第16話

「持って帰って、母親と一緒に食え。上等の部分の肉を親方から幾らか分けてもらった。くれてやるのは特別だぞ」

 親方というのは、集落の頭領の事を指している。集落の者は頭領をそう呼ぶ。

「は、はい。ありがとうございます……」

「ちなみにまだ若い狐の肉だ。柔らかくて美味ぇぞ」

腕吉はそう言って笑い、先程とは別の刀を背後から取り出し、ゆっくりと鞘から抜いて手入れし始めた。彼はそれに目を向けて集中し始めて、それ以上何も言わなかった。

 お雪は「それでは失礼します」と言って小さく頭を下げ、妙な心持で改めて帰路に向けて振り返りその場を去った。帰宅中に空の彼方を見つめると雲は淀み、鈍い動きだった。 

 いつか野で、お雪は「狐」を遠くから見た。胴が長く尻尾の毛は立派で、孤独に丘の陵線上を静かに歩いていたその小さな動物。それが犬ではなく狐だと彼女は理解していた。


 帰路では狐婆様は現れなかった。お雪は安堵の息をついて帰宅した。

 母親は土間で石釜戸に向かい調理をしていた。まだ夕食には早かったが、きのこの匂いがしてお雪は楽しみにした。母はたまにお雪が知らない場所からきのこを採ってきた。

「母上。ただいま帰りました」

「おや。お帰り、お雪。お使いどうもありがとう」

母は鍋に木蓋をした。機嫌が良いのか、表情は柔らかい。

だがそれも束の間の事で、母は娘が手で目を覆っている事に気付くと、途端に怒ったように皺を美しい顔の眉間に寄せた。

「ちょっとお雪。どうしたの、お前――顔に傷でもつけたのかい」

「え?あ……いえ、母上、その」

 詰め寄るような母の言い方と形相が怖くて、お雪は下を向いてしまった。そして歯がゆくも「転びました。その時に強く打ってしまって」と再び嘘を言った。

 男達が怖かったか。それとも狐婆様をかばう気持もあったのか。お雪には自分自身の気持と判断基準もよく分からなかった。

「本当に?」と母が娘に顔を近付けて表情を一層凄めた。

「は、はい――」とお雪は言ったが、母の目は明らかに娘の言葉を疑っていた。

「まさか、腕吉の野郎にやられたとか?あのでかい若い男さ。物を届けている家にいる」

「え?い、いや、それは……」

「だとしたら悪かったね。私が悪かったね。今度からはお前に任せないで私が行くから。……あのどうしようもないろくでなし、人の娘に」

「い、いえ、違います!本当に、違います」

 腕吉の名が母の口から出るのは、お雪が記憶する限り初めてだった。言葉から判断すると母は彼を相当嫌っているようだ。普段の母は、露骨にそれを明言してはいなかった。

 娘の口調と態度から「嘘」ではないと判断したのか、母はゆっくりと表情を緩めた。

「だったらよいけど。転んだにしても、随分と派手にやったね?滑ったのかい。気を付けなよ……薬塗っておこうか。手、離してごらん」

 母は着物の懐から何か取り出した。小さな陶器のような入れ物には軟膏の塗り薬が入っていた。母は薬を細長い指ですくって、お雪の左目の周りに広げるように塗った。

「痛っ!」

「染みるかい?」

「いえ……大丈夫です、母上」

「よく効く薬だから、痛みはすぐ取れるはずだよ」

 母の言う通り、刺すような感覚があったのは最初のうちだけで、ずきずきと中で締め付けるように蠢いていた痛みは徐々に引き、少し経つと痛みすっかり消えてしまった。お雪は最早傷を手で押さえなくても平気だった。手で付近を触っても痛みはもう無かった。

 釜戸の中の火が燃え盛り、鍋の中からは小気味よく煮沸する音が聞こえた。

 母は安心したのか、鍋の前に戻ろうとした。その時、お雪は「肉」を腕吉から貰った事を思い出して着物の襟の間に手を入れ、懐にしまっておいた例の物を取り出した。

「母上。お使いの時に、これを貰いました」

「ん?何だいそれは?……腕吉から貰ったのかい」

「狐の肉だと言っておりました。母上と一緒に食べるようにと」

すると母親の目が異常に素早く動いたので、お雪は再び怯えて数歩下がった。

「どれ、見せてごらんよ、お雪」と母は敢えて優しく接するように言った。

 口元は穏やかながら鋭い目付きのまま母は腕を伸ばし、平たい紙包みを手に取り開いた。

 出てきたのは赤黒い何かの切れ端で、干し切っておらず湿っているようだった。

――肉。お雪はそれを家で食べた記憶がないが、動物の体の一部という事は知っていた。

 母はそれに鼻を近付けると再び表情を曇らせ、くんくんと臭いをかいだ。そして目を細めて赤い物体を深く凝視し、包み紙ごと火の中で投げ捨ててしまった。 お雪は思わず呆気に取られた。紙にはすぐに火がつき肉もすぐに変色し、鼻につく臭いがした。

