第三楽章

風と海との対話 ①

がたんごとんと電車の揺れる音を聞きながら、車窓からの景色を眺める。


窓からは、初夏の強い日の光によって輝く海が広がっていた。


もう直ぐ、目的地に到着する。私は、重いキャリーケースと黒のレザーバッグを網棚から降ろす。


電車の扉が開くと、潮の匂いを含んだ風が吹き込んだ。


キャリーケースを引っ張りながら、祖母が暮らす家に向かう。


以前来たときの記憶を頼りに道を進めば、木造の一軒家にたどり着く。



―ピンポーン―



『はーい』


チャイムを押せば、のんびりとした声で祖母が返事をした。


「おばあさん。私です。瑠海るかです」


『まぁまぁ。瑠海ちゃん。よく来たわね。今開けるから、待ってねぇ』


カギが開く音がすると、スライド式の扉が横に動く。だけど、劣化が激しく、途中でつっかえている。


私も扉に手をかけ、横に力を加えた。踏ん張っていた引き戸はようやく重い腰を上げた。


「瑠海ちゃん、久しぶり。元気だった?」


「まぁまぁ、かな」


簡素な返事をしながら、家に上がった。


外見から見ても築年数がいっているのがわかるが、内装も相変わらず古い。だけど、どの部屋も人の息づかいが感じられるから、まえ住んでいた家より好きだ。


「おばあちゃん、瑠海ちゃんがこっちで暮らすって聞いて驚いたわ」


「もともと、高校入学と同時にこっちに引っ越すつもりだったんだけど」


本来なら、二ヶ月以上まえにはこの小さな港町に来る予定だった。母が反対して地元の高校に進学したものの、結局こっちで暮らすことになった。


普通なら、早くに親元を離れて寂しがるのだろう。しかし、うちの両親は二人とも音楽家で、元来家を空けている。


そもそも家を出た理由は、親……というより母と距離を置きたかったからだ。


ほとんど家にいないくせに色々指図する人が帰って来る家にいるよりも、祖母の家で暮らす方がストレスがなくていい。


「瑠海ちゃんのお部屋は二階よ。前日届いた荷物は、もう運んであるから」


「腰悪いのに、大丈夫?」


「私は、大丈夫。全部、業者さんが上に持って行ってくれたから」


「そう。なら、よかった」


私は、自分が持ってきた荷物も部屋に運ぶ。


部屋の中はダンボールや家具でいっぱいだった。


部屋の整理なんて二の次に、キャリーバッグだけ置き去りにして下に戻る。


「おばあさん。ちょっと、外出るから」


「そう。夕飯までには帰ってねぇ。今日は、瑠海ちゃんの好きなエビフライだから」


「はーい」


レザーバッグを片手に、まえにも通った道を歩く。途中、近所の父の兄である叔父さんに声をかけられた。


「よーお。瑠海、こっちで暮らすそうだな。こんな、中途半端な時期にどうしてだ?」


「理由は特にないです。急いでいるので、失礼します」


いちいち答えていたら、日が暮れてしまう。舗装されている道を逸れて、あまり人気のない抜け道を使う。木々に覆われ日影になっているから、少し涼しい。


しばらくして、木の葉に覆われあまり目立たない洞窟が現れる。この洞窟はむかしこっちで暮らしていた叔父の子、つまり私のいとこに教えてもらったもの。知っているのは多分そのいとこと私だけだ。もっとも、そのいとこは一昨年東京に上京して、いまとなっては私しか通らない。


