってはみたが、それにしては、表面がちっとも濡れていない。けれど、見ているだけでこちらまで寒くなるほどの冷気を放っていた。
「どうして溶けないの?」
ヘルートはカテナの問いに答えず、それを丁寧に布に包み直して袖にしまう。
「その布に秘密があるのね。氷が溶けない魔法の布なんだわ」
ヘルートは笑顔のまま何も答えず首を振る。
「ねえ、そうなんでしょ」
「そういえば、麓に通じる森に行ってみましたが」
ヘルートはあからさまに話題を変えた。
「確かに抜けられませんな。あの森の霧は不思議な力を持っている」
「そうよ。言ったでしょ」
カテナは頷く。
来たばかりの老人が簡単に抜けられるよう森だったなら、カテナの両親だってまだ元気で生きていられたはずだ。
「この村からは出られないのよ」
「そのようですな。これは困った」
ヘルートは言葉とは裏腹に大して困った様子もなくそう言うと、痩せた腕を上げた。
「行きたいのはあそこです」
老人が指差したのは、尾根の向こうの黒い尖塔。
クウラフウラの塔だった。
「あそこに?」
「ええ」
「あそこには行けないわ」
カテナは首を振る。
まだ諦めていなかったなんて。
「だって、あそこにはクウラフウラさまが住んでいるんだもの」
「そのクウラフウラに会いたいのです」
老人は平然と言った。
「村の人たちが皆口々に言っておりました。尾根の向こうの黒い塔に住む偉大な魔法使いクウラフウラは、霧を退け、太陽の光を村にもたらしてくれるのだと」
「ええ、そうよ」
「そういう魔法使いならば、儂の探している太陽の石のありかを知っているかもしれませんのでな」
「そんなことを言っても」
「なに、一緒に来てくれとは言いません」
老人はあくまで快活だった。
「あそこに通じる道だけ教えてもらえれば、それで。ほれ、この通り。老い先短いじじいを助けると思って」
ヘルートに深々と頭を下げられたカテナは、仕方なく承諾した。
「じゃあ、ついてきて」
村外れまで老人を連れていくと、そこに伸びる一本の道を指差す。
「これよ」
山奥へと通じるこの道だけは、通る者もほとんどいないはずなのに不思議と雑草に覆われるということがなかった。
「ここをずっと真っ直ぐに、あの塔を見失わないように進めば行けると思う」
カテナも実際に行ったことはないが、それで間違っていないはずだった。
二年前、ここでカリーンを見送ったのだから。
「ありがとう、カテナさん」
ヘルートは穏やかに微笑んだ。
「お礼にまた今度、冷えた赤梨の実を持っていきますぞ」
そう言い残し、老人は道を歩き出す。
その背中はすぐに霧の向こうに溶けるように消えた。
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