第12話 太陽の魔法使い
「おや、これは」
カテナの隣を歩いていた老人が、不意に道端の草に目を留めて声を上げた。
「変わった草ですな」
「ああ。ムシトリグサね」
カテナはつまらなそうに言った。
ヘルートが見下ろしているのは、釣鐘の形をした薄桃色の花弁を持つ野草だった。花が重いのか、長い茎はぐにゃりと曲がって下を向いてしまっている。
「見てて」
カテナは地面から蟻を一匹捕まえると、その花の手前の地面に置いた。
と、次の瞬間、風もないのに茎がさらに曲がり、釣鐘型の花弁が蟻にすっぽりとかぶさってしまった。
「お」
ヘルートは目を見張る。
「これは」
「こうやって、地面を歩いてる虫を捕まえて食べるのよ」
カテナは言った。
「食虫植物ですか」
ヘルートは地面に膝をついて茎を掴むと、花弁の中を覗き込む。花の中では蟻が分泌された粘液に絡めとられていた。
「ほら、逃げられないでしょ? あとはゆっくり花の中で消化するのよ」
「ふうむ」
老人は真剣な顔つきで花を見つめていたが、やがてぽつりと、
「恐ろしいものですな」
と呟いた。
「恐ろしい?」
カテナは聞き咎めた。
「怖くなんかないわよ。こんなちっちゃな花で、その粘液もちょっとべたべたするだけ。人間には害がないもの」
そう言ったものの、ヘルートの表情は冴えなかった。
「選別の森に行けば、もっと生えてるわよ。ホクチの実も拾えるし」
「ああ、ホクチの実は子供の頃よくいたずらに使いましたぞ」
ヘルートはようやく顔を上げた。
「火で炙ると、ぱん、と大きな音を立てて弾けるのが面白くてですな。人の家の庭に投げ込んだりしたものです」
「この村では誰もそんないたずらはしないわ」
カテナは言った。
「よく火が付くから、火を起こすときの最初の枝に混ぜるだけ。さあ、こんなところにしゃがみこんでないで、もう行きましょう」
畑が村を見下ろす高台に作られているのは、森から上がってくる霧からなるべく距離を離すためだ。
いつもなら、ここまで登ってくれば、小さな村を一望できる。
けれど今は、眼下の村は霧の底に沈んでしまって、一番高い鐘楼や数軒の家の屋根がまるで湖の水面に顔を出す岩礁のようにぽつりぽつりと見えるだけだ。
これじゃヘルートに村の説明もできない。
広場や家々を指差してあれこれと説明してあげようと思っていたカテナは、当てが外れて渋い顔をする。
けれど、当のヘルートは気にした様子もなく、
「なるほど、確かに霧の村」
などと言って、納得したように微笑んでいる。
畑では、今日も大人たちが働いていた。昼間、ほとんどの大人はこの畑や牛小屋、水車小屋などで作業をして過ごす。
「立派な畑ですな」
ヘルートは屈みこむと、作物の様子を眺める。
「実りがいい」
などと言いながら、勝手にうろうろと歩き出す。
「ヘルート」
カテナが老人の徘徊を止めようとしたときだった。
「よう、カテナ」
村では比較的若い、コルトという青年が声を掛けてきた。
「あのじいさんって、もしかして」
「うん、新しく来た人」
カテナは答える。
「だから、案内してきたの」
「そうか。この村じゃ、じいさんにだって働いてもらわにゃならんからな」
そう言った後でコルトは声を潜めた。
「じいさんでよかったな、カテナ。子供でも迷い込んで来たら大変だった」
「え?」
「だってこのまま霧が濃くなれば、次はお前の番だろ? 子供が迷い込んできちまったら、順番が変わるかもしれない。そうしたらお前は“晴らし子”になれないじゃないか」
「……晴らし子に」
「そうだよ。名誉なことだろ」
コルトは訳知り顔で頷く。
「俺たち大人にゃなれない。羨ましいよ」
カテナはコルトの顔を見た。元々はこの人も、善良で無口な青年だった。
いつからだろう。こんな風に何かに取りつかれたような茫漠とした顔をするようになったのは。
村で暮らし始めると、最初はどうにかして外へ出ようとあがいていた人たちもみんな、数日もしないうちにそんな顔になる。男も女も関係なく。
カテナの父と母は、それに気付いたのだ。だから、自分たちが正気を保っているうちにカテナを連れて無理にでもあの森を抜けようとした。
そして、霧に食われた。カテナ一人を残して。
「晴らし子の話はまだいいでしょ」
カテナは言った。
「いずれにしたって、その時になれば誰かが行くんだから」
この村でこのまま生きていくくらいなら、いっそ喜んで晴らし子になる。
内心ではそう思ってはいたけれど、こうやって直截的に「お前は晴らし子になりたいんだろ」と人に言われるのは不快だった。
「……そうか」
コルトはそれでもまだ何か言いたげに頬を引きつらせた。
「でもな、カテナ。晴らし子ってのは」
「その話はもういいってば」
コルトの言葉をカテナが乱暴に遮ったとき。
「おうい、カテナさん」
いつの間にか遥か向こうの畑のへりまで行ってしまっていたヘルートが、カテナに向かって大きく手を振っていた。
「ちょっといいですかな」
「あの人が呼んでるから。じゃあね」
カテナはコルトから離れ、ヘルートの方へ歩み寄る。
「なに?」
「あれは何ですかな」
ヘルートが指差したのは、山の尾根の先だった。
村よりも霧が薄いので、そこにはそれがまだはっきりと見えた。
黒い尖塔。
「クウラフウラさまの塔」
カテナがそう口にすると、ヘルートの目が一瞬鋭さを増したような気がした。
「クウラフウラとは?」
「すごく偉い魔法使いのお名前」
カテナは答える。
「太陽の魔法使い。この村を守り、霧を晴らして太陽の光を取り戻してくださる方」
「太陽の魔法使い、ですか」
ヘルートは尖塔から目を離すことなく、またひとつ頷いた。
「なるほど」
老人はローブの袖を静かに撫でる。
「それでは儂の行く先は、あの塔ということになりますな」
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