魔女令嬢と真夜中の契約者たち

佐槻奏多

第1話 プロローグ~儀式

 右腕が千切れそうに痛い。

 ハルディスは痛みに耐えながら、崖下へ落ちかけた母親を掴む手に、力を込めた。


 靴先が、ざりざりと音を立てて地面に溝をつけ、ジャケットが土をこする。

 母親の体重にひきずられ、身体が底の見えない暗闇へ向かって、乗り出すように移動していく。


 それをくい止めようと、左手で土に爪をたてた。

 わずかにでも力を抜けば、母親もろとも崖下へ落ちてしまうだろう。


 視線の先は闇一色に染め上げられ、自分の腕と、その先にいる母親の輪郭がかろうじて見える。崖の高さも、真下に岩があるのかすらわからない。

 ハルディスは歯を食いしばった。せめてあと三年、成人している頃だったなら十分な腕力があったのに。


「ハルディス! 離しなさい!」


 握った手の先で叫ぶ声が聞こえる。

 暗くて表情は良く見えない。それでもどんな顔をしているのかは、すぐに想像ができた。母親は頑固そうに眉に力を込め、頬をこわばらせているだろう。


 かろうじて判別のつく緑の瞳は、闇の中から決意を込めて彼を見つめ返してくる。自分が生き延びるほうを選択しろと言うように。


 母さんはいつもそうだ、と心の中で呟く。

 俺の為にそうやって全てを捨てようとする。最初は身分を。次に家族を。そして命まで。


「いやだ。死なせない、母さん!」


 だって家族と呼べるものは、もうお互いしかいない。どうしてこの手を離せるだろう。


 ややあって暗闇の向こうからすすり泣く声が聞こえた。

 ハルディスにもわかっていた。このままでは二人とも助からない。だけど失いたくないのだ。世界に一人だけの家族を。


 急を告げる早馬のように忙しない馬蹄の音が、遠雷のようにどこからか響いてくる。それがいななきと共にハルディスの背後で止まるまで、ほんのわずかの時間しかかからなかった。

 次いで、革靴が乾いた地面を踏みしめる音が近づいた。


 ハルディスは急いで母親を引き上げようと腕に、肩に、力をこめた。ほんの少し持ち上がったと思った瞬間、唐突に振り下ろされた剣によって、ハルディスの動きは遮られた。


 腕を突き刺され、絶叫を上げたハルディスの手から力が抜けた。

 母親の手の温もりは指先から離れ、かろうじて見えていた彼女の輪郭も、暗闇の中に溶けていく。


 声が出なくなるほど叫んだハルディスは、剣を引き抜かれた痛みに喚き、刺された腕を庇ってうずくまる。痛みにかすむ目を開いて空を仰ぐと、剣を握りなおした人物が見えた。


 三日月の光の中、重たげな暗色のクロークの下に黒いジャケットを着込んだ姿は、まるで影が立ちはだかっているようだ。

 相手の口元が、うっすらと笑みの形に変わる。その背後には、同じ装いに黒いクロークを羽織った男たちが並んでいる。


「お前も早く母親に習え。そして証明してくれ」


 腕から血を流し、ただ見上げることしかできないハルディスは、わき腹を蹴られて呻く。


「この儀式が、真実我らに天与の才を与えてくれるのかを」


 足で押し出されたハルディスの身体は、崖下へと簡単に傾いだ。

 落ちるまではほんの数瞬だった。

 ハルディスは闇の中に吸い込まれていく。崖へ手を伸ばした。届くはずがない。叫ぼうとしても、声はでない。


 緩慢に時間が過ぎていくような感覚に浸食され、ハルディスは何もできずにただ落ちていく事に絶望した。

 母もこんな思いをしながら落ちたのだろうか。同じように、暁の世界へ旅立てば楽になるのだろうか。


 ハルディスは心の中で強く叫ぶ。

 嫌だ。

 あの男が憎い。とても安らかな気持ちで暁の世界へ行くことはできない。

 同じように苦しませて、絶望させてやりたいと思った。でも自分は死んでしまうのだ。


 ――まだ死にたくない。


 唇を噛みしめたハルディスは、自分をくるみ込む闇の先をまっすぐに見つめた。

 どうせ死ぬのなら、あの男へぶつける恨みをかかえて逝こうと考えたからだ。


 肉体を失っても、魂ならば千里を翔る翼を得て、望むところへ飛ぶことができるという。

 それなら、魂になってからこの復讐を果たすのだ。


 決意したその時、急に黒一色に塗りつぶされた地面の様子が鮮明に見えた。

 砂が風に舞い上がるように、紫の光の粒が地面を覆っている。その中心にあるのは、青白い燐光をまとう樹だ。


 ハルディスはそれに見覚えがあった。

 燐光がなければ、青白い木肌と銀色にひるがえる細い葉が見えるはずのそれは、どこの森にも必ずある導の樹だ。森の中心から放射状に並ぶとされる樹は、道に迷った者の道標。


 樹を中心に、紫の光の粒はぞろりと脈動した。

 不意に鎌首を持ち上げるかのように伸び上がり、炎が枯れ草を飲み込むようにその範囲を広げる。瞬く間にハルディスは燐光の中に取り込まれた。


 ハルディスは思わず目を閉じたが、光は眼裏までも浸食する。

 爆発するように発光し、目を焼かれるような痛みを感じた。そのまま白一色しか見えなくなる。


 そして、意識が薄れていくのを感じていた。

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