第8話 老魔法使いの実力
「うわっ」
エッジが転がるように飛び退く。せっかく掘り出した大きな死霊石は、たちまち床に広がった粘性の何かに絡めとられた。
壁からはなおもどろどろとした何かが噴き出してくる。
「やばいぞ!」
異常事態にウグレが悲鳴を上げる。
「何だよ、これ」
壁だけではなかった。床の石畳の間から、天井のわずかな亀裂から、あらゆる場所からどろどろと液体のようなものが溢れ出してくる。
「何かの罠が作動したのか」
アトスは鑿と木槌を放り出し、剣を抜いた。
液体は、まるで意志あるもののようにいっぺんにずるりと動いた。
意外なほどの素早さで一か所に固まると、そのまま何かの形を作っていく。
それは、巨大な魔獣だった。
長身のアトスを優に超えるその魔獣は、ハイエナと牛を掛け合わせたような奇妙な姿だった。頭をもたげると粘性の強い液体が床にだらりと糸を引いた。
「な、何だこいつ」
エッジが呻く。
「見たことねえぞ。魔物なのか」
「ああ、やっと思い出した」
ヘルートが言った。
「こいつは、モルディアルマだ」
「モルディアルマ?」
イエマが壁際に後ずさる。
「魔物、なの?」
「そうか、聞いたことがあるぞ」
そう声をあげたのはアトスだった。
「“形なき”モルディアルマ。粘液のようなその身体はどんな形にも変われ、どんな狭い隙間にも入れると」
「その通り」
ヘルートが頷く。
「これは罠ではありませんな。こいつはこのダンジョンをうろつく魔物でしょう」
粘液でできたモルディアルマの身体は、石だろうと土だろうと、滲み込むようにして通り抜けてしまう。
だから、入れるはずのない隠し扉の奥の通路にも、その痕跡があったのだ。
「じゃあ、こいつはこのダンジョンの壁の中や床の下をずっと這いまわってたってこと?」
イエマの声が震えた。
「気持ち悪い」
「気を付けろ。今までの魔物とはレベルが違うぞ」
アトスの言葉は正しかった。モルディアルマは普通、星三つ程度のレベルのダンジョンに現れる類いの魔物ではない。
今まで“燃える魂”が対峙したことのない強敵だった。
「イエマは壁際まで下がれ。ウグレ、援護を」
指示を出すアトスの声も震えていた。
だが、そんな状況にあってもやはりヘルートは冷静だった。
「身体の中に、こいつの本体である核がありますぞ。見えますかな」
そう言って、魔獣の身体の奥を指差す。確かに、目を凝らすと小さな赤い内臓のようなものが見えた。
「あれを斬ればいいということか」
そう言ってはみたものの、それが極めて難しいことはアトスにも分かった。
核は透明な粘液性の身体の奥深くに埋もれてしまっている。
まずはこの身体を切り裂いて核を露出させなければ。
アトスとエッジは目配せし合い、同時に魔獣に飛びかかった。
斬るというよりも、かき分けるかのように、魔獣の身体を抉っていく。
だが、モルディアルマが激しく身体をよじって飛ばす粘液は溶解の力こそないものの、アトスやエッジの剣にべっとりとまとわりついて、たちまちその切れ味を鈍らせた。
「くそ、水飴を作ってるわけじゃないんだぞ」
アトスが呻く。
「埒が明かない。ヘルートさん、武器強化の魔法を!」
「はいよ」
ヘルートが白いひげをもごもごと動かして呪文を唱える。
「早く!」
魔法の発動が遅い。オリビアであれば、もうエッジとまとめて二人分の武器強化を終えているはずだ。
ようやくヘルートの魔法が飛び、アトスの剣が鈍く輝く。
「おい、ヘルートさん! 俺もだよ!」
エッジが悲鳴のような声を上げる。
「別々じゃなくて、同時にかけてくれよ!」
「できません」
ヘルートは慌てるでもなくそう言うと、また呪文を唱え始めた。
モルディアルマの攻撃を紙一重でかわしたエッジが、苛立ったように叫ぶ。
「なんでだよ」
ようやくエッジの剣にも魔法の輝きが宿ったときには、アトスの剣が再び粘液に覆われてしまっていた。
しかも、切っても切ってもモルディアルマには一向にダメージを与えたようには見えなかった。切った傍から、次から次へと粘液が覆いかぶさってくるからだ。
