第9話
「待たせてたらごめんね」
息を切らしたまま、約束通りニ階の出入口前、外のベンチに腰かけていた夏恋に声をかける。
「二十分ぐらいしっかり待ったから、お昼ごはん冬真くん多めに払ってね」
頷くしかなかった。反論するほど酸素がない。
横に腰かけると、有名なカフェチェーンの紙コップが手渡された。
「アイスコーヒーだよ。この前、冬真くんの机に洗ったコーヒーの缶が置いてあったから、コーヒー好きなのかなと思ってさ。ちなみに私のはカフェラテ。冬真くんが似合いそうな洋服と早めに出会ったから、時間余っちゃったんだよね」
「ありがとう。ちょうどカフェイン欲してたところなんだよ。色々考えすぎて、なんだか眠くなってきたから」
ミルクを遠慮し、ガムシロップを溶かす。口に運ぶとコーヒーの芳醇な香りが広がった。苦味がこれまでにないぐらい爽やかに抜けて、スッキリとした後味が広がる。
一息ついて呼吸を整えていると、夏恋も自分のカップに口をつけて一息ついた。
夏恋越しに青空を仰ぐ。青に溶け込む彼女の顔はどこまでも美しかった。澄んだ水色に心が洗われる。どうせまた汚してしまうのだろうけど。
「じゃあ、私から紹介するね」
「うん、お願い」
夏恋は質感のよさそうな紙袋を取り出した。
「じゃん、冬真くんにあげるのはデニムジャケットです。こういう服持ってたりする?」
広げられたデニムジャケットは、かなり落ち着いた空気感でカジュアルすぎない感触を受ける。デニムというよりはジャケットという後者の意味が強い上、無地なのでかなり大人な雰囲気だ。 色は黒色と藍色が混ざったような色味で、直感的にはかなり好きだ。
「いや、持ってない。そもそも服をあんまり持ってないんだよね。私服で出かける機会が少ないから。今日の服もすぐに決まるぐらいには服がない」
「じゃあ、まず一個目のハードルはクリアできたみたいだね。もし、同じような服持ってたら最悪私が着てもいいなと思ってたんだけど、そうならなくてよかった。じゃあ、早速着てみてよ」
手渡されたデニムジャケットを今着ている白いシャツの上から羽織ってみると、自分の姿を確認せずともしっくりくる感覚があった。丈は少し長いかもしれないけど、自分の身の丈を出ている気が一切しない。この服は自分で着るという範疇にあるような気がする。
似合うという表現は、こうした適合感を意味しているのだろう。
喜びと安堵を混ぜたまま、僕を見上げていた夏恋に向かって言う。
「ありがとう。自分が微妙だと思ってしまったら、どんな展開にしようかって心配してたけど、ものすごく好みだって心から言える。素直に気に入ったよ」
「よかった。冬真くんって、今日着てるシャツみたいなフォーマル目な服装がすごい似合うなと思ってさ、シャツに羽織れるようなデニムジャケットは絶対に似合うんだろうなって感じてた。他にも落ち着いた色のスエットパーカーとかトレーナーは合うと思う。持ってたら合わせてみてね」
他意を挟めない言葉にひねくれてない喜びが芽生える。
容姿に関してポジティブなことを言われた以上に、夏恋が自分のことを見て、考え、選択したという事実がものすごく嬉しい。相手の意図を感じるのってこんなに嬉しいんだ。
自然と悦に入り浸ったとき、理性が喜びを意識下に引きずり出した。そうだ。喜んじゃいけないだろ。新しい喜びは新しい苦しみなんだから。また落ちるぞ。
「高かったでしょ。予算オーバーだったら代金出すよ」
「春物終わりでセールしてたから予算内だったよ。心配してくれてどうもありがとう」
喜びをどうにか脳内の廃棄処分場に押し込めると、夏恋は嬉しそうな顔をした。意図的に生み出した矛盾に心が軋む。
「大切にする。どうもありがとう」
デニムジャケットをゆっくりと脱ごうとすると、夏恋が重ねたつま先に向かって伸びをした。
そして、地面を見つめながら他人事みたいに言う。
「冬真くんに大切な人ができたらすぐに処分していいよ。お願いだから私のことなんかすぐに忘れて。これは私の自己満足だから」
