第一部 青春

第1話

 なにもかもが満ち足りた世界で、生きる理由がだけが足りない。迫りくる眠気と退屈を全力のあくびで逃がすと、アゴが外れそうになった。

 朗らかな春の日差しが、緩んだ空気と浮ついた心を世間一般に掻き立てる新学期。窓の外から見える桜は、近年の温暖化の影響で四月上旬だというのにもう散り始めた。太陽はそんなに優しくない。


「おい、冬真とうま今年もよろしくな」


 前の席に座る大柄な背中が振り返って、威勢のいい声を発した。


「なんでかえでとまた同じクラスなんだ。黒板見えないんだけど、勘弁してくれよ」


「文句言うなよ。お前黒板なんか見なくても勉強できるくせに」


 わざと大きなため息をつく。


「毎日課題を見せるほうの身にもなってみてよ」


 楓は片方だけ口角を上げてニヤリと笑った。


「お前が俺の背中に隠れて授業中に寝てること、先生にご報告してもいいんだぞ」


 小さく舌打ちをした。完全に弱みを握られている。分が悪い戦いだ。

 楓は、昨年四月、高校入学からの友人だ。

 彼の名字が天野あまので、僕の名字が伊東いとうであることから五十音順に割り振られた席が、今同様に上下の並びだったことが仲良くなるきっかけだった。ただ、互いに共通する趣味や話題はあまりない。単純になんとなく波長が合うのだと思う。


 楓はまだ笑みを崩していなかった。


「それに、冬真が課題を売って金もらってることも報告事案に入れたっていいんだぞ」


「売るって言っても、楓に自販機のジュースをたった一本奢ってもらうだけだ」


 楓は心底不服そうな表情を浮かべた。


「たった一本ってなんだよ。たった一本って」


 追撃の構えを取る。今どうにか押し込めば奮発してもらえるかもしれない。


「楓が告げ口するようであれば、課題を売る相手が楓だってことを赤裸々に話すよ。そうしたら楓だってただじゃおかないだろ。迷うことなく言うね」


 今度は僕がほくそ笑む番だった。楓が舌打ちをする。


「はいはい、分かってますよ。なけなしのお小遣いから自販機代と食堂代出してあげますからね。いい子の冬真くんは大人しく昼休みまで待ちましょうねぇ」


 語尾を伸ばした煽るような喋り方に、勝利を宣言した。




 微糖缶コーヒーの少し甘ったるい味が口の中に広がる。ミルクの甘さがどうしても鼻につく。やっぱり、もっと苦いほうがいい。


 新年度初日の昼休みは、喧騒って言葉がピッタリ合うぐらいの音圧が存在する。 また同じクラスになったね。連絡先を交換しよう。はずれクラスだわ。

 薄い粘土を更に広げてちぎれるぐらいどうでもいい会話が繰り広げられている。

 期待と期待が交差して、相乗効果が生み出され続けている。そんな他人に期待したところでいいことなんかなにもないのに。所詮他人なんだから。


 楓は、校舎の壁に寄りかかって気持ちよさそうにコーラを飲んでいる。

 昼になって太陽の承認欲求が激しくなってきたので、コーヒーじゃなくてコーラぐらいがちょうどよかったかもしれない。


 楓と同じように校舎の壁に寄りかかって横に並ぶ。いつもの食堂裏、いつもの空間だ。


「なぁ冬真、お前クラスメイトの自己紹介ちゃんと聞いてたか」


 苦笑いを返答にしたら、楓に呆れた表情を向けられた。


「お前なぁ、高二といえば青春のど真ん中だろ。少しぐらいは高校生活を充実させる気を持てよ」


「自販機で今してるみたいにだらだらできれば満足だ。不満はないよ。なにかを期待して求めるから不満になるんだ。自分にも周りにも期待しないのが一番いい」


 楓はわけがわからないといった風に両手を上げた。


「冬真クンは夢がないねぇ。夢を持てって小学校ぐらいで先生に言われなかった? 」


「夢を持てっていうのは空想上の絵空事を追いかけ続けなさいってことだろ。そんな現実的じゃないこと、できるはずがないに決まってる」


「今の言葉、青春だアオハルだって叫んでる奴が聞いたら間違いなく怒るぞ」


 居心地の悪い最後の甘ったるさを飲み干して、中身のない缶の底を見つめる。


「青春ってなんだよ。色恋沙汰をしたり、友達と放課後カラオケに行って楽しい時間を過ごすふりをしたり、部活に一生懸命取り組むのが青春なのか。だとしたらそんな馬鹿な話ないだろ」


