ある夏の日の匂い

白秋詩依

プロローグ

じりじりと太陽の光が私に差し込む。頬が照り付けるように熱い。

目を開けると、ただただ広くて青い空が広がっていた。


 私は、体をゆっくりと起こす。頭と背中に鋭い痛みが走った。思わず頭に手を当てる。少したんこぶになっているだろうか。しかし、血は出ていなかった。


 周りを見渡すと、そこには地元でも流れが速く、深いと有名で、地元の人々でさえも近づかない川が横たわっている。河川の色は濁っていて、昨日の雨のおかげだろうと容易に予測が出来た。


 砂利に手をつき、痛む背中と頭をかばいながら立つ。そこで初めて、左足も痛めてしまっていることに気が付いた。きっと捻ってしまったのだろう。左足は内出血しているようで、赤黒く腫れあがっている。見続けたらより痛く感じてしまいそうで、私は短い靴下を最大限引き上げた。


 再び体勢を整えると、目線の先に小さい橋が映った。町と山をつなげる橋で、人がこの橋を利用することはなかなかない。だから、この川でおぼれたりしてしまったり、橋から落ちて川に入ってしまった時には気付かれないのだ。


 自分でそう考えてから、落ちた、という言葉を口内で転がす。そうか、私はきっと橋から落ちて、川に入ってしまったのだ。いや、それとも何かの拍子で川におぼれてしまい、ここに流れ着いたのだろうか。いずれにせよ、命がないのは言うまでもない。

「そっか、私、死んじゃったんだ」

 

小さく声に出しても実感が湧かない。なぜこのように死んでしまったのかが分からないからだろうか。そう、私の死亡時の記憶はきれいさっぱりなくなってしまっていた。交通事故に遭うと、事故時の記憶を短期間なくすことがあると何かの記事で読んだことがある。それと同じようなものだろうか。


そういえば、携帯はあるだろうか。ふと思い立ち、ズボンのポケットなどのありとあらゆるポケットを探った。しかし、何も入っていない。ため息をついたが、すぐにその必要がないことに気がついた。私は死んでいる身なのだ。携帯があったところで、何もすることができないのだ。


そして、そのまま自分の体に目を向ける。擦り傷や足の腫れ、頭や背中の打撲はあるものの、そこまで見苦しくはない状態であった。左手に目をやると、自分が腕時計をしていたことに気が付く。二十時四十二分三十七秒、針は時刻を指したまま止まっていた。


「安いけど、これが俺の気持ち。一年後、遅くても二年後には、俺、頑張って働いて、瑠香に新しい時計をプレゼントするから」


 脳内に男性の声がこだます。ー湊の声だ。それに伴い、彼特有の柑橘系のにおいが思い出された。私には湊という名の、同棲している彼氏がいる。いや、もう私は生きていないから、いた、という分類にされるのだろうか。

 

三年前のことだった。付き合って一年目という記念日に彼から時計を渡された。その頃は、確か私が時計をちょうどなくして新しいものを買おうとしていた時だったので、より嬉しかったのを覚えている。

 

湊との思い出を頭に浮かべると、胸が苦しくなり、涙が頬を伝った。それが始まりとなって、友達の顔、家族の顔も浮かんでくる。なんで死んでしまったのだろう。


「会いたいな」


 ぽつりと声に出した。もう、皆が私を見ることが出来なくても、話すことが出来なくても、会いたい。一目見るだけでもいい。

 

私は、痛む足をさすった。死んでしまったら瞬間移動などの能力が使えると思っていたが、どうやらその技は使えないらしい。それとも、今後使えるようになってくるのだろうか。どちらであろうと、今、私が持っている手段は歩きしかない。ゆっくりと痛めた足を前に出す。

 

まずは、私の家に帰ろう。そして、湊の姿を見たい。

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