そして、定型を持たないモルディアルマの攻撃は変幻自在だった。
粘液を飛ばしつつ腕や足を自由に伸ばし、縮め、ときには新たに生やしたり、増やしたり裂いたりして、四方八方から冒険者を襲う。
しかもその一撃一撃は石畳を砕くほどに強力だった。
この奔放な攻撃が始まると、前衛で魔物と対峙していたアトスとエッジはたちまち防御一辺倒に追いこまれ、まずエッジが、続いてアトスが負傷して後方に退き、イエマの治療を受けることになった。
代わりに魔物の前に出たウグレは、さすがに盗賊だけあって真正面から挑む愚は侵さなかった。
道具袋から取り出した小袋の口を歯で噛みちぎってモルディアルマに投げつけると、大きな炎が上がる。
それは一瞬派手に燃え上がるだけの威嚇用の炎だったが、モルディアルマはわずかに身をよじるような動きをした。
「炎が効きそうだ!」
ウグレは、アトスの剣に強化の魔法をかけ直していたヘルートを振り向く。
「じいさん、火の玉だ!」
その一瞬の隙をついて、床を這うように触手のような腕がウグレに伸びた。
「うぐっ」
「ウグレ!」
イエマの悲鳴。胸をしたたかに打たれて地面に転がったウグレは、口から血を滴らせながらも叫ぶ。
「俺のことはいい。じいさん、やれえ!」
「火、ですな」
老魔法使いが、つ、と魔物の前に進み出る。触手が左右から同時にその身体を襲った。
「おじいちゃん、危ない!」
だがどういう偶然か、ヘルートが身体を捻りながらさらに半歩踏み込むと、モルディアルマの触手はその身体をかすめて空を切った。
「ええいっ」
ヘルートの気合とともに、その手から火球が放たれた。
手のひらよりやや小さいくらいのその火球はへろへろと飛び、魔物の身体に当たると、じゅう、という音とともに白い煙を上げた。
モルディアルマは液状の身体を一度波打たせたが、それだけだった。さっきウグレの投げた火炎袋のほうがまだマシなくらいの、ささやかな反応だった。
「じいさん、ふざけなくていいんだよ!」
ウグレが怒鳴る。
「本気見せろ!」
「本気も本気」
ヘルートは答えた。
「儂にしてはなかなかにスムーズな発動だったんですがね」
「ヘルートさん。あなた、まさか」
治療を終えたアトスが、青ざめた顔をヘルートに向ける。
「まさかとは思いますが、もしかして、魔法が全然使えないのですか」
「ご覧の通り、火球とか明かりの魔法とか、まあ初歩の魔法なら一応は一通り使えるのだが」
ヘルートは落ち着いた口調で当然のように言った。
「だめかね?」
だめも何も。
アトスたち四人はそのとき、同時に悟っていた。
ヘルートの契約金の破格の安さの意味を。
言われてみれば、ここに来るまでにヘルートが見せた魔法といえば、初歩中の初歩の明かりの魔法だけだった。その年齢と落ち着いた振る舞いから、勝手に相当高位の魔法使いだと考えていたが。
とんでもない食わせものじゃないか。
アトスは呆然とした。
初歩の魔法だけだって? こんな高齢だというのに、魔法使いとしては駆け出しもいいところだ。
よりによってこんな危険なダンジョンの深いところに、連れてきてはいけない人間を連れてきてしまった。
期待を裏切られた四人を、言葉にできない絶望が包む。
「くそ、ふざけんなよ。役立たずのじじいが」
血を吐いて身体を起こしたウグレに、イエマが駆け寄る。
「治療するわ」
だが、イエマも続けざまに神聖魔法を使いすぎたせいで、すでにその顔が青ざめていた。
「じじい、こんなことならやっぱりお前なんか連れてくるんじゃなかったぜ」
「やめろ、ウグレ」
アトスが剣を構えて前に出た。
「今そんなことを言っても仕方がない。エッジ、行くぞ。とにかく核だ。粘液をかき分けて、核を斬るんだ」
「おう。やってやる」
エッジの返事は勇ましかったが、粘液の層は分厚く、核はあまりに遠かった。
必死に振り回す二人の剣は、もはや粘液に絡まれて白い繭か何かのようにすら見えた。
