第2話

 白狐塚の谷には川も湖も無い。だが湧水が出る土地であり、谷のどこかに必ず残る雪を溶かす事もできたので水は容易に手に入った。土から出る水は僅かに塩気を含み、お雪はそういうものかと思っていたが、母によればそれは意外にもこの谷特有の秘密だという。

 いびつな形の冷涼な谷は全体としてはおおよそ南西から北東に伸び、急峻な雪山の連なりに挟まれる。谷の幅は両端で狭まり、やがて両側の山が繋がり閉じてしまう。山岳中に孤立したその奇妙な谷間には小さな丘や窪地が数多くあり、それらの表面の大半は礫地にも近い荒野か、もしくは岩場であった。森は山麓の一部にだけ小さく広がっていた。

 集落は谷のやや北東寄りの場所に山から離れて一つだけ存在していた。

 谷では夏の暮れには早くも霜が降り、丈の短い草々は色を失い枯れて行く。秋には雪も降り、そして冬に至る。冬季の寒さは非常に厳しい。特に真冬になると、凍える谷に降る雪は毎日のように吹雪となり、積もる雪を放置すると家を埋め尽くす事もあった。毎年、寒さが近付いてくると母は娘に対し凍傷の恐ろしさを口酸っぱく言い聞かせた。

 さてそのような谷で生まれ育ったお雪は、実は時々一人で外に出て野を駆け巡るのが大好きだった。集落の西に広がる荒野の中で一人風に揺られ、後ろ髪をなびかせた。

 家の中ではまるで人形のような娘のその姿を、母親は好意的に見ていたようである。

「母上。外に出て、遊んできてもよいですか」

 お雪がお伺いを立てると、母は家中で何か作業しながら大抵快く了承する。そして彼女は小さな草鞋を足に履いて緒を結び、一人で出かけて行くのであった。外に出る時は、何か一仕事する時もそうであったが着物の下に厚手の雪袴を穿くのが常だった。


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