《はじまりはいつもと突然に》
東京二十三区、とあるマンションの一室にて。
音は鳴らさず、しかし素早く動く者が一人。
「ねえねえ、見てよこれ!」
勢い良く扉を開けて、ある女性が部屋に入ってくる。
手に持つのは起動済みのノートパソコン。
どうやら表示されているサイトを部屋の主に見て欲しいようだった。
「……寝させてよ
「それがもう十二時なんだよなあ。
休日とはいえ寝過ぎじゃないですかね
詩音は彩を無視し、布団の温もりを放すまいと頭まで潜り込んだ。
ヤドカリのように包まり、二度寝を決め込もうとする。
「……ふーん。
そっちがその気なら、こっちも本気を出すしかないなあ」
ノートパソコンを机に置き、服の袖を捲り、そして詩音が包まる布団を掴む。
大きく息を吸い込んで、力一杯引っぺがした。
「いっつもいっつも私に起こさせるんじゃなーい!」
「彩が怒ったー!!」
「怒らせるようなことしてるからでしょ!!!」
恒例化した押し問答。
二人が同居を始めてからまだ一日も経っていないというのに。
いや、やり取り自体は十年以上続けているのだから、二人にとってはいつものことであるのだが。
大学生になっても────入学式は一週間以上後であるため、正式にはまだ大学生ではない────詩音の怠惰癖は治る兆しを見せなかった。
そもそも二人が同居を始めた理由が『詩音に独り暮らしはさせられない』というものであるから当然だ。
二人は東北のとある片田舎に生まれ育った。
親同士が友人同士であり、生まれた病院も同じ、家も隣。
クラスは一度も離れたことがなく、出席番号も
更に進学先も同じ大学の同じ学部という、奇遇を通り越して最早運命であった。
『もうこいつら結婚していいんじゃないかな』というのは、高校三年間同じクラスだった友人の弁だ。
上京するにあたって危ぶまれていた詩音の生活能力は、全く同じ場所へ進学する彩の存在によって解決した。
もう親公認の夫婦と言っても差し支えない。
そうして早めに引っ越した二人は、悠々自適な二人暮らしを始めた────までは良かった。
良かったのだ。
問題は受験後から輪をかけて酷くなった詩音の怠惰癖。
毎日毎日やることもなく泥のように眠り、起きたら起きたで最低限の動きしかしない。
俗に言う、燃え尽き症候群だった。
仕方ないじゃない、受験めっちゃくちゃ頑張ったんだもん。
そう言い訳する詩音を叱る彩の苦労は、計り知れなかった。
せめて、受験前くらいまでに戻ってくれたら。
何か目標が見つかったら。
そう考える彩のもとに、一筋の光が差し込んだのが十分ほど前のことだった。
「はい、取り敢えずこれを見て!」
「……なにこれ」
机に置かれていたパソコンを詩音の前に掲げる。
そこにはデザインセンスの欠片もない、学生が授業の一環で作ったようなホームページが表示されていた。
「『理想のあなたになれる!』
……今時の詐欺でも使わんよそんな常套句」
「これが企業の求人募集ってんだからびっくり」
「……え、マジ?」
「マジのマジ。しかも会社ホームページはちゃんとしてる」
カーソルを弄り、彩は別のタブを表示させた。
先程のホームページを作った企業とは思えないほど精巧なサイト。
担当者の技術力に天と地、月とスッポンほどの差がある。
「うへ〜マジだこれ。どこの……株式会社コスモス?」
「の、運営するバーチャルタレント事務所アステリズム」
詩音が会社名を読み上げれば、件のクソダサホームページを再度表示させる。
何度見てもアホみたいな完成度の低さだ。
求人募集で使うものではない。
ただ、本題はこのホームページを見せることではない。
もっと別のものだ。
そして、その答えは彩の発言で示されていた。
「……バーチャルタレントって、あれだろ。
ユアライブで配信する、
最近よく聞く。
なんで急にそんなもの……もしかして」
「そのもしかして。詩音にはVライバーになってもらいます」
曇りなき眼で詩音の思考は肯定された。
この幼馴染は詩音に死ねと言っているらしい。
「無理無理むりむり、ほんっとうにムリ。
ボクにそんなのできっこないって分かってるだろ」
「初めっから無理って言わない!
