第二章 霧に包まれた村と老魔法使い
第10話 霧に包まれた村
村には今日も、白く薄い霧が立ち込めている。
山の中腹にあるこの村に、麓の森から霧が上がってくるのは珍しいことではなかった。
とはいえ、ここ最近明らかに霧の日が増えている。それは十二歳になったばかりのカテナにも分かった。
彼女の住む家の二階の窓から見ると、広場のモミの木が今日も霧の向こうに揺らめいている。
あの木がすっかり見えなくなるくらい霧が濃くなってしまったら、次の“晴らし子”を選ぶ時期だ。
一緒に暮らしているキクリおじさんはそう言っていた。
それに選ばれるのが誰なのかは、聞くまでもなかった。
モミの木のはるか先、山の尾根の向こうにそびえ立っているはずの黒々とした尖塔は、もう霧のせいで見えない。
私は、あそこに行くんだ。
カテナは知っていた。
この村がこのまま霧の底に沈んでしまわないために。
ここが、迷い込んだ旅人をいつでも受け入れられる村であり続けるために。
そのためには村人みんなが食べていけるだけの作物が必要で、畑に作物が実るためには太陽の光が必要で、そして太陽の光がこの村に差しこむためには“晴らし子”があの塔に行く必要がある。
それはこの村で育ったカテナにとっては、ごく当たり前の理屈だった。
晴らし子は黒い塔へ行き、そこで偉大な魔法使いクウラフウラのために働くのだ。
前回の晴らし子にカテナよりも三歳年上のカリーンが選ばれたのは、二年前のことだ。
カリーンが村を出てあの塔へ行ってからしばらくして、伸ばした腕の先すら見えないほどだった霧が嘘のように晴れた。
朝日の眩しさに目を覚ましたときは、いつの間にか自分は死んでしまって死後の楽園に来たのかと思ったほどだ。
もちろん、麓へと続く「選別の森」には霧はかかったままだったけれど。
今まで、クウラフウラの塔から戻ってきた晴らし子は一人もいない。
カリーンもやはり、戻っては来なかった。
お役目を終えた晴らし子は、霧を背負ってこの村を離れるのだ、と物知りのケセリじいさんが言っていた。
霧を背負う、というのがどういうことなのかは分からないが、あまりいいことではない気がする。
それでも、この村から出ていけるのなら。
カテナは、深い霧に包まれた「選別の森」に目を向け、その向こうにあるはずの外の世界を見通そうとする。
誰も出ていくことのできないこの村から、出ていけるのなら、私は喜んで晴らし子になる。
その奇妙な老人が村に現れたのは、それから数日後のことだった。
霧はまだあれからあまり濃くなってはいない。
カテナの住む家からも、広場のモミの木はどうにか見ることができた。
村に一軒しかない酒場にふらりとその老人が現れたとき、霧の濃い日の常でそこに集まっていた大人たちは皆、まるで幽霊でも見たような顔をしたのだという。
それも無理はない。
濃い霧がかかり始めてから村にやって来た人間など、今まで誰一人としていなかったのだから。
老人は濡れた白髪をかき上げるようにして後ろに撫でつけると、くたびれた濃紺色のローブをひと叩きして、
「霧のせいで、すっかり濡れてしまいました」
と言った。
それから、男たちの視線に気付いていないのか、それとも気付きながら意に介してもいないのか、穏やかな口調でカウンターに声を掛けた。
「ご主人、何か拭くものをもらえますかな」
「それで、その人はどうしたの」
家に帰ってきてカテナにその話をしたキクリおじさんは、思い出すように、ええと、と言った。
もともとあまり話のうまい人ではない。
このおじさんにかかると、どんな面白い話でも退屈で起伏のないだらだらとした話に変わってしまう。
それでも、今日のカテナはおじさんの話を決して退屈とは思わなかった(聞きたいのはそこじゃない、と焦れったい思いは何度もしたが)。
老人には、とりあえず広場の西の坂を上ったところにある空き家をあてがったのだという。
それを聞いて、カテナの胸はちくりと痛んだ。
そこは、かつてカリーンの住んでいた家だ。
「そうだ、カテナ。明日まだ霧が濃くならないようなら、あのじいさんを畑に案内してくれないか」
キクリおじさんは言った。
「もうすっかりよぼよぼのじいさんだが、畑仕事くらいはしてもらわないといけないからなあ」
「うん、分かった」
カテナは素直に頷く。
この村に人が訪れるのは、久しぶりだ。
普通の旅人は、決してこの村には来ない。
この村はどこにも通じていないから、旅人が通りかかることなどないのだ。
「年寄りだから、受け入れるのには大して時間もかからんと思う」
キクリおじさんはまるで独り言のように言った。
何を受け入れるのか。カテナもそんなことはいちいち聞き返しはしなかった。
そんなことは決まっているからだ。
この村の人間になること。
「ここに来てしまったからには、二度と出ることはできないんだからなあ」
キクリおじさんは、あくまでのんびりとした口調でそう言った。
「さっさと村の一員になってもらわないと」
広場から伸びる西側の細い坂を、カテナは上っていく。
カリーンが住んでいた頃は、よくこの道を通って彼女に会いに行ったものだ。
けれど、あの家が空き家になって二年が経つ。歩く人もいなくなった道はすっかり雑草に覆われていた。
作物はなかなか育たないというのに、霧の中でも雑草はよく伸びる。
カテナは、わざと乱暴に草を踏みしだいて歩いた。
人が歩くから道になる。誰も歩かなければ、ただの茂みに戻ってしまう。
老人が空き家に住み始めたということは、ここはまた人の通る道に戻るのだろうか。
おそらく老人とその案内をした村人が歩いたからだろう、ところどころで背の高い雑草の茎が踏み折られていた。
やがて、霧の先に西の空き家の高い屋根が見えた。
その軒先に老人がいた。
家の中から椅子を引っ張り出してきて、それに沈み込むように座って霧をじっと眺めている。
白い髪と、白い髭。
深い皺の刻まれた顔。
どこからどう見ても年寄りだというのに、この老人は何か妙に不穏な雰囲気をまとっていた。
こちらを見ているわけでもないのに、じっと観察されているようで落ち着かない気持ちにさせられる。
それが、老人の眼光のせいであることにカテナは気付いた。
時折、村の空に飛来する大きく強い猛禽たち。
霧を見つめる老人の目は、村を覆う霧の遥か上を飛ぶ、あの鳥たちの持つ目によく似ていた。
「おや」
坂を上ってくるカテナに気付くと、老人は目を細めた。そうすると、鋭かった眼光は嘘のように消えた。
「こんにちは、お嬢さん」
老人は微笑んだ。
「儂にご用かな」
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