晴れの日(1)
夢かうつつか、波の音が聞こえる。その間隔に合わせて、爪先に水がかかり、引いていく。頬にざらざらした粒の感触がする。
ベッドとは思えない感覚に、なんとか
目の前には砂があった。
砂の上で、うつ伏せになっていた。
慌てて身を起こす。砂についた手は、蝋燭のように真っ白だった。目元を触る。眼鏡はしていない。
「夢の、続き……?」
だが、不思議なことがいくつもある。
まず全身が濡れていない。海から上がったばかりなら水びたしだろうに、わずかな湿りもない。
次に服が違う。ノースリーブでくるぶし丈のワンピースだった──スカートの前部分だけ、ナイフの
そして、両手の爪が薄紫に染まっていた。立ち上がって足を確認する。やはり靴は履いていない。両足の爪も、手と同じ色だった。
夢の中の出来事に合理性を求めるべきではないということか。
──あの子は?
はっとして辺りを見回す。
少年はいない。視線の先には森、振り返れば空と海が広がっている。
水平線の上に浮かぶ太陽が、周囲の空を海を金色に輝かせている。太陽から離れるほど、空と海の青の深さが増す。夜明けの紫は、雲の影にわずかな色を残すだけだった。
快晴。だが心は
やはり、自分だけが助かって、少年は海に置いていったのだろうか。
この
それとも、あの夢の続きではないのだろうか。
あてもなく、重い足取りで砂浜を歩いていると、
走り寄り、波打ち際にしゃがんで確かめる。
前回の夢で、ナイフの刃に端切れを巻いた。波に
──いる。絶対に。
目覚めの直前まで、あの痩せた体をしっかり抱きしめていた。自分が岸にいるなら、少年もいる。もしくは、いた。
三百六十度、一つの見落としもないように、注意深く観察する。
砂浜には大小さまざまな岩がある。その裏にいるかもしれない。
すでに海から出て、森に入ったかもしれない。この場合、人探しの難易度が上がる。
とりあえず、砂浜を端から端まで歩いてみることにした。
──あの子の名前を聞いてたら、呼びかけられるのに。
悔やんでも
周囲を確認しながら歩いていると、小さな岩の下にある何かが目を引いた。
白くて細い何か。巻貝だろうか。ここでは裸眼でも視力に問題はないのに、つい癖で、目を細めてしまう。
牙だ。少年のペンダントトップだったものか、似ているだけで別のものか。
これも拾って、ウエストリボンに挟んでおく。
少年のものは、眼帯の男の首筋に突き立てられていた。かなり深く食い込んでいたが、抜けたのだろうか。いまいち腑に落ちない。とはいえ、この夢の中で腑に落ちた事態は多くないので、考えても時間の無駄だと割り切る。
視線を前に向けると、数メートル先の岩陰に、革のブーツが見えた。
──あの子だ!
全力疾走する。
緑の髪の子供が、下を向いて倒れている。
顔を見なくてもわかる。夢で出会った少年だ。
ずっと気にかかっていた。その献身に報いたいと思っていた。
少年が砂を
すぐそばで膝をつく。落ち着くために深呼吸してから、大きな声で呼びかける。
「もしもし、大丈夫? 意識はある?」
少年の反応はない。だが、呼吸はしている。
今回も、祖母を介護した経験が活かせるか。仰向けから横向きへの寝返り介助なら何度もしたが、うつ伏せからはどうだっただろう。思い出せない。
記憶を巡らせる。
ここ数日、人工呼吸について調べた時、関連動画をいくつか視聴した。胸骨圧迫やAED、ほかに──そう、体位変換。うつ伏せに倒れた人を仰向けにする、まさにこの状況にぴったりの動画を見た。脳内でリプレイし、手順をおさらいする。ぶっつけ本番だが、助けを求められる人がいない以上、やらねばならない。
「いまから、仰向けにするからね」
少年に聞こえていなくても、声かけから始める。
動画の内容を再現するように、痩せた体を反転させる。特につまずかず、仰向けにできた。
白い砂粒だらけのチョコレート色の肌には、深い傷がある。少年が不死でなければ耐えられなかった。
──違う。
少年の霊魂と
だらだら推察している場合ではない。
少年が斬撃の身代わりになってくれた事実は揺らがないのだ。
知らず、奥歯を
体位変換はよし。息はある。胸は静かに上下している。人工呼吸は必要なさそうだ。では、ほかにできることは。
──せめて、何か手当て、できないかな。何か……。
気休めに過ぎないだろうが、ウエストリボンを包帯代わりに巻くか、と思案する。その時、右のてのひらに何かが
この現象は記憶に新しい。反射的に振り払おうとするのを我慢する。
現れたのは、
瓶の中身は、どろどろした黒っぽい緑の液体だ。
「これ……薬?」
目の前に怪我人がいて、手当てをしたいと思って、出てきたものだ。この状況で、さすがに青汁やヘドロではないと信じたい。
「確かめないと」
薬か。薬なら、飲み薬と塗り薬のどちらか。
ウエストリボンに挟んだナイフを、ちらっと見る。少し悩んで、結局使わないことにした。少年はこのナイフに思い入れがある。そう感じたからだ。
仕方ない。小さく息を吐き、自分の左手の親指の付け根あたりに思いきり噛みつく。
歯で皮膚を食い破る。痛い。口を開いて噛み傷を確かめると、血が出ていた。
紫の血が。
もっとも、血の色より、血が
夢の中のことだ。荒唐無稽な血の色でも、すんなり受け入れられた。
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