ラグナロクの明くる朝 〜女神よ、みめぐみを垂れたまえ〜

若宮 卯芽

夢見鳥(ゆめみどり)

冬終る

 暗闇の中で、紫の光がひとつ、またたいている。

 光はゆっくり、右に左に、上に下に動いている。

 蛍だろうか。だが、色が違う。

 もっとよく見ようと目をこらして、気がついた。


 光は、蝶だった。

 紫のはねがきらきら輝いている。


 誘われるままに目で追いかけて、しばらく。ふっと我に返った。


 自分はいま、眼鏡をかけていないはずだ。親友たちとのメッセージのやりとりを切り上げて、外したはずだ。恋人が出張から帰ってくる明日あしたを待ち遠しく思いながら、一人では広すぎるベッドで眠ったはずだ。

 それならどうして、こんなにくっきり見えるのか。


 おそるおそる目元に指を伸ばせば、何にもさえぎられることなく睫毛まつげに当たった。


 ──どうして? 私は、──。


 ブレーカーが落ちたように、言葉は途切れた。



 ◆



 肌寒さに身ぶるいして、目が覚めた。

 目を閉じたまま、リモコンを探して手をさまよわせたものの、つかめない。


響也きょうやさ〜ん……」


 恋人を呼んでから、出張に行っていることを思い出した。

 仕方なく身を起こして眼鏡を探す。が、必要なかった。


 眼鏡がないのに、見える。


 紫の空は水平線に近づくほど淡く、黒い雲はせわしく流れ、海は鏡のように空と雲を映す。

 そして、船。

 四方しほうを海に囲まれた船の上にいた。船が揺れるたびに、ギシギシと音が鳴る。


 非常事態だ。慌てて立ち上がり、逃げ場もないのに逃げようとした。


 突然、船が大きくね、かと思えば勢いよく落ち、数度バウンドした。波がへりを越えて押し寄せ、たまらず倒れ込む。

 とっさに腕を突っぱろうとして、背筋が凍りつく。


 ──白い。


 波が覆いかぶさり、全身を床に打ちつける。這いつくばったまま、動けずにいる。


 ──腕が、白すぎる。


 メラニン色素が薄いという次元ではない。蝋燭である。輪切りにしたところで、断面に血や肉は見えるのか。それほどの白さ。手も、指も、爪まで全部、真っ白だ。オーバーサイズのパジャマを着ていたのに、腕がむき出しだった。


 行き当たった可能性に、息が苦しい。涙がにじんで視界がぼやける。そのほうが、いつもの景色に似ていた。二、三度まばたきして涙をこぼすと、ありえない現実が戻ってきた。


 誰かに着替えさせられたのだ。震えながら、下半身の感覚を探る。入り口にも奥にも違和感はない。だから、被害にはっていない、はずだ。


「響也さん……」


 もたもたと体を横にし、丸める。目をきつく閉じ、吸って、吐く。吸って、吐く。いつかの夜、そうしたように、吸って、吐く。吸って、吐く。まぶたの裏は白くない。しわさんけー。心配しないでと言って体をさすってくれた、優しいぬくもりを思い出しながら、吸って、吐く。吸って、吐く。痛みと冷たさに邪魔されても、落ち着くまで繰り返す。


 やがて目を開けた。力が入らない足を踏んばって、どうにか立った。頭を振って雫を飛ばしてから、ずぶ濡れの重たいスカートを絞る。くるぶし丈の、白いノースリーブワンピース。買ったことも作ったこともない。スカートをまくりあげて股を見る勇気は出なかった。


「誘拐? 人体実験? ……でも、響也さんが帰る前で、よかった……」


 思考を整理のするためのひとりごとを、意識的に行う。


 体感時間が正しければ、いまは四月二十五日のがた。恋人が出張から帰ってくるのは、昼前の予定だ。

 もし一日でもずれていたら、恋人までこの事態に巻き込まれていたかもしれない。その場合、恋人の安否が気がかりで、帰りたいと強く思えなかっただろう。帰ったところで会えるとは限らないからだ。

 ほんとうに、自分だけでよかった。


「まず……ここ、どこなんだろ……」


 辺りにも、マストの後ろにも、まったく人の姿はない。


 水平線がだんだんとオレンジ色に輝き、紫とのグラデーションが広がってゆく。

 こんな時でなければ見とれていたい、マジックアワーの空と海。そのほかには、島とおぼしき黒い影がいくつかあった。


 船の腹には無数の穴があり、それぞれの穴のそばには備え付けの大きな箱がある。おそらく、オールを通す穴と、オールをぐ人の椅子だろうが、肝心のオールは一本も見当たらない。