 楓は感情なく「まぁな」と言って語を継いだ。


「みんながみんな、同じようなことできるわけじゃないもんな。色んな事情がある」


「だろ。やりたいことが見つからないなんて当たり前だし、課題に追われすぎてなにもできない人がいれば、親とか友達とうまくいかない人もいる。テレビやアニメのようにはならないのが現実だ」


 楓は時々コーラを口につけて相槌を打っていた。

 コーヒーを飲み干して暇になった僕は、手持ち無沙汰に空を見た。

 青く広がって朗らかに晴れている青空に、対象なく言葉を放つ。


「青春なんて偶像だよ。姿も形もない」


 数秒の沈黙が広がった。気まずい空気ではなくて、ただ時間を共有するような、弛んだ空気だった。

 楓は、ニコニコしながら飲み終わったペットボトルのラベルを剥がした。そして、嘲笑するかのような笑みをこちらに向けてくる。


「先生、急患です。病名は青春コンプレックス末期です。血圧、脈拍ともに安定していますが、心のほうが腐っています。時間が過ぎることでこじれて悪化する危険性があります。今すぐ処置を」


「青春コンプレックスなんかじゃない。ただ、本当のことを言ってるだけだ」


「先生、患者が急変しました。もうあとは看取るしかありません……」


 楓が残念そうな顔を浮かべた。正気の僕は不快だとも思わなかった。いくら馬鹿にされようが、間違えたことは言っていない。


「青春コンプレックスで死に至る人見たことないって。コーヒーご馳走様。いい演技だったよ」


 洗い場で蛇口をひねる。食堂や自販機で購入した飲み物の容器は、きちんと洗浄しないといけない。

 去年の生徒総会で、当時の生徒会長がルールを厳しくした。総会後、大人たちに感謝されていた姿を目撃したときにはなんだか合点がいった。

 所詮、僕らは大人たちにコントロールされたちっぽけな存在だ。自由も定められている範囲内での自由でしかない。この世界において、未熟な僕らは無力だ。


「少しでも楽しむ心構えを作っておくほうが得なんじゃないか」


 隣でペットボトルを洗い始めた楓が急に真面目な声音で言う。さっきまでの演技っぽいおどけた声は一体どこから出ていたのか。


「心構え以前に、楓は社交性があるから楽しいんだ。僕は人に好かれるような要素をなに一つ持ってないから、楽しむにも楽しめないんだよ。最初から決まってるんだ」


 実際、楓は去年のクラスで人気者だった。理由はよく分からないが、部活に入っていないクセして運動がすごくできるから体育祭で大活躍だったし、背が高く、大人びた容姿で女子からも人気だった。

 なにより、性別や立場について別け隔てなく接する態度がクラス中で愛されていた。話題の守備範囲も広く、僕に関わってくれる明確な理由が今でも分からない。


「せ、先生、心停止です! 」


 また救急部ごっこがはじまりそうだったので、食い気味に言葉を発する。


「分かったって。休み終わるから戻るよ」




 校舎を歩いてるだけで各教室の騒がしさがよく分かる。デシベル数を測ってみたい。冗談抜きで、飛行機に匹敵するぐらいのうるささな気がする。


「自己紹介聞いてないんなら、あの美女についても興味なかったのか? 」


「そんな人いたっけか。朝から眠くてなにも覚えてないな。美女なんて随分な言い草じゃないか。高校生だろ」


「マジかお前」


 呆れに対して驚きが圧勝した感じの顔が目に映る。


「知らないよ。たかが一人のクラスメイトに過ぎないのに、そんなに驚くことなのか」


「驚くことあるんだよ。西の川って書く一般的な西川の名字に、夏に恋って書いて西川夏恋にしかわかれんっていただろ」


 一応、眠すぎて曖昧だった記憶をたどる。朝起きたところから全ての記憶が瓦解していて、まとまった形ではなかった。つまり、なにも覚えていなかった。


「存じ上げないのですが」


 今度は呆れが圧勝した感じの顔が目に映った。


「いいか、西川夏恋と同じクラスになれたのは、奇声をあげるぐらい喜ばしいことなんだぞ。お前朝から寝てたから分かんないと思うけど、凄かったんだぞ、西川の周りにみんな群がって。実際、奇声をあげて初日からクラスメイトに怒られてるれてる奴もいたんだからな」