前から言ってたじゃない『変わりたい』って」
「それは言葉の綾といいますか……叶うはずがないと思ってたといいますか……」
詩音は言い淀む。
自分にVライバー、配信者なんてできるわけがなかった。
性格的にも、精神的にも、身体的にも。
他人前に立つのは詩音が苦手とするうちの一つだった。
誰もが詩音を奇異の目で眺め、くすくすと嘲笑う。
藤咲詩音という人間を否定するように。
詩音だって自分が異端であることは分かっていた。
女であるのに女であることを嫌い、また男と扱われることを嫌う。
他人と関わることも避け、一人で音楽を聞くことを好む。
極めつけは────
「ボクは色の判別がつかない。色が分からない。
輪郭を正確に認識することすら難しい。
そんな人間が他人の前に立ってアイドルみたいなことをするなんて、できやしない。
彩だって分かってるだろ」
「当たり前じゃない。何年一緒に居たと思ってるの?」
「なら……!」
「それでも、貴方になってほしいの」
ずい、と詩音との距離を詰める。
絶対に己の意見を曲げない。
長年付き添ってきたから分かる、彩の鋼鉄の意思。
「……なんで」
詩音の問いに答えるように彩はページをスクロールし、とある文面を画面中央へ誘導する。
応募資格と銘打たれた場所に書かれたある一文。
『老若男女問わず、変わりたいという確固たる意思がある者』
そんな、馬鹿げた文だ。
胡散臭く、ありふれたメッセージ。
しかし、それが何故か詩音の心を引き寄せた。
もっとよく見せて。
そう言おうとした詩音の思考を読み取ったように、彩はページの一番上から下までゆっくりと動かしていく。
株式会社コスモス。
四月一日に設立したばかりのベンチャー企業であり、目玉技術はトラッキング。
運営するバーチャルタレント事務所アステリズム。
応募人数は制限なし、応募資格は先程の通り。
現在の活動者は零名。この募集が最初のようだ。
現在、西暦ニ〇一八年。
ニ年前にとある一人が巻き起こしたVライバーブームによって、いくつもの会社と個人がᐯライバー事業を始めた。
まだまだ下火でありながらも、着実に人気は上がっている。
アステリズムは、そういう意味では後発と呼んでもいいのだろう。
しかし、これから盛り上がりを見せる可能性のあるVライバー界。
今から始めるならば、まだ間に合う。
どうする、どうすればいい。
そう思案する詩音の脳内は、応募する方向へ天秤が傾いていた。
とても魅力的に思えたのだ、あのメッセージが。
否定され続けていた自分を受け入れてくれたかのような、居場所を提示されたような安心感。
胡散臭く、ありふれて、詐欺のような言葉だとしても、確かに心に届いた。
届いてしまったのだ。
ああ、なりたい。変わりたい。理想の自分に。
そう思ったら、直ぐに身体は動いていた。
「彩、応募フォーム」
「はいはい、ここ」
名前、年齢、学歴、住所その他諸々。
ある一つの項目を残して、詩音は全て入力し終わった。
残ったものは、『アピールポイント』。
布団から飛び起きるように詩音は立ち上がった。
クローゼットから衣服を取り出して、今までのぐうたら具合は陰もなくなり、素早く着替えていく。
「で、どこ行くの? 下調べは?」
「カラオケ、近場で設備しっかりしてるところ!
場所はこっち来る前に確認済み!」
呆れたように溜息をついて、駆け出そうとする詩音の寝癖を整えた。
「ついでに写真も撮って来なさい」
「了解」
ショルダーバッグに財布とスマートフォン、ヘッドホン。
そして眼鏡を掛けて詩音は家を飛び出した。
帰ってくるのは日が暮れてからになるだろう。
「あんな楽しそうな顔見たの、いつぶりかなあ」
小さな身体で一生懸命に歌う詩音の姿が、彩の記憶に焼き付いていた。
ずっとずっと昔から、詩音のファンであり続けていた。
紡がれる声が、音が、全て心地良くて。美しくて、大好きだった。
あの天性の歌声は、ここで燻っていていいものではない。
もっと広く、大きな世界で羽ばたくものだ。
だから、彩は詩音に渡したのだ。
まだ未完成で不完全な世界への片道切符を。
────きみが幸せで居続けられるためなら、私は何だってしてあげる。
遠い昔、夜空に輝く一番星に誓った一生を掛けて果たす約束。
その初めの一歩は、今踏み出されたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます