命のエンドロール ~それぞれの11時2分~

仲瀬 充

命のエンドロール ~それぞれの11時2分~

★1945年7月24日火曜(旧暦6月16日)

 長崎医科大学付属病院の看護婦山岡百合は深夜に外に出て病棟の壁に背をもたせかけ本を読んでいた。ほの青い月光が百合の横顔と白衣を照らす。夜勤の合間に煙草を吸いに出た志田清彦はそんな百合の姿に目を奪われてしまった。百合のほうも人の気配を感じて読んでいた本を閉じた。

「ごめんごめん、驚かして。医局の志田だよ、君は?」

「山岡です。えっと、最近神奈川からこらしたいらっしゃった先生ですか?」

「うん、親父の病院が空襲で半分焼けてしまったんで研究も兼ねてお世話になってる。ところで灯りもないのに字が読めるの?」

「今日は満月ですけん満月ですから

百合は清彦の側に寄って単行本を開いて見せた。

「本当だ、読める。でも感心だね、夜勤で疲れているだろうに」

そう言いながら清彦は脇にいる百合の髪の匂いに胸をときめかせた。この夜以降、清彦と百合の二人は夜勤のたびに月明かりの下で逢瀬おうせを重ねた。



★1945年8月8日水曜(旧暦7月1日)

 永田道夫が帰宅したのはちょうど妻の春子が隣家から戻ってきた時だった。

「お隣の黒川のおばさんに笑われました、長阪弁だって」

「ナガサカベン?」

「ウチの言葉は長崎弁と大阪弁のちゃんぽんや言われました」

「おばさんになんて言うたとね?」

「回覧板を持って来たとですばってんが居てはります?って」

「嫁いで来てまだ1年もたたんとやけんしょんなかさしかたがないさ。飯にしてくれんね」

道夫は作業着を脱いでちゃぶ台の前に座った。

「今日も芋飯か、そいにまた麦より芋のほうが多かたい」

「すみません」

おいよかとばってんいいんだが、お前のお腹ん中の子が」

「それがですね」、隣家に明日親戚の人が米と鶏肉と卵を持って来ると言って春子は嬉しそうな顔をした。

「うちにもおすそ分けしてくれはるって」

「その親戚は黒川の本家のじいさんじゃろ。福田村で百姓ばしよるげなしているらしい

「そうですか」

「骨折で大学病院に入院しとらす入院なさっている奥さんが退院らしかけん迎えがてら出てこらすとやろ。市内の城山しろやま城栄じょうえいあたりに娘さん一家もおっとじゃなかろうか」

食事を終えると道夫は立ち上がった。

「暑かねえ。庭で行水ぎょうずいしゅうかしようか、お前も汗ば流せば?」

「お腹も出とるし人に見られたら」

「なんの、今日は新月で真っ暗やけん心配なか」

その夜、床に就くと道夫は春子に語りかけた。

「お父さんとお母さんも心配しとらすやろ。大阪に帰って産むごとすれば産むようにしたら??」

「でも大阪は長崎より空襲もひどいみたいやし、それに……」

春子は手を伸ばして道夫の手を握った。

「ウチ、どないなことがあったかて道夫さんの側を離れとうなかとです」

道夫は春子の手を握り返しながら小声でつぶやいた。

ほんなこて長阪弁ばいほんとに長阪弁だ


 翌日8月9日の朝7時半、道夫は作業着姿で玄関を出た。

「昨日の残り物でごめんなさい」

春子が手渡す弁当を受け取りながら道夫は笑顔で言った。

よかよかいいよいいよ、晩飯ば楽しみにしとくけん。白米は久しぶりばい」

「あっ!」

「どうした?」

「今お腹の子が蹴りました」

「ハハハ、そん子も食い意地の張っとるごたるね張っているみたいだね

「行ってくる」と片手を挙げて道夫は勤め先の工場へ向かった。

到着するといつものように航空機搭載用の魚雷製作にかかる。

動員学徒たちに作業の指示をしながら溶接作業を続けるうちに空腹を覚えた。

遮光マスクを外して汗を拭いていると側の若い同僚と目が合った。

「お前、腕時計ばしとるやろ。もう昼じゃなかや?」

「何ば言いよっとですか永田さん」

そう言って同僚は腕時計を道夫に道夫に見えるように向けた。

「ほら11時2分、まあだ11時ば回ったばっかりですばい」

「そしたらもうひと頑張りしないとい…


★1945年8月8日水曜(旧暦7月1日)