「全然気づかなかったな。いつもよりうるさくて寝づらいなとは思ってたけど」


 返答して正面に目をやると、違う学年の教室から、男子生徒が背中を向けて勢いよく飛び出してきた。ぶつかりそうになって慌てて避けると、その生徒は廊下の柱に激突した。

 教室の中から爆ぜるような笑い声が聞こえてくる。ああ、心底鬱陶しい。


「透き通るような大きい瞳とぱっちり二重、艶のある鎖骨辺りまでの髪、爆発しそうなぐらいの涙袋に、簡単に折れそうなぐらい華奢な脚。とにかく恋人にって去年の入学時から血で血を洗うような争奪戦が繰り広げられてる」


「争奪戦って失礼な話だな。モノみたいに扱うなよ。奪おうなんて考えてる奴は全員貧血で倒れちゃえばいいんだ。そしたら血がなくなって平和が訪れる」


 思ったことをそのまま口にすると、楓は面白おかしく笑った。楓につられて自分で笑う。


「西川夏恋は、その美しさと可愛さからモデルをやっているんだとか、女優で映画デビューが決まっているんだとか、真偽どうでもよくなるぐらい噂立ってる」


「どこをどう考えても真偽大切だろ。デマが拡散する理由を理解できるね。いい教材だ」


 皮肉への返事がない。冷静に考えて、救急部に送るべきは僕じゃなくて楓だ。


「だから冬真、西川夏恋を恋人にするところまでやらなくていいから、せめて仲良くなれ。学校生活楽しくなるぞ」


「なんでだよ。だいたい美女って言うけどさ、メイクが上手いだけかもしれないし、美容に興味があって垢抜けるのが早かっただけかもしれないだろ。事情はよくわかんないけど、楓の言うことが本当なら、もう既に恋人がいる可能性高いだろうし」


 楓は「はぁ」とため息をついた。一対一のスコアだった、呆れと驚きの戦いは呆れが勝ったようだ。おめでとう呆れ。


「冷淡な現実主義者の冬真クンには言っても分かんなかったか」


 言い捨てられると不服な感情が湧いた。不機嫌そのものを言葉に込める。


「じゃあ楓は、もし西川夏恋を恋人にするチャンスがあったら甘んじて受け入れるのか」


「受け入れるわけないだろ。俺は恋愛なんて興味がないんだ。まっぴらごめんだね」


 楓の否定の言葉には完全な否定が宿っていた。邪念を挟む隙間のない完璧な否定だった。 楓は、たまに全てを拒絶するような目をすることがある。自分と相手に無限が広がっているかのような。急に空白が生まれて距離が遠くなる。

 空間を埋めるために急いで言葉を紡いだ。


「だったらなんで噂話なんてするんだよ」


 楓はさっきの目からおちょくるような笑顔に戻った。


「だって、夏に恋するって名前にかけて、夏休み前に告白して玉砕する諸君を見るの絶対に楽しいじゃん」


「そんなこと考えてたのかよ。というか、そんな失礼で成功しなさそうな告白する人いるんだ。勘違いしたロマンチストって多いんだね」


「俺は目撃してないけど、去年、夏休み前の体育館裏に行列できて、全員絶望した顔して帰ってきたらしいからな。その光景絶対に面白いじゃん」


 自分たちの教室前の廊下に出た。喧騒の止まない昼休みが終わる。


「じゃあ、その光景を撮影して画像大喜利サイトにでもアップロードするか。アクセス数結構稼げそうな気がするな」


「発覚したら間違いなく停学か退学だろうけどな」


「のぞむところ」


 軽口を叩き合って席に戻る。なんの変化もない普段通りの学校生活の流れ。

 新学期だから、なにか特別な変化が欲しいなんて思わない。人生を変えるような出会いは必要ない。ただ、ただ大きな幸せはなくていいから、これ以上の苦しみはいらない。新しい幸せがもたらされると、新しい苦しみも同時にもたらされるのだから。




 昼休みが終わると、今日は、春休みの課題や保護者の記入が必要な書類を提出して帰宅となった。


 話題の西川夏恋についてはまじまじと眺めるチャンスがなかった。というのも、常にクラスメイトに囲まれているし、後方の彼女の席は前から三番目の席からだと、わざわざ振り返る必要がある。楓の話から否応なしに興味を掻き立てられてしまったものの、正直、別に大したことないのだと思う。どうせちっぽけな高校生の話だ。


 また、楓に冷淡な現実主義者だと言われるかもしれない。



 でも、こんな現実があれば、冷淡な現実主義者にもなる。なって当然だ。

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