「ちくしょう」
ウグレが喚く。
「こんなところで、何も掴めずに死ぬのかよ」
そのときだった。
「この魔物、儂が引き受けましょう」
そう言って、ヘルートがすたすたと前に進み出た。
「最初に言いましたな。足手まといになるようなら、捨てていってくれと」
その手には、先ほど誰かが掘り出した青い死霊石があった。
ヘルートはまるで虫でも誘うかのように、頭上に掲げたそれをゆっくりと回した。
エッジやアトスを狙っていたモルディアルマの触手が動きを止め、ヘルートの方を向く。
「こいつがここにいたのも、偶然ではない。きっとこいつは、これが好きなんでしょうな」
そう言いながら、ヘルートは魔物を誘うようにゆっくりと後ずさる。
おびき出されるように前に出たモルディアルマの背後の壁に、かつて魔獣が開けた穴が見えた。
「儂が引きつけます。さあ今のうちに、あの穴から脱出を」
ヘルートは言った。
「この老いぼれのことは、気にせず」
「だめよ、おじいちゃ……」
イエマの言葉よりも早く立ち上がったのは、ウグレだった。
「だああっ!」
まだ治療の途中だったが、それに構わずモルディアルマ目がけて小袋を投げつける。
ぱっと立ち上った炎に、粘液の魔獣は嫌そうに身をよじった。
「ふざけんな、じじい」
ウグレが叫んだ。
「置いていけだと? 舐めるんじゃねえぞ」
その目に怒りの炎が燃えていた。
「いいか、あんなもんは言葉の綾だ。本気で俺たちがじじい一人見捨てて逃げるような腰抜けパーティだと思ったか」
ウグレは自らも死霊石を拾い上げると、頭上でぐるぐると回してみせた。
「バカにするんじゃねえ。おら、こっちだ。化け物、こっちに来い!」
「その通りだ」
アトスが言った。
「俺たち“燃える魂”は、決して仲間を見捨てたりはしない。覚悟を問うこととそれを本当に実行することとは全く違う。全力を尽くそう。ヘルートさん、あなたはもう一度俺に武器強化の魔法を」
「そうだよ、つまんねえこと言ってねえで早く俺の剣に魔法をかけてくれ」
エッジがどろどろになった剣を振り上げる。
「こうなったのも、もとはといえば俺のせいだ。意地でもこいつの核をぶっ潰してやるから。ほら、早く」
「ウグレはあと少し治療よ」
イエマがウグレの肩を引き寄せる。
「ウグレもおじいちゃんも、危ないからそんな石は捨てて」
ヘルートはこの冒険で初めて、意表を突かれたような顔をして若い四人を見た。
それから苦笑交じりに小さく首を振る。
「こりゃあ、失礼なことを言ったようだ」
そう呟くと、自分の右腕に左手をかざす。
「まったく、この歳になっても教えられることばかりだ」
老魔法使いの右腕に、光が宿った。
「敢えて人にお見せするものでもないと思ったが」
それは、筋力強化の魔法。
「じいさん、余計なことしてねえで、さっさとアトスたちの剣を強化しろ!」
ウグレが叫ぶ。
「あんたの枯れ木みてえな腕を強化してどうすんだよ!」
「いや、ウグレさん。これでいいんですよ」
老人はローブの袖から布に包まれたこぶし大の氷の塊を取り出した。
「あ、それは」
イエマが目を見張る。
老人が助走でもするような軽い足取りで前に出た。
同時に腕を大きく振り上げ、その身体を後ろに捻る。
「おじいちゃん、まさか」
ヘルートが大きく足を踏み出した。ぎゅるっ、と石畳が鈍い音を立てる。
「それ、投げるの!?」
足から腰へ。
腰から肩へ。
そして肩から腕へ。
力が増幅しながら伝わっていく。
「ふんっ!」
老人が腕を振り抜いた。
全身の力が余すところなく乗せられた、目の覚めるような剛速球だった。
決して砕けることのない氷の塊は、魔獣の分厚い粘液の層を弾き飛ばしてその奥の小さな核を叩き潰した。
もぎゅ、という奇妙な声を発した、その一瞬後。
モルディアルマは粘液を全て床にぼたぼたと垂らし、活動を停止した。
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