 徳永宗太は小学4年生だが夜に便所に行くのが怖い。便所と風呂は別棟にあるからだ。別棟といっても短い渡り廊下でつながってはいるが。それでも今日みたいに月が出ていない真っ暗な夜は恐ろしい。

「うわ! 母ちゃん、母ちゃん!」

宗太の父親と母親は寝ついたばかりだったが同時に目を覚ました。

「おい、宗太が便所でおめきよるぞ叫んでいるぞ

「昼間虫くだしば飲ませたけん、虫の出たとじゃなかろかね」

起き上がった母親の後を父親もついて行った。便所の戸を開けると宗太は便器にまたがったまま顔だけ母親に向けた。

「母ちゃん、尻のムズムズしよる」

「どら、尻ば上げてみんね」

「やっぱりじごんす尻の穴から虫の出よる」

父親も宗太の尻に顔を近づけた。

こら回虫ばいこれは回虫だ。ちぎれんごとゆっくり引かんばぞ」

母親は落とし紙を2、3枚手に取ってつまんだ。

「ようし取れた。尻ばよう拭いて出らんね」


 翌日8月9日の午前9時半、玄関で運動靴を履こうとしている宗太に母親が声をかけた。

どけどこに行くとね?」

「空襲警報が解除になったけん学校に行ってくる」

「夏休みに学校に行ってなんばすっとなにをするの??」

「蝉ば捕る」

「今日は大学病院にばあちゃんの退院の手伝いに行くとばい。退院は2時やけん昼までに帰ってこんばよ帰ってくるんだよ。母ちゃんは今から上の畑に行く」

「昼ごはんは?」

「井戸のバケツにトマトば冷やしとく。そいばそれを食べとかんね」

「うん。そいじゃ行ってくる」

虫捕り網がないのでメダカ捕りの網を持って宗太は駆けだした。学校に着くと校庭の樹々の下には既に何人かの姿が見えた。宗太も早速級友たちに混じって夢中で蝉を探した。やがて日も高くなり蝉取りに飽きると宗太は母親の注意を思い出して時間が気になった。家に帰ってトマトを食べよう。冷えたトマトを思い浮かべながら汗ばんだ額を手の甲で拭っていると窓を開け放った宿直室でランニングシャツ姿の担任が何か書き物をしているのが見えた。窓辺に寄って宗太は声をかけた。

「先生、いま何時?」

「おお徳永、蝉取りに来たとか?」

「蝉は捕まえきらんやったけど玉虫の2匹取れた」

宗太は腰の虫かごを持ち上げて見せてから催促した。

「先生、時間は?」

担任教師は眼鏡を指でずり上げて部屋の壁に掛かっている柱時計を見上げた。

「さっきボーンボーンって鳴りよったけん11時過ぎたい11時過ぎだ、11時2分」

「ありがとう。そいじゃ先生さよ…



★1945年8月8日水曜(旧暦7月1日)

 山岡百合は患者や同僚が寝静まってから外に出た。志田清彦が待っていた。

「どうしてはっきりした返事をくれないのかな。月明かりの下で初めて会った時に僕は君と結ばれる運命を感じたっていうのに」

「その運命はあの夜の満月と同じです。先生に逢うたびに欠けていってもう空に見えません」

「確かに今日は新月で真っ暗だよ。でもこれからは毎日輝きを増していく一方じゃないか」

清彦は百合の肩に両手を置いて顔を近づけた。

「嫌いなら嫌いとはっきり言ってくれ、どうなんだい?」

「だって先生と私じゃ釣り合わないし先生のお家も反対するに決まってるじゃなかですか」

「両親は僕が何としても説得するよ。駄目だったら家を出て君と二人で仕事をさがせばいい」

「そんなこと言われても……。私のお父さんも反対しとるし」

清彦は百合の肩に置いた手を離した。

「実は今日がリミットなんだ。僕の知らない間に親が神奈川で見合い話を進めていてね、明日の11時にはここを出て浦上駅から汽車に乗らなくちゃならない。君がOKしてくれたら電報を打って断るけど?」