「ちょっと待って、急にどうしたの。僕が伝えてる感想に嘘は一つもない。全部正直に伝えてる。決して社交辞令なんかじゃないよ」
夏恋の寂しげな横顔に、焦燥が理性の防御線を超えて前線に飛び出してきた。
「分かってる。ただ思ったことを言ってみただけだから、特別な意味はないよ」
なにか言いたかったし、行動に移したかったけど、触れられなかった。
手は届きそうなのに、心が夏恋の元まで届かない。求めたら遠くなって見えなかった。
逃げることを正当化するために、自分に頷きを求めてジャケットを丁重に紙袋に仕舞う。
夏恋の様子をうかがうと、柔らかに僕を見つめていた。夏恋は僕になにを感じているのだろうか。思考のスイッチをガチャガチャ押しても灯りがつかない。
思考放棄をした僕は、小さい紙袋を差し出した。
服が入らないサイズだということだけは容易に分かる。
「薄々勘づいていたけど、服じゃないよね? 」
「そうだよ、ごめん。服は流石に選べなかった。代替物を用意したつもりだから許して」
「もちろん許すよ。私こそごめんね。ちょっと無茶振りしすぎたなと思って反省してる。同じ感想ばっか言われてイライラしちゃってたかも」
夏恋の言葉に安心しつつ、後半の部分に理不尽を感じて同時にやるせなくもなる。
「怒りに火をつけたの僕だし、油注いだのも僕だから、夏恋は悪くない。今度からは薄っぺらい言葉を軽く吐けるように練習重ねておくよ」
「とんでもない皮肉言われてる気がするんだけど、気のせいかな」
「解釈の仕方によると思うな」
「冬真くんって、人にいじわるして楽しむタイプなんだね。友達いない理由が今分かったよ」
「とんでもない皮肉言われてる気がするんだけど、気のせいかな」
夏恋が満足そうな顔して、おしゃれな紙袋からおしゃれな紙箱を取り出した。夏恋は髪を耳にかけて紙箱を見つめる。
「オードトワレ、限定サマージャスミンの香りって、もしかしてこれ香水? 」
「正解。香水なら相手のこと考えて選んだ感じがすごく強いから、きっと満足してくれるだろうなと思って。服だと被りとかサイズ間違いが怖いし、香水なら比較的リスク少ないかなと」
リスク少ないと言ったものの、比較対象は服だ。天秤そのものが間違えている。
「ちょうど今使ってる香水に飽きてきたところだったんだよね。つけてみていい? 」
夏恋は、香水本体に巻き付くフィルムを剥いで、シャツの袖を巻き込んだまま手首に吹き付けた。わざと切り傷を隠そうとしているような様子はなかったので、手首を露出しないのが日常的な癖になっているのかもしれない。
ジャスミンの花の香りに柑橘系の香りが混ざって、爽快ながらどこか寂しげな香りが広がる。自分調べ一番いい香りだった。
「いい香りなんだけど、どうやら持続力弱めみたいで、一日のうちに何回かつけ直さなきゃいけないかも」
「つけ直すの面倒じゃないから問題ないよ。もしかしてだけどさ、私の名前意識してこの香水選んでくれたの? 」
「そうだよって言えたらロマンチックかもしれないけど、完全に偶然の産物。とにかく時間なくて、ひたすらテスター嗅いで自分が一番いい香りだと思ったのを手に取ったらたまたま商品名がサマージャスミンだっただけ」
正直、商品名を確認したときには違うのにしようかと思ったけど、時間がなさ過ぎた。時間の猶予を電話で懇願すればよかった。
「嘘ついてもいいのに。格好つけるチャンスだったよ」
「自分を大きく見せるような嘘つく嫌なんだよね。あと、どう考えても名前にかけて香水あげるの中々気持ち悪いでしょ」
「褒めてるつもりなのに冬真くんは素直じゃないな。私の急なわがままに付き合ってくれてありがとね。ずっと大切にする」
姉が壊れてからずっと姿を消していたものが、今出現した。
鬱陶しいので息ができないぐらい圧迫して壊す。壊れろ、消えろ、どっか行け。
頼むから僕を喜ばせるな。幸せをよこすな。
お願いだからどうか今のまま生かしてくれよ。早く消え失せろ。
「ねぇ、大丈夫、冬真くん。すごい形相になってるけど、具合悪い? 」
