晴れの日(1)

 夢かうつつか、波の音が聞こえる。その間隔に合わせて、爪先に水がかかり、引いていく。頬にざらざらした粒の感触がする。


 ベッドとは思えない感覚に、なんとかまぶたひらく。


 目の前には砂があった。

 砂の上で、うつ伏せになっていた。


 慌てて身を起こす。砂についた手は、蝋燭のように真っ白だった。目元を触る。眼鏡はしていない。


「夢の、続き……?」


 だが、不思議なことがいくつもある。


 まず全身が濡れていない。海から上がったばかりなら水びたしだろうに、わずかな湿りもない。


 次に服が違う。ノースリーブでくるぶし丈のワンピースだった──スカートの前部分だけ、ナイフのに巻くために切った──はずだが、フレアスリーブで膝丈のワンピースに変わっている。共布のウエストリボンがついて、ガーリーな印象だ。


 そして、両手の爪が薄紫に染まっていた。立ち上がって足を確認する。やはり靴は履いていない。両足の爪も、手と同じ色だった。


 夢の中の出来事に合理性を求めるべきではないということか。


 ──あの子は?


 はっとして辺りを見回す。


 少年はいない。視線の先には森、振り返れば空と海が広がっている。

 水平線の上に浮かぶ太陽が、周囲の空を海を金色に輝かせている。太陽から離れるほど、空と海の青の深さが増す。夜明けの紫は、雲の影にわずかな色を残すだけだった。

 快晴。だが心はくもる。景色を楽しむ余裕がない。

 やはり、自分だけが助かって、少年は海に置いていったのだろうか。


 このあいだは四月二十五日、いまは五月二日。一週間が経過している。夢の中でも同じだけの時間が流れていたら、少年を見つけられるだろうか。

 それとも、あの夢の続きではないのだろうか。


 あてもなく、重い足取りで砂浜を歩いていると、の光を反射してきらめくものが落ちていた。

 走り寄り、波打ち際にしゃがんで確かめる。つかから刃先はさきが半円状になっているナイフだった。少年に渡し、少年が捨てたものだ。どうやら流れ着いたらしい。

 前回の夢で、ナイフの刃に端切れを巻いた。波にまれたせいか、いまはその一部がほどけている。露出した金属部分に、光が反射したようだ。いったん全部ほどいて端切れを絞り、改めて刃に巻き直してから、ナイフをウエストリボンに挟む。


 ──いる。絶対に。


 目覚めの直前まで、あの痩せた体をしっかり抱きしめていた。自分が岸にいるなら、少年もいる。もしくは、いた。


 三百六十度、一つの見落としもないように、注意深く観察する。

 砂浜には大小さまざまな岩がある。その裏にいるかもしれない。

 すでに海から出て、森に入ったかもしれない。この場合、人探しの難易度が上がる。

 とりあえず、砂浜を端から端まで歩いてみることにした。


 ──あの子の名前を聞いてたら、呼びかけられるのに。


 悔やんでもあとまつりだ。もう一度会えたら、必ず名前を聞こうと心に決める。


 周囲を確認しながら歩いていると、小さな岩の下にある何かが目を引いた。

 白くて細い何か。巻貝だろうか。ここでは裸眼でも視力に問題はないのに、つい癖で、目を細めてしまう。

 牙だ。少年のペンダントトップだったものか、似ているだけで別のものか。

 これも拾って、ウエストリボンに挟んでおく。


 少年のものは、眼帯の男の首筋に突き立てられていた。かなり深く食い込んでいたが、抜けたのだろうか。いまいち腑に落ちない。とはいえ、この夢の中で腑に落ちた事態は多くないので、考えても時間の無駄だと割り切る。


 視線を前に向けると、数メートル先の岩陰に、革のブーツが見えた。


 ──あの子だ!


 全力疾走する。

 緑の髪の子供が、下を向いて倒れている。

 顔を見なくてもわかる。夢で出会った少年だ。


 ずっと気にかかっていた。その献身に報いたいと思っていた。


 少年が砂をいた線が残っている。這って進もうとして、力尽きたようだ。

 すぐそばで膝をつく。落ち着くために深呼吸してから、大きな声で呼びかける。


「もしもし、大丈夫? 意識はある?」


 少年の反応はない。だが、呼吸はしている。


 今回も、祖母を介護した経験が活かせるか。仰向けから横向きへの寝返り介助なら何度もしたが、うつ伏せからはどうだっただろう。思い出せない。


 記憶を巡らせる。

 ここ数日、人工呼吸について調べた時、関連動画をいくつか視聴した。胸骨圧迫やAED、ほかに──そう、体位変換。うつ伏せに倒れた人を仰向けにする、まさにこの状況にぴったりの動画を見た。脳内でリプレイし、手順をおさらいする。ぶっつけ本番だが、助けを求められる人がいない以上、やらねばならない。


「いまから、仰向けにするからね」


 少年に聞こえていなくても、声かけから始める。


 動画の内容を再現するように、痩せた体を反転させる。特につまずかず、仰向けにできた。

 白い砂粒だらけのチョコレート色の肌には、深い傷がある。少年が不死でなければ耐えられなかった。


 ──違う。


 少年の霊魂とおぼしき蝶は、肉体から離れていた。つまり、不死だと誤認するほどだけで、なんらかの条件を満たせば死ぬのでないか。女性か、長剣か、あるいは海か──。


 だらだら推察している場合ではない。

 少年が斬撃の身代わりになってくれた事実は揺らがないのだ。

 知らず、奥歯をみしめた。


 体位変換はよし。息はある。胸は静かに上下している。人工呼吸は必要なさそうだ。では、ほかにできることは。


 ──せめて、何か手当て、できないかな。何か……。


 気休めに過ぎないだろうが、ウエストリボンを包帯代わりに巻くか、と思案する。その時、右のてのひらに何かがれた。


 この現象は記憶に新しい。反射的に振り払おうとするのを我慢する。


 現れたのは、きんで装飾されたガラス瓶だった。てんとう虫をかたどる金の栓と、瓶に巻きつく金のかし細工ざいくが、チェーンでつながっている。

 瓶の中身は、どろどろした黒っぽい緑の液体だ。


「これ……薬?」


 目の前に怪我人がいて、手当てをしたいと思って、出てきたものだ。この状況で、さすがに青汁やヘドロではないと信じたい。


「確かめないと」


 薬か。薬なら、飲み薬と塗り薬のどちらか。


 ウエストリボンに挟んだナイフを、ちらっと見る。少し悩んで、結局使わないことにした。少年はこのナイフに思い入れがある。そう感じたからだ。

 仕方ない。小さく息を吐き、自分の左手の親指の付け根あたりに思いきり噛みつく。

 歯で皮膚を食い破る。痛い。口を開いて噛み傷を確かめると、血が出ていた。


 が。


 もっとも、血の色より、血がかよっていたことのほうに驚いた。なにしろ肌が白い。火にかざせば溶け落ちるのでは、とうたぐるくらい、蝋燭めいている。

 夢の中のことだ。荒唐無稽な血の色でも、すんなり受け入れられた。

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