 そして母はお雪を見て、うっすらと笑みを顔に浮かべたのであった。

「あのね、お雪。狐の肉っていうのは美味いものじゃなくて、生臭くて食えないから。あの男、小さな娘をからかって。今度言われたら、いらないとはっきり断りな」

 お雪はさらに呆然とした。肉は黒い煙を僅かに出しながら炉の中で消えて行った。

 夕食はきのこと野菜を煮た汁で、久しぶりに豆腐も入って豪勢だとお雪は思った。豆腐作りはお雪も母を手伝う事があった。最近はそれを手伝った記憶があまり無かったが、母は密かに作っていたのだとお雪は思い、日中の事は忘れ母との食事を楽しんだ。

 その晩、そろそろ寝ようと思いお雪は布団を敷いた。

 母も寝巻に着替えて布団の枕元に座し、髪結いをほどいた。そして長い髪を体の正面に移動させ、丁寧に梳かしながら再び束ね始めた。集落の他の家はどうか分からないが、お雪と母は寝る時に髪をそのようにしていた。

 母は前髪の一部を後方には結わずに額側に細やかに垂らしていた。母の普段の後ろ髪はお雪の髪型と似ていたが、髪を束ねる位置がより高く、よりふんわりとした感じで「尾」を連想させた。お雪は自分よりも母の方が髪に大胆さと豪快さが見られる気がした。

 母の芳香がお雪の鼻元にも漂ってきた。母からは常に落ち着くような良い匂いがする。

寝巻姿の母の胴を見ると実にしなやかそうで、反りの曲線にお雪は思わず見惚れ、その姿形に刺激されてか急に狐の事を聞いてみたくなった。

「母上。狐とは、妖術を使えるものなのですか」

 唐突にそう尋ねた娘に母は顔を向けた。母は髪を木製の櫛で梳かしていた。

「なぜそれを急に聞くの。お雪」

「……いえ、単に聞きたくて。その」

 燭台の上に置かれた蝋燭の火は静かにゆらめいていた。

「術ねえ。そういうのを使える狐もいるのかも。妖狐ってやつさ」

「どのような術を使うのですか?人に憑いたりするのですか」

 お雪が息を呑んで聞くと、突然に母は悪戯っ気に、妖艶な流し目をお雪に向けてきた。

「例えば雄の妖狐は、人間の女をたぶらかして誘惑する術を使うのさ」

 お雪は「え?」と素っ頓狂な声を出し、目をしばたたいた。母は何か嬉しそうだった。

「お前みたいにいい女を見つけると寄ってくるの」

「は、はあ……狐が」

 お雪は、ただ頬を赤らめた。自分が狐のお嫁に入る姿を少し思い浮かべてみたが、全く滑稽な図にしかならなかった。母は横になって右腕の肘を敷布団に突き、体を娘の方に向けた。寝巻の袖は少し捲れて白く美しくも逞しそうな張りの前腕を覗かせており、お雪はまた思わず見惚れた。

 そうしているうちにふと、母の表情は真剣に変わって見えた。

「狐が自分の肉を差し出してきたら、それは絶対に貰わないように」と母は言い、右手の差し指で布団をとんとんと叩き「絶対に貰わないように」と繰り返した。

「狐がそういう事をするのですか」

「そういう事をする。狐の女の子が、肉は要りませんかと差し出してくる」

「貰ってしまうと何が起きるのですか」

「隠し持った刀で、滅多斬りにされてしまう」

「えっ!」

「まあまあ、それは怖い話」

 そう言う母は既に可笑しそうに笑っていた。お雪は肩をすくめ唇をすぼめて、上目遣いで母をじっと見つめた。母はくすっと笑って、上体をゆっくりと起こして首を少し回した。

「さ、もう寝るよ。お雪」

 母は燭台の近くに顔を近付けて、蝋燭の火を一吹きで消した。火が消える時のぼうっ、という音が妙にお雪の耳に残った。

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雪降る白狐塚の谷 K.Shinob & 斎藤薫 @shinob-kaorusaito

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