第2話
「お母さんは私が悪いって言うの」
先程から料理の並んだ食卓で語気荒く口論しているのは姉の
「悪いなんて言ってないわよ。私はなにか挑戦してみたらどうかって言ってるだけ。このままの状態じゃ嫌でしょ」
「もちろん嫌だよ。でも、頑張りたくても頑張れないんだよ。そんなことも知らないくせに、勝手なこと言わないでよ」
「私は奈月のことが心配だから言ってるの。お母さんの気持ちも少しは考えてちょうだい」
こうしたシチュエーションでは、僕の気持ちは一切考慮されない。僕の存在自体が抹消された空間になる。母が作った料理たちの気持ちも考慮されないので、僕は野菜炒めの豚肉と心を通わせている。ごめんな温かいうちに食べられなくて。
「お母さんには感謝してるよ。でも、私がどうしてこうなったのか納得できないの」
「辛い状況にしてしまったのは申し訳なかったと思ってるよ。でも、私は私なりに最善の選択をしているつもり。だから、奈月も自分ができる限りのことをしようよ。いつまでもそうして苦しいって言うだけじゃ、なにも変わらないよ」
「じゃあ、産まなければよかったじゃん。小さい頃から弱い体でさ、ずっと友達と遊べなくて、しまいには精神的に弱って、存在する理由も価値もない最低の人間になっちゃってさ。産んだなら責任取ってよ」
姉の言葉が一層強く、痛烈な角度を有して食卓に響く。
仲裁に入るのを諦めて、自分の世界に籠もる準備を始める。なにも見るな。なにも聞くな。暗闇に逃げればなにも見えなくなる。
「責任ってなんの責任を取ればいいのよ。お母さんはお母さんなりに努力してる。家事も仕事もしてない奈月に言えることなんかないじゃない」
「家族のせいで人生を壊した娘に対して、理屈を並べる親に生まれて本当に最高。他の家に産まれたら、こんなことにならなかったのに」
姉の顔がすっかり紅潮していた。もう、姉に自分をコントロールする術はない。豚肉よ、先に謝っておく。ごめん、なにもできなくて。どうにかしたいとは思ってるんだけどさ。
「奈月、今の言葉はだめよ。取り消しなさい」
母が強い口調で主張を跳ね返すと、姉は口を閉じた。
そうして、気まずい沈黙が流れた後、姉は見るからに強烈な力で唇を噛んだ。そして、怒りのままに目の前にあった夕飯をダイニングテーブルの外にぶちまけた。味噌汁がフローリングの床に染み渡り、米の入ったお椀が割れてガラスが散った。野菜炒めの具にガラスが仲間入りする。
今日はここ最近で最悪だ。
姉は、怒りと理性が正面衝突した顔をしていた。怒りが優勢だったらしく、ダイニングから廊下に繋がる扉を乱暴に閉めていった。絶望の音が静かに爆散する。
母はこめかみに指を当てて座っていた。こちらは悲しみが優勢のようだった。
僕は、自分の感情を眠りから起こさないようにゆっくりと席を立って、洗面所から雑巾二枚とほうき、ちりとりを持ってきた。
「片付けるよ。後は任せて」
優しい口調につとめると、母はただ一言「ごめん」と呟いて自分の寝室に向かった。
割れたガラスと、姉の激情に負けた夕飯を掃きながら過去をたどる。思い出は血だらけのままだ。未だに止まらない。忘れたくても、忘れられない。今も続く傷だからだ。
まず、そもそも伊東家は四人家族だ。そもそもは。
父親はメーカー企業に勤めるサラリーマンで、企画開発部署に所属していた。
父と母は、昔流行ったというお見合いでの結婚だったそうだ。
姉の奈月は、弟である僕の三つ年上で、今年二十歳になる。
姉は呼吸器系の働きが生まれつき弱く、幼い頃は入退院を繰り返していた。
小学生ぐらいになると、器官の発達が認められ、足繁く病院に通うことは少なくなった。
それでも、時折咳が止まらなくなってしまうことがあった。処方された薬で治まらないことが多く、昼夜問わず対応が必要になった。
朝から仕事なのにも関わらず、夜通しで姉に寄り添っていた親の姿を幼いながらによく覚えている。
姉を献身的に支えていた両親であったため、弟の僕は、親と遊び出かけた記憶があまりない。記憶を掘り起こすたび、いつも苦慮している両親の表情が浮かぶ。
こんな状況では、姉と僕の関係がこじれたのではないかと感じるかもしれない。
でも、断じてそんなことはなかった。
姉は賢く、テストでいい点を取って両親から褒められている姿は憧れの的だった。
僕と違って、友達が多くて好かれているようだったし、肺活量を上げるんだ、なんて調子で所属した中学の吹奏楽部では部長を務めて大会に挑戦していた。芳しい結果を残せずに悔しがっていた姿は、家族ながら本当に格好良かった。
努力の成果か、姉が高校に入学する頃には、咳が止まらず苦しむ姿は一切見られなくなった。
姉は努力の人だった。自分で自分を克服したのだった。
そんな娘の姿に胸を打たれた家族は、姉を中心に未来永劫円満に生活していくはずだった。
変化が起こったのは約二年前の春。
当時、姉の奈月が新高三年生で、僕が新中学三年生だった。
忘れもしない二年前の四月初旬。父が人事異動で部長に昇格した。
四十代中盤での部長就任は、世間一般的には少し若いそうだ。
最近では珍しくないんだと謙虚に振る舞いながらも、ビールを嬉しそうに飲む姿が目に焼き付いて離れない。母や姉も、父を祝福していた。給料も上がるから、正月にはどこか旅行に行こうかなんて明るい未来を描いていた。
初夏になると、厚い雲が伊東家にかかり始めた。
当時、全国的に酷い豪雨が発生して、災害級の大雨が頻発した。
精神的に参ってしまう人も多く、日本全体に厚い雲がかかった時期だった。
この頃、父は飲酒量が明らかに増えていた。そのせいか、家族に暴言を吐いたり、物を投げつけるといった行為がたびたび起こった。
父のことを心配に思った母は、精神科の受診や会社の人事部への相談を提案した。父が提案を突っぱねると、休職してもいいと伝え、家族として最大限寄り添う覚悟を示した。
それでも、父は全く取り合わなかった。
慣れれば大丈夫だから、辛いのは今だけだから、周りに迷惑をかけたくないんだ。
こういった言葉が父の口癖だった。
このとき、姉は高校でも所属していた吹奏楽部を早々に引退し、薬学部への入学を目指して受験勉強を本格化させていた。
小さい頃から自分の身体に悩まされていた姉は、自分のように入退院を繰り返す人が減るよう、効果が長く持続する呼吸器の薬を作りたいと夢見ていた。塾に毎晩遅くまで通い、心血を勉強に注いでいた。弟ながら合格することを願わずにはいられなかった。
姉は努力の人だった。
受験生だった僕も姉にならい、部屋に籠もって勉強するようになった。家庭に冷たくピリッとした空気が流れていることを感じていた。
今考えると、閉じ籠もったのは間違いだったと思う。
それぞれの痛みをきちんと共有できればよかった。
決定的な事件が起こったのは、極めて穏やかに晴れた秋の日だった。
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