携帯のライトで先を照らしながら暗がりの中を進む。光が見えると同時に今日一番潮風を感じた。


出口の合図に気持ちを逸らせる。


洞窟を抜ければ、眼前に広がる海と手まえの白い砂浜。ここは崖下に面した入り江で、崖によって常に陰る海は藍に染まっている。


里帰りのたびに私はここで誰にも知られず、フルートを吹く。こっちに引っ越してきて初日である今日も、フルートを吹くためにここまできた。


レザーバッグから銀色のフルートを取り出す。まず、試し吹きに高いドの音を出してみる。右手と左手、それぞれの人差し指でキーを押さえ息を吹く。



―ふー……―



ここ最近バタバタしていて、ろくに演奏してなかった割には悪くない気がする。


目を瞑り、気持ちを整える。いつも演奏する曲の出だしを頭に浮かべて、最初のキーに手をかける。



―ザバァン!—



すると、大きななにかが水に叩きつけられる音が響いた。


瞑想をやめ、目を海へ向ければ、白い服の青年が海に沈んでいる。


「大変!」


フルートを浜辺に残し、すぐさま青年の元へ駆ける。


「大丈夫ですかぁあ!」


青年の側まで来て、なにかに足を取られた。貝かヒトデ、あるいはゴミなどの漂流物かなと思った。



―ガボッ‼—



躓いた物の正体もわからず、私まで溺れていく。このまま死ぬかもと思った。


いつもなら、まぁ別にいいやなんて呆気ない人生の幕い引きを受け入れられた。だけど、私より先に溺れていた青年が気がかりだった。


あの人は私と違って心配してくれる親や、気にかけてくる友人がいるかもしれないから。



―バッサバッサバッサ―



細いながらも男性特有のしっかりとした手に握られる感覚ののち、鳥の羽ばたきに似た音がした。


体が引き上げられていることを理解した。しかし、海面から出ても吊り上げられ続け。最終的に私の足は海面から離れ、体は浮いていた。


「大丈夫?」


浮遊感が怖くて下ばかり向いていたが、頭上からの心配の声が聞こえた。反射的に顔を上へ向ける。


最初、太陽の光で目が眩みよくわからなかったが、徐々に目に映る者の輪郭がはっきりした。


姿態は一見すればごく普通の青年だ。たぶん私と同じくらいの。しかし、その青年には大きな二本の翼が生えている。


まるで、天使のような羽根。しかし、それは神話の天使の絵姿とは違い、純白ではなくこの下に揺蕩う海の青だ。


しかし、羽ばたく姿は天使そのもので、青年はゆっくり砂浜に降下した。


「……」


受け入れ難い現実に唖然とする。


「おーい。耳聞こえる?そもそも意識ある?」


目のまえの青年は、私がいつまでも無言でいることに訝る。意識確認をするために、片手を顔のまえに掲げて、軽く左右に振る。


メトロノームのように動くそれに、意識が誘引する。


「よかったぁ~。ちゃんと意識ある」


瞬きをする私に安堵する青年は、翼がなければ人間とあまり相違ない。


「あなたはなに者ですか?」


しかし、明らかに人外である青年に、気心を許すようなのほほんとした性格ではない。例え、その翼が作り物で、空を浮遊したのもなんらかのトリックだったとしても、それはそれで変人で気色悪い。


私の問いかけに「見ての通り、俺は天使。天使だよ」とカランと答えた。


「ふざけないでよ!」


こっちは真剣なのに青年の声音から、おちょくられているように感じて憤慨する。


「ふざけてないよ。それに命の恩人に対してそれはないんじゃない」


青年の言葉にハッとした。冷静に思い返せば、彼に手を引かれていなかったら自分が溺れ死んでいたから。まあ、そもそも彼が原因で溺れたようなものだけど。


「すみません。助けていただいてありがとうございます。では、失礼します」


「ちょい!ちょい!ちょい!このまま帰るなんてそれはないよ!」


さっさと立ち去ろうすると、いきなり引き止められた。


「お礼は言いましたよ。まだなにか?」


「普通は、もっと突っ込むところでしょ!天使って本当にいるのとか、ここでなにしていたのとか。あと……」


「あと?」


「お礼は言葉だけじゃなく、なんかちょうだい」


見た目天使なのに、けっこう図々しい。


「助けていただいたことに関しては感謝しています。ですが、あなたのような不審人物と関わりたくありません」


「天使を不審人物って……いやー、きみおもしろいね」


ケラケラ笑う青年に、ますます青筋を浮かべた。


「とにかく、今日は帰ります」


私はこれ以上会話を続けるのが億劫で、フルートを回収して急いで洞窟の中に駆け込んだ。あとをつけられるかもと思い家まで急ぎ足で駆け込んだ。


「ただいま」


フルートの演奏のために肺活量を鍛えているから、 入り江からここまで走ったくらいではバテたりなどしない。どちらかといえば、あのマイペースな天使(?)に気を乱された。


「お帰りなさい。まぁまぁ、濡れているじゃない」


「熱いから、水浴びしてきた」


「あらそうなの。瑠海ちゃんは、昔から海が好きだからねぇ」


特別というわけではないが、海の音は心地よくて日常を忘れさせてくれる。でも、母はなぜか海が嫌いで、こちらへ帰省したときもなかなか海に行かせてくれなかった。


いとこがあの入り江の場所を教えてくれたのは、そのことを不憫に思った事が起因だ。


「夕食まえに、お風呂に入っておいで」


「うん。そうする」


二階に上がり、フルートケースを置いて、ダンボールから着替えを出す。


お風呂の窓からも海が見えた。黄昏時の海の色は私の好きな色とは正反対で、昼間のちぐはぐ感に切なくなる。


あの深い青の海に飛び込んで、なにもかも忘れてしまいたい。藍色の海に沈む感覚を思い返す。


やっぱり、あのまま死んでもよかったかもしれない。


私は海に水没したときを再現するかのように、頭まで浴槽に浸かる。でも、温かいお湯と冷たい海は全然違う。


またしても、昼間とはちぐはぐな現状に虚しさを感じるだけだった。

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