27 夏夜の灯りに浮かぶ顔
ぼんやりと灯る光が島を
「ぎゃっ‼」
俺はくわっと目を開いて飛びのいた。
茂みから出てきたタヌキが変な声を出した俺を放置して、逃げていった。
滑稽なポーズで固まった俺に刺さる視線。目の前で微妙な顔をする折谷がいた。
「しょ、しょうがねえだろ!」
「まだ何も言ってないわ」
「あきらかに呆れてたろ!」
やれやれといった様子で折谷はため息をつく。
「ほら、行くよ」
手に余る恥ずかしさを押し込んで、折谷の後を追う。
町からだいぶ離れている。どこまで行くのやら。
自販機もないし、家すらない。ところどころに木々があるだけの道路。一台も車とすれ違うこともなく、ひっそりとしている。
お祭りの日にわざわざ山道を登ろうとするヤツはいないよな。
時々、野鳥が甲高い声を上げるせいで心臓がぎゅびんと縮んでしまう。
人が多いところが嫌だからって、こんな不気味なところに行かなくてもいいだろうに。
何万メートル歩いたことか……。さすがに盛ったけど。
しかも坂道ばかり。夜でも日中の暑さが残る状況じゃ、じんわりと汗は伝う。一応、退院したばかりなんだけどな。少しはいたわってほしいぜ……。
先ほど文句タラタラで折谷の背中に投げてやった。てっきり冷たくあしらわれると思いきや、真剣に考え込んで、「じゃあタクシーで行きましょう」と言い出したのだ。いや、金かかるだろと心配したら、「あたしが出すわ」と太っ腹なことを言われてしまった。
さすがにそれは悪い。だが退院したての俺に持ち合わせがあるわけもない。必死に止めて、どうにか事なきを得た。
折谷は文句ばかりの俺に苛立った様子だったが、寸前のところで拳を収めてくれた。
寛大な折谷にありがたや~と、おどけたてまつり、坂道を登ることになった。
折谷はどこか申し訳なさそうにチラチラとこちらを見てくる。歩く速度を俺に合わせてくれているのも気づいていた。当たりは強いところもあるけど、なんだかんだで優しいんだよな。
それから数分。坂道を進んだ先で駐車場と遊歩道が見えた。
いやしかし。なんて殺風景なんだ。差しあたって特筆するものがないくらい、質素な高台。トイレらしき小さな建物や常夜灯、案内図。ある意味、無駄なものがない。これだけ質素だと、普段から人が来ることも少ないんじゃないか?
「ちょっと」
折谷は不思議な様子で呆然と周りを見渡していた俺に声をかける。
「なにぼーっとしてんの? 来たことないの?」
「こんな平凡な場所で満たされるほど、単純じゃないんだよ」
「なら、ここよりマシなところに行きましょ」
そう言って、折谷は遊歩道へ向かっていく。
「……わがままなお嬢様だ」
一人夜の中で呟き、気だるげに足を運ぶのだった。
丘のてっぺんに来ると、切り開かれた場所が視界に広がった。ここなら運動会でも開けるんじゃないか?
ベンチやこの場所の解説ボード、常夜灯が置かれているだけの高台のようだ。
「折谷」
町や海を一望できる
「ほれ、水分補給しとけよ」
俺は澪さんからもらったペットボトルを下から投げる。折谷は難なくキャッチし、不満そうな視線を突き刺してくる。俺も慣れたもんで、折谷の無言の圧も右から左へ受け流せるようになった。なんたって、成長期だからな!
プシュっと音が弾け、喉を刺激するジュースで潤していく。
「ふう、生き返る~!」
俺はふと折谷に視線を流す。長いこと歩いたからだろう。折谷の髪の毛先は湿り、首の汗粒は常夜灯の光にあてられ、キラリと光っている。 なんつーかこう……。
「どうかした?」
「いや! なんでもない!」
俺は顔を片手で覆い、思わず顔を反らした。
危なかった。いや、いろんな意味で危なかった。
俺は落ち着き払って深呼吸をする。俺も妙な汗をかきながら折谷を見やる。
折谷は鉄の
夜空を遊覧する薄い雲と三日月。星は慎ましく小さな光で夜空のキャンバスに
柔らかな風が運んでくる、潮の香りとひっそりと漂う妙な空気。思い出されるのは、俺たちがすごしたあの絶体絶命の時間。当人が言うのもなんだが、今となっては現実味がない。
「ここ、お父さんがよく連れてきてくれた場所なの。日中に仕事して、それ以外はマリンフェアリー探し。遊んでくれる時間は、決まって夜だった」
そうか。この高台は、折谷と折谷の父ちゃんの思い出の場所……。
俺は辺りを見渡しながら、小さな子どもと父親が遊び回っている姿を思い描いた。
「お父さんとここで話したり、遊んだりすることが、あたしの楽しみだった」
折谷の声はしんみりと俺の鼓膜を揺らしていく。
「お父さんがいなくなってから。あたしの半分が消えてしまったみたいだった。あの人やマリンフェアリーへの怒り、後悔。もうどうしたいのか、わからなくなってた」
折谷の背中は町からささやかに届く祭りの光を受けて、物悲しく映る。
「こんなに苦しいなら、このまま生きていたって同じ。あの日、海の上で不意そんなことが浮かんだの」