 つまり、数十人が漕いで動かす船を完全に風まかせにして、島を目指さなくてはならないということだ。

 無謀すぎる。運が悪ければ、海の上で餓死してしまう。


 そこで、船内を探索することにした。人っ子一人いないおかげで、自由に歩き回れる。誘拐犯は靴を用意してくれなかったので裸足だが、どうしようもない。食糧や手がかり、せめて飲み物があってほしい。


 真っ先に調べたのは樽だ。横置きの樽が、台とロープでがっちり固定されている。耳を近づけると、船の浮き沈みに合わせて、中からちゃぷちゃぷと聞こえてくる。

 あいにく、コップやバケツなどのものは見つけられなかった。


 おそるおそる栓をひねると、予想以上の勢いで液体が噴き出し、甲板から飛沫しぶきがかかった。慌てて栓を閉める。床に広がる液体は透明だ。鼻をくんくんしても、嗅ぎ取れるのは潮の香りだけ。色や臭いから、腐っているサインは認められない。


 今度は、手を受け皿にする。にごりなし。ぬめりなし。ためらいはあったが、舌を伸ばした。

 ふつうの水だ。無味無臭の有害物質が含まれていないことを祈りつつ、飲み干す。


「ひとまず、水不足はまぬがれた……かな」


 とんだサバイバルをいられてしまった。


 荒れる波の音、きしむ船の音。それらに混ざって、船内を漁る物音が響く。


 船の長さは、なじみのあるもの──水中ウォーキングで何度も往復した二十五メートルプール──だった。


 漕ぎ手の椅子は座面を開け閉めでき、中をストッカーとして使用するらしかった。その一つには、おがくずに包まれたりんごがぎゅうぎゅうに詰まっていた。赤いもの、青いもの、どれもがみずみずしく、甘酸っぱい香りがした。


「一日一個で医者いらず……大事に食べよう」


 いまは香りだけで満足して、探索を続ける。


 さきほどの波のせいか、床板の一部が外れていて、その下の収納スペースに重そうな槍や剣がしまわれていることがわかった。


 武器はいったん後回しにして舳先へさきに向かうと、年季を感じる木製の宝箱があった。その大きさは、とてもなじみのあるもの──A4コピー用紙五百枚入り・五セットのダンボール──だった。


 蝶をかたどったじょうは黒く錆びつき、凸凹でこぼこしている。ぼろぼろのふちや鍵穴は、破れた翅や貫かれた胸を連想させた。

 片膝をついて、錠をいじったり、いろいろな角度から見てみたりしたが、掛け金が外れる様子はない。


 ふと、左のてのひらに何かがれた。反射的に腰を浮かし、強く手を振り払う。まさか虫かと鳥肌が立つ。


 は、カツンカツンと高い音を立てながら、あちこちにはじばされたあげく、膝元に戻ってきた。


 虫ではない。


 鍵だ。


 いきなり現れたとしか考えられない、銀色に輝く鍵があった。鍵の頭には、赤、青、緑の三つの宝石が、逆さまになった三つ葉のクローバーのように飾られている。


 中腰を続けるのはつらい。正座してから、ついの存在と思しきものを見比べた。まぶしく磨かれた鍵と、朽ちて古びた錠。保存状態に差がありすぎる。


 しかめっつらをした自覚があった。怪しい。物体も事象も、怪しくないものがない。

 鍵を開けさせるために、引いては宝箱を開けさせるために、誰かが手引きしている気がする。


「……やめといたほうがいい、よね」


 満身創痍の蝶を見つめてつぶやく。宝箱の中身は気になるが、この予感は無視できない。けたたましいアラート音が聞こえてきそうだ。


 一番の目的は食糧である。水とりんごは見つけた。鍵を開けたところで、中にあるのは貴重品だろう。


 とはいえ、鍵をほったらかしにするのも気がかりだ。迷いに迷った末に、鍵を拾った。肌からどんどん熱が奪われる。構わず、氷より冷たい銀色を握りしめ、その場を離れようと立ち上がった。

 その時──。


 後ろから、金属がこすれる高い音がした。

 思わず振り返り、腰を抜かしそうなほどに驚いた。


 ──誰かいる!


 抜き身の剣を構えた、チョコレート色の肌の少年が、そこにいる。

 全身ぐしょぐしょ、緑の髪からしたたる水もそのままに──緑の目をまん丸にさせて、こちらを見ている。

 雨上がりの若葉のような、やわらかい緑だった。

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