「ごめん。大丈夫。ちょっと考え事してただけ。お腹すいたから早くご飯食べよう」
「確かにもういい時間だね。私もお腹すいたな。どこにしよっか」
どっか、行け。残るな。感じるな。思うな。考えるな。壊れろ、消してくれ。
頬が朱くなっているように見える夏恋を視界から排除する。
お腹は減っているのに、胃酸が逆流して吐きそうだ。僕は多分どうかしている。
夏恋の顔に僕の罪が映った。
香水を選んでいるときに、お腹を空かせた洋食レストランで昼食を摂ることにした。
僕はハンバーグとライスを注文し、夏恋はオムライスを頼んだ。
料理を待っている間、夏恋は香水の箱を至極大切そうに見つめて、丁重に扱っていた。
ぼんやりと店内の様子を眺めていると、夏恋が僕の視野に入ってきて視界を強奪した。
「冬真くんが不眠症になった理由聞かせてよ。私、冬真くんにものすごく興味あるんだ」
真剣に見つめられて、防御の体勢がふっと緩む。
「悪いけど、あんまり話したくないんだ。気乗りしない」
「冬真くんから聞いたことは誰にも言わない。それに、冬真くんが正直に話してくれるんだったら私のことも教えてあげる。興味あるんでしょ」
「嘘だね。僕の話だけ引き出したら、自分のことは話さない算段だ。もう、同じ手は食わない」
「心外だな。服買ってきてくれたら私のこと話すってちゃんと宣言したじゃん。私は正直に話すつもりだったのにさ。最初から私のこと信じてなかったんだね」
「いや、だって。どうせ、服買ってきてないから話さないって言うんじゃな……」
夏恋に心底悲しそうな目を向けられて心が縮む。これ、もう無理だ。
反論を試みたところで向こうがずっと上手なんだから、ただ傷を負うだけになる。傷は浅い内に撤退したほうがいい。
お冷を口に含んで、傷だらけの思い出を掘り起す。
忘れることで縫合しようとしている糸を解くと、凝固していない血が流れてきた。どうやらまだ痛いようだ。
話している間、夏恋は頷きながら自分事のように聞いてくれていた。
おかげであまり不快な感情は出てこなかった。むしろ嬉しいぐらいだった。
こんなに近くで寄り添ってくれる人いるんだ。今までは拒絶されるか、温度の違う綺麗事言われるかの二択だった。
ずっと一人だと思っていた。
一通り話し終わったところで、料理が運ばれてきた。
ぼんやりと広がる沈黙を打ち破ってくれるいいタイミングだった。
湯気立つハンバーグによだれが出てくる。朝からこんな積極的に行動したのは久しぶりだった。全身が疲れ果てている。
「いただきます」
手を合わせると、夏恋も同じように手を合わせた。
美味しいと言いあった後、夏恋が一旦食べる手を止めた。真剣な顔して僕を見つめる。
「冬真くん頑張り過ぎだよ。上から目線になっちゃうけど、偉いと思った」
「違う。頑張り過ぎなのは姉さんだ。僕はなにもできなかったんだ。本当になにも。無力な存在だ。救いようのないちっぽけな人間なんだよ」
「ううん。絶対そんなことない。もう既に私は冬真くんに救われてるよ。なにもできない無力な存在じゃない」
夏恋は力強く横に首を振った。あまり心に響くことなく、否定の言葉が口をつく。
「家族の助けにすらなれないのに、誰かの救世主になれるはずがない。僕はヒーローを斜めに見るような傍観者でしかないんだ。褒めてもらえるような価値ある人間じゃない」
「私さ、冬真くんがいなかったら今ここにいないと思うんだよね」
「どういうこと? 」
「あの橋で出会った日、本当に死のうと思ってた。死んだほうが楽だって自分に言い聞かせて、生まれ変わりたいって考えてさ。あと手を離すだけってところに冬真くんが現れたんだよ」
「やっぱり、自殺しようとしてたんだ。なにがあったの? 」
ありのまま受け止めると、いつもの超越的な表情を剥いだ夏恋がいた。
「食べながらでいいから私の話聞いてくれないかな」
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