折谷は不自然に声を張り上げた。何かを吹き飛ばすかのように。
「あたし、諦めたんだ。このまま海に呑まれて、消えてしまいたい」
「折谷……」
「気がついたら、君が映って。ああ、なんで死んだ後に君を見なくちゃいけないんだって、最悪の気分だった」
ぐぅ……辛辣だな。
「体はだるいし、目はぼやけるし、頭も痛いし。でも、君が必死になってるのを見て、思い出したの」
折谷の声はなつかしむように穏やかな声色に変わった。
「たぶん、あの二人は認め合ってたんだと思う」
「認め合う?」
「お互いに自分のやりたいことに真っすぐで、どんな大きな波も越えていこう。言葉にしなくても、わかり合っていた気がする」
折谷は静かに波打つ遠い海に向かって吐き出していく。小さな背中に背負った、いくつもの石を捨てていくみたいに。
「あの人が帰ってこなくなっても、お母さんはあの人を悪く言うようなことは言わなかった。匂わせることもね。時々悲しみに暮れることがあっても、健気にやっていこうってしてた。……結局、あたしは頑張ろうとするお母さんの足を引っ張ってたのよ。君を見て、そう思った」
高台の端でひっそりと佇む木々たちが風に煽られ、葉の音がささやく。折谷の言葉に、何かを言っているみたいに。
すっきりした様子で息をついた折谷はペットボトルの蓋を開け、渇いた喉を潤す。
「確かに、お店を続けるためにやってもいた。でも、君の言った通り、夢を追いたかったからこの島に来たんだと思う」
折谷は振り返り、凛々しく微笑んだ
「ただ綺麗な海に囲まれた島に住みたいだけなら、この島じゃなくてもいいでしょ」
「そうだな」
俺は静かに首肯し、炭酸ジュースをベンチに置き、欄干に手をかける。町を眺めながら、海の中にいたあのクラゲたちのことを思い浮かべる。
「マリンフェアリー。悪くない伝説だった」
「感動したのか?」
「この前見たアニメの方が感動したけどね」
「うっわ、素直じゃねえ」
折谷はクスクスと笑う。
「あたしも、何か追いかけてみようと思う。もうお母さんの負担になってばかりじゃいられないから。これからはあたしがお母さんを支えていく」
柔らかな涼しい風が通り抜ける。
「そっか」
「……藍原君」
「ん?」
折谷は少し視線を下げ、固まっている。自分から声をかけたくせに押し黙っている。何か迷っているのだろうか。折谷の瞳が宙でさまよっている。
折谷にしてはなんともクヨクヨしているような。このまま泳がせてみるのもいいかもしれない。ムフフと
「なわッ!?」
変な声が出てしまう。どうかしてしまった折谷の様子をうかがっていると、迷いを断ち切った表情が正面を切った。
「藍原君!」
「は、はい!」
折谷が突然張り上げた声に驚き、反射的に背筋を伸ばして、折谷へ向き直る。
「そ、その…………。藍原君がいたから、あたしは生きていられた。お母さんを、安心させることができた」
そうか。もしあそこで折谷が死んだら、
二人の家族を、海に奪われてしまうかもしれなかった。
「あたし、いつも強気に振る舞ってるけど、苦手なことも、たくさんある……。あたしたちを救ってくれて、本当にありがとう。それで—————ッ、も、もし、何かあったら、あたしを頼ってほしい。力になれることがあったら、協力する……」
折谷の声はどんどん小さくなり、最後の方はやっと聞き取れる声量だった。
「お、おう……わかった」
相手に緊張され、移ってしまった。
薄暗くてちょっと見えにくいが、プルプルと震えているような気がする。両手はぐっと拳を作り、両肩はパッドが入ったスーツのようにピンと張っている。
何かに怯えて毛を逆立てた威嚇する猫。そんな風に俺を見つめる瞳は、熱く濡れているように見えた。
これまで、折谷とは相容れないと思っていた。状況に強いられて、お互いのことを知ったからか。あるいは、海に溶け出したマリンフェアリーの奇跡が体に染み込みんで、再び俺たちを引き合わせたのか。
どちらにせよ、俺はこの今を、しっかり受け止めてみたい。俺の体と心は、温度を持ってそう訴えている。
俺は折谷に歩み寄り、手を差し出した。
「あの危機的状況を乗り越えられたんだ。似合わねえと思うけど、俺たちならなんだってやっていける。お互いに、最高のバディがいるんだからな」
折谷は数秒目を見張った後、緩められた口が微笑んだ。
「ほんと、似合わないね」
「ほっとけ」
折谷の手が俺の手と重なり、くっと握られた。華奢な手から伝わるぬくもりは俺の頬を熱くさせ、思わず零れてしまう。少し恥ずかしくもあり。妙にむず痒い。
ふわりと流れ、風は頬を撫でる。遠い遠い海から運ばれた潮のにおいが香るこの日を、俺は一生忘れることはないだろう。
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