百合は丁寧に頭を下げた。

「すみません、ごめんなさい」


 翌日8月9日、百合は朝から患者のベッドを回り検温その他の業務を行った。最後に「黒川シヅ」と書かれた名札がある2階の病室に入った。

「シヅさん、2時に退院ですね。荷物の整理なんかは? 旦那さんが迎えにこらすとですよねいらっしゃるんですよね

「娘も孫も来るけん心配なかよ。それよりあんた具合の悪かとじゃなかね? 顔色のようなかよ」

「今日の勤務はもう上がりですから大丈夫……」

百合の頬に涙が一筋流れた。それを見たシヅは勢いよくベッドの上で上体を起こし強引に百合の手を引いて自分の側に腰かけさせた。

若かおなごば泣かすとは若い女を泣かすのは男に決まっとる。話してみんね、年寄りは男と女のことは色々見てきとっとやけん見てきているんだから

ひとしきりしゃくりあげた後、百合は志田清彦とのこれまでのいきさつをシヅに打ち明けた。

「先生がこっちにおる間遊ばれるだけたい遊ばれるだけだ、転ばぬ先の杖で用心せんばて用心しなければとお父さんは言うとです」

「肝心のあんたはその先生ばどげん思うとっとねどう思っているの?」

百合はうつむいてさっき涙をぬぐったハンカチをまさぐり出した。そのようすを見てシヅは百合の肩を叩いた。

「そんなら決まりたい。お母さんは反対しとらんとやろもん? 娘のことは女親が一番分かっとると分かってるのよ

「そいでもお父さんが……」

なんが転ばぬ先の杖ねなにが転ばぬ先の杖よ、転んで脚の骨ば折ったこげんこんな婆さんでもまた歩くとばい。若かあんたがそげん冷えじごでどげんすんねそんなに臆病でどうするの。今からすぐ追いかけんね」

制服の背中を強く押された百合は床頭台しょうとうだいに置かれているシヅの目覚まし時計を見た。

「間に合いません。志田先生は11時にここを出るって言ってました。もう11時10分過ぎですから駅に向かってます」

シヅはベッドから立ち上がって窓辺に寄った。

うちゃ、時間に遅れるとが好かんけん時計はいつも10分進めとるとよ。あら、窓の下で誰かこっちば見よらすばい見てらっしゃるよ

そう言っていたずらっぽい笑顔を向けると百合は弾かれたように窓辺に駆け寄った。

そして窓枠から身を乗り出して声を上げた。

「先生、待っ…



★1945年8月9日木曜

 午前11時2分、アメリカ軍のB29爆撃機ボックスカー号によって高度9600メートルから原子爆弾(コードネーム:ファットマン)が投下された。原子爆弾は長崎市北部の松山町上空500メートルで炸裂し温度8000度、直径400メートルの火球となり、熱線、放射線、爆風が長崎市民を襲った。爆発直後の爆心地の地表は3000~4000度、ガラス瓶も溶けるほどの高熱で人体は一瞬で炭化、爆風は秒速400メートルを超えガラス片や木片が突き刺さった遺体も多かった。長崎市民24万人のうち7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊。立ち昇るきのこ状の原子雲は高度14000メートルに達し、遠く大分県からも見えたという。


永田道夫(32歳)…爆心地から北へ約1300mの三菱兵器製作所大橋工場で被爆。即死。 

徳永宗太(10歳)…爆心地から西へ約500mの城山国民学校校庭で被爆。即死。

山岡百合(21歳)…爆心地から南東へ約700mの長崎医科大学付属病院で被爆。即死。

志田清彦(28歳)…同上

黒川シヅ(64